第四章 第一話(終)『凶獣事件』
暖炉の薪が、何度爆ぜた事であろう。
既に夜は深まっている。あと数刻も経てば、空も明るくなるような深夜。
ここはメルヴィグ王国王都、レーヴェンラント都内にある覇獣騎士団、弐号獣隊の騎士団堂。その堂舎内の奥深くにある、賓客用の居室。
普段、来客のない時は、主席官のジルヴェスターがここで食事を摂る事も多く、今は二人の部下と、三人の客のため、部屋に暖を入れていた。暖炉だけでなく、冷えた体に熱を戻すため、一同には暖かいスープと食事が並べられ、それを済ませると、今は各々の飲み物を喫している。
既に夕食を済ませていたジルヴェスターには、穀物のブランデー(コルン)が用意され、食事を済ませたレレケの話を、ちびりちびりと飲りながら聞いていた。
話が終わってしばらくしても、全員が何も言葉を発しない。
それぞれ思う所があるからだろう。ジルヴェスターにしても同様だ。彼女の身の上話は、同時に、近年の覇獣騎士団における、栄光と挫折の年月そのものなのだから。彼が弐号獣隊の主席官になったのは、あの事件――ギシャール騒動――よりもずっと以前の事だ。
あの忌まわしき事件は、昨日の事のように覚えている。
無論、身内であったレレケは、彼の何倍もの心痛を感じていたであろうが――。
普段は気に入っているコルンを飲んでも、酔いの欠片もまわってこない。この話を前に、酔いが来る事などないのだろう。
沈黙がカーテンのように部屋を重く閉じていたが、やがてそれを無理矢理こじ開けるように、緑金の髪の少年が、ぼそりと呟いた。
「レレケに、そんな過去が……。ジルヴェスター様はレレケの事……、リッキーさんやマテューさんも、ご存知だったんですね?」
状況を読めば、その事にすぐ気付くのは当然だ。話の間中、視線を伏せていた両人だったが、チラリとイーリオを見つめると、何も言わず、再び押し黙った。沈黙が答え。何も言わない事こそ、その問いを肯定していると、雄弁に物語っている。
知らぬは自分達のみか――。
「けど……何で、レレケのお兄さんの鎧獣は、人を襲ったりしたんですか? 調律だってしたんでしょう? だったらそんな事……あり得ませんよ」
錬獣術師が鎧獣の錬獣を、必ず成功させるとは限らない。失敗だって当然あり、そういった鎧獣は、残念ながら神之眼を残しての殺処分・再生となる。失敗とは、単純に鎧化出来ないという不良品のような類いのものだけでなく、鎧獣として不適切な、いわゆる凶暴な生き物に錬獣されてしまうというものまで含まれる。
ただし、これらの不適切な鎧獣は、〝育成期間〟の段階で必ず発見されてしまう。錬獣してそのまま納めてもらうというような事は、あり得ないのだ。何故なら、授器の精製とそれの調整、結印の刻印などもこの〝育成期間〟に含まれるので、この期間を経ていない鎧獣などあり得ず、それはまた、不適合な鎧獣が世に出る事があり得ないという事実を指している。
父のムスタから教えを受けているイーリオからすれば、レレケの兄、クラウスの鎧獣が人を襲うなどという事は、絶対に認められない事なのだ。だが当然、イーリオが言わずとも、そんな疑問は、とっくに言い尽くされていた。
それでもと、彼は言わずにおれなかった。錬獣術師を父に持つという意味では、レレケと同じ身の上だ。とても人ごとのように感じとれない。
「ンな事ぁ、さんざん言い尽くされてんだよ。この国でも、一番偉ぇ奴らが集まって、ああでもない、こうでもないと何日も何日も議論して――。でも判んねぇんだ。あり得ねえ。あり得ねえけど、起こった事は、事実だ。夢でも幻でもねえ。実際に、王家鎧獣の〝ガルグリム〟は、子供を噛み殺しちまった」
苦々しげに、特に最後の言葉は吐き捨てるように、リッキーが言った。
彼とて当時は、覇獣騎士団の隊員であった。クラウスは彼にとっても憧れであり、全騎士の範となる存在だ。その騎士の頂点が、信じられないような凶事を起こしたのである。複雑な思いを胸中に秘めているのは当然だろう。
イーリオは考える。
クラウスの事件は、どこからどう見ても、あり得ない事の積み重ねで出来ている。それゆえ、当事者も関係者も皆、思考の袋小路に陥ってしまっているのではないだろうか。だが、不可能な事は、不可能。無理に認めようとも、出来ないものはいくら知恵を絞っても出来ない。ならば例えどれだけ認めたくないような真実でも、事件から、不可能な事のみを消去し、可能な事だけを残せば――それが真相なのではあるまいか。
絶対的な前提として、鎧獣は人を襲わない。
襲うとすれば、主に命じられた時か、主を守ろうとする時くらいだ。
この場合、主であるクラウスの命を助けようとガルグリムが飛び込んだ可能性は多いにあり得る。だが、主を助けようとして、そのはずみで相手を噛み殺すなど、あり得るだろうか? しかも相手は無力な子供だ。それはあまりにも過剰防衛すぎる。ならばやはりこの場合、クラウスが命じたと考えるのが妥当だろう。鎧獣に人を襲わせるには、主たる騎士が命じなければ出来ないのだから。
つまり、クラウス自ら、子供二人を噛み殺せと命じた――。
想像してみる――。
突然目の前に飛び出る少年と少女。
乱れる群衆と騎士団の隊列。
駆け寄る子供二人。
そこへ飛び込んだ、巨大な影。
鎧獣。
ガルグリムなる鎧獣がどのような種かは知らないが、覇獣騎士団の総司令なのだから、中・大型猫科動物なのは間違いないだろう。
その猫科猛獣が、牙を剥き、爪を振るう。
飛び散る鮮血。
噛み砕かれる肉と骨の音。
残されたのは、無惨に変わり果てた子供の遺体と――、
血まみれの猛獣――。
想像するだに恐ろしい光景だ。思わず眉間に皺が寄る。それを察したのだろう。レレケがイーリオに向かって優しく声をかけた。
「イーリオ君、貴方が今、考えている事は、この国の誰もが、そして私自身も考えていた事です。やはり、兄が犯人なのではないかと――」
「レレケ」
「でも、やはりそれもあり得ないんです。状況はどう見ても、兄が命じて殺人が起きた事を指していますが、兄はそんな事をする人間じゃない。それこそ、鎧獣が絶対に人を襲わないのと同じくらい、絶対にあり得ないんです。兄自身も否定していました。命じていない、と」
ならば一体――。
そこへ、今まで沈黙を守っていたジルヴェスターが、重い口を開いた。
「……それで、その話と今回のトルベン卿殺害、それにマクデブルク襲撃事件が、どのように関わってくると言うんだね?」
そうだ。問題は過去の謎ではない。レレケは数日来起きている事件と、自分の過去が関係していると言って、この話をしたのだ。自身が錬獣術師の出であるゆえ、つい鎧獣による殺人事件という衝撃的な内容のみ気にしてしまったが、問題はそれではない。
「はい。問題は今回の事件です。殺されたトルベン・ナウマン様は、元々、父の同門でして、フォッケンシュタイナー家とも旧くからの知り合いで、非常に懇意にしておられました。父の時も兄の時も、数少ない我が家の協力者として、とても尽力して下さいました。特に兄の事件には心から胸を痛めておられ、兄の幽閉後、ずっと事件の真相を探っておられたのです。私が今日、トルベン様のもとを訪ねたのも、兄の事件について、何か進捗があったかをお尋ねしようと考えたからです」
「殺害した連中は、事件を探るトルベン卿を邪魔だと思い、殺した、と……?」
「トルベン様を殺し、私を攫った犯人の一人が、言ってました。彼は事件を探るあまり、知ってはいけない事にまで首を突っ込もうとした。だから殺した、と」
この場の全員が思わず顔を上げる。特にジルヴェスターの威圧感は、相当なものだ。
「その話が本当なら、そやつらがクラウス閣下の事件について、何らかの真相を握っているという事だな……!」
「私もその事を尋ねました。けれど犯人の男自身は、その事件に直接関与していないと言ってましたが……それもどこまで本当か判りません」
「それがどうして君を攫い、マクデブルクを襲う事につながるのだね?」
「攫われる直前まで、私も彼の存在を忘れていたんです。……いえ、考えようとしなかったというのが正しいのかもしれません。――トルベン様を殺した連中は、私の使った擬獣を知っていました。知っている、という事は見た事があるという事。その瞬間、思い出したんです。私と、私の師匠以外で、この世でもう一人だけ、獣使術に通じてる者がいる事を。〝彼〟は、とても優秀な錬獣術師であり、同時に唯一人、獣使術を正統に後継するはずだった人物――」
そこでレレケは、一旦言葉を切った。
何かを躊躇うように。何かを振り切るように。
「私の兄弟子、スヴェイン・ブクです」
ジルヴェスターが、今までになく驚愕する。
彼とてその名を忘れたわけではない。だが、忘れていたのだ。何より忘れるよう、きつく言い渡されていたのだから。
「彼なら――、スヴェインなら、獣使術を自分以外の者に教え込む事が出来ます。それほどの腕を持っていますし、何より私自身、かつて彼から、多くの事を教わった身です。そして彼なら、私を攫った目的も明白です。私の獣使師としての力を欲したからです」
リッキーが思わず身を乗り出す。
「ちょ、ちょっと待て! その、いきなり出て来たスヴェインってゆー、おめーの兄弟子が、二年前の事件に関係し、それでその事を探ってたトルベン卿を殺したってのか? しかも、マクデブルクを襲ったのも、そいつだと?」
「はい。私は直接、彼に会って聞きました。間違いありません。それに、リッキーさん達お二人に初めてお会いした時、貴方は私が、私の師匠以外では唯一人の獣使師だと思ったので、逮捕しましたよね。つまり、私でなければ、私以外で獣使術を使える者こそ、あの事件の首謀者であるとしか考えられません。そして、それに該当するのは唯一人、数年前に我が師、工聖ホーラー・ブクより破門を言い渡された、その息子、スヴェイン・ブクしかあり得ないのです」
――何て言った?!
今度はイーリオが驚く番だ。一緒に旅をするドグも驚いている。
ホーラー?
今、レレケは、ホーラーって言わなかったか?
ホーラーと言えば、イーリオの旅の、そもそもの目的。
今は奪われてしまったが、母の形見のペンダントを修理出来る、唯一人の人物の名。そもそもイーリオは、そのホーラーに会うため、旅をはじめたのだ。そのホーラーが、レレケの師匠だったなんて――。
レレケは、イーリオの反応を尤もだというように、彼らに向かって頷いた。
「ご免なさい。私の師匠がホーラーだというのを黙っていた事は謝ります。黙っていたのは大した理由じゃないんですよ……。だから、ペンダントを取り戻した際には、彼のもとへ案内しますよ」
にこりと微笑み、彼らに許しを請う。イーリオとて、許すも許さないもない。目的を達しようにも、肝心のペンダントがない以上、ホーラーに会っても無駄なのだから。ただ、立て続けに告白された内容に、戸惑いを覚え、自分の感情が追いついていけないだけだ。
「そのスヴェインってヤローが犯人か主犯だかだとして、そいつは何で、自分の親父に破門されたんだ?」
「その破門の理由こそ、私の父の事件と関係してくる事です――」
レレケの父の事件。即ち、ウルフバードにまつわる話。誰もが、まさかそこに話が繋がってくるとは思っていなかった――。
「スヴェインはある思想に取り憑かれていました。錬獣術師の中に広く伝わるある伝承――即ち、ウルフバードの伝承です。彼は私の父同様、ウルフバードは実在すると頑に信じていました。あの伝承は本物だと」
ウルフバード。
思わずイーリオは息を呑む。
彼の鎧獣大狼ザイロウの持つ授器こそ、その名をウルフバードと言うのだから、無理もない。話の冒頭、レレケからその名が出た瞬間、思わず声をあげそうになったくらいだ。自分の鎧獣が持つ授器は、彼女の言うウルフバードなのだろうか――?
「それで、それだけで、破門されたってゆーのか?ンな、アブねー思想なのかよ、ウルフバードがあるって思うのがよ」
リッキーの問いは、至極普通の反応だ。宝物の実在を信じる事など、特に悪い事ではないように思える。けれど、とレレケは答えた。
「問題なのは、彼の考え方です。彼は父と違い、ウルフバードを探すのではなく、ウルフバードを造ろうと考えていたのです。伝説の神々が、錬獣術師を指すのであれば、錬獣術師たる自分にだって、ウルフバードを造る事は可能なのではないか、と。そのために様々な生き物を調べ上げ、実験を繰り返していきました。最初は呆れ気味で見ていたホーラー師も、次第に過激になっていく彼の研究を危険視するようになり、何度か止めようとしたのですが、スヴェインは聞く耳を持たず……。それで破門になったというわけです」
「ウルフバードの伝説を信じる危険な獣使師スヴェイン……。そしてそ奴らは、おそらく一人ではない」
ジルヴェスターは、今度はイーリオの方を向いた。
イーリオは頷く。
彼は聞いたからだ。スヴェインなる人物と共にいた、黒髪の美女かと思うほどの美形の男、その彼の言葉を。
男は言った。〝我々〟と。
――我々の名は、〝灰堂騎士団〟。女神オプスの忠実な下僕にして、その先兵。
それが何を意味するのか、今はまだわからない。
「だが、問題はそれだけではないぞ。この事件の裏には、我らが騎士団を陥れようとする者達が暗躍しておる節がある。彼らによれば、トルベン卿殺害現場に、漆号獣隊 の隊章が落ちていたという。これにより近衛兵らは、事件の犯人を覇獣騎士団内に求めようと動いておると聞く。近衛兵全体がそうなのか。それとも何者かに踊らされているのか。現状では判断しかねるが、事態は深刻だ。明朝すぐにでも、儂は陛下のもとへ赴き、事の次第を報告して参ろう。お主らは、とりあえずゆるりと体を休めるが良い。いずれ場合によれば、お主らに直接話を聞く事もあるだろう」
その言葉を潮に、一同は解散となった。一人、また一人と席を立っていく。
けれども、ジルヴェスターを除く全員が、まるで魂を置き忘れたかのような緩慢な動きをしていた。
普段なら、「さっさと動かんかっ!」とジルヴェスターの雷が落ちそうなところだが、さすがに今は、彼もそれを言いはしなかった。
今日のレレケ誘拐以後、全員ずっと気を張りつめていたのだ。しかも、イーリオとドグは、まだまだ子供とも言える見た目と年頃だ。今は休みを与える事が、何よりも年長者たる者の努めだろう。
だが、己の宿に戻ったイーリオは、なかなか寝付く事が出来なかった。
ウルフバード――。
レレケの過去――。
謎の黒い鎧獣――。
灰堂騎士団――。
それらが頭の中でぐるぐるまわり、彼の思考と感情を掻き乱していった。
そして気付いた時には――。
彼は深い眠りの園へと誘われていた。
今は眠るとよいだろう。これから起こる種々の出来事を思えば、こんな一日など、ささやかなものでしかないのだから……。




