第四章 第二話(1)『水槽』
シャルロッタはずっと待っていた。
目を開けると、そこは見知らぬ天井、見知らぬ部屋。ベッドが二つ並んであり、片方に自分。もう片方にはレレケが寝ていた。いつもは自分よりも先に起きている彼女が、今日は欠片も動かない。随分と疲れているのだろう。彼女を無理矢理起こす事は、何だか憚られるような気がした。
シャルロッタは、なるべく物音をたてないように、寝台から体を起こすと、部屋の中を見てまわった。それほど広くはない。ベッド二つの他は小作りのテーブルとイスがそえつけられているだけだ。よくある宿のように思えた。
一つだけある窓。その閉ざされたカーテンの隙間から、光の帯が薄く伸び、部屋にチラチラと舞い踊る残滓を砂粒のように輝かせていた。その隙間を指先一つ分だけ覗き込むと、広々とした中庭が見える。中庭では、たくさんの人間が隊列を組んで何かをしている。まるで数日前、イーリオ達が行っていた〝訓練〟とかいう動きにそっくりだった。
ここはどこだろう? 覚えがあるようなないような……。
太陽の角度と中庭の隊列の影から、時刻は既に朝というには遅すぎるような刻限になっていると感じた。
兎にも角にも、自分一人では何も出来ない。
仕方なく彼女は、レレケが目覚めるの待つ事にした。
おや? そう言えばレレケって、いなくなってたんじゃなかったっけ? ふと、シャルロッタは昨日の記憶を思い出す。それで、イーリオ達と一緒に、ザイロウの〝鼻〟を頼りに、彼女の居場所を探ったのではなかったけ? そうそう、ザイロウ。あの子も自分と一緒におれず、嫌な思いはしてないだろうか。はじめての土地、慣れない居場所に、居心地悪い思いはしてないだろうか? 初めての場所と言えば……と、シャルロッタの思考は、思いついたまま、あちらこちらへと際限なく広がっていく。
やがて、朝食や昼食を飛ばし、今晩の夕食は何だろうというところにまで、連想が繋がっていった頃、自分が今、とてもお腹が空いている事に彼女は気付いた。
イーリオ達と旅をはじめて、彼女にとっては見るもの聞くもの、どれも初めてのものばかりで、新鮮な感動の連続だったのだが、何より〝食べ物〟というものが、彼女にとって一番の感動であった。
あの山で、イーリオ父子と出会うまで、彼女の記憶は殆どない。
〝食事〟の記憶さえないのだ。
とても長い時間、水の中で眠っていたような、そんな景色がうっすらと浮かぶ事しか覚えていない。
その水の中は不思議で、暖かいような、生温いような、それでいて空腹などまるで感じず、とても居心地の良い眠気ばかりが満ちていたのを覚えている。
それがどれほど長い時間だったのか、それとも僅かの間だけだったのか彼女にはまるで判らない。だが時折、イーリオのような緑金の髪をした男が、自分を尋ねに来た事だけは朧げだが覚えている。
男は一人ではなかった。最初の男は若々しかったが、イーリオよりも年嵩の青年だったような気がする。彼は何かを自分に聞いてきたのだが、水の中に居る自分に彼の声は届かない。次に尋ねた男は、最初の男よりも若々しかった。同じように彼女に何か聞いてくるが、やはり何と言っているか判らない。時には壮年の男や初老の男、中には十代にも満たない幼子までいたような気がする。幾人尋ねてきただろう。そのたび彼女は、意識の半分を微睡みの中にたゆたわせながら、聞こえない声を聞いていた。
ザイロウは最初からずっと、彼女の側にいた。そう、彼女の失われた記憶のそのはじまりからずっと。まるでザイロウが彼女の半身であるかのように。水の中に居たせいか時々姿が見えない時もあったが、次に目が覚めた時には、必ず傍らで蹲っている。そのたび彼女は安堵したものだ。
そんな時間がどれくらい経った頃だろう。ある時いつもの緑金の髪をした人物ではなく、白髪に近い金髪をした鷲鼻の小男と、金髪碧眼の少年が彼女の前に表れた。いつもの人間ではない事に、何故だかひどく嫌な気分を覚え、彼女は拒絶するように固く目を閉じた。少年はいつもの男達同様の台詞を言っているようだったが、彼女は聞きたくなかった。頑に目を閉じ、無理矢理眠りにつこうとする。だが少年はしつこく、何度も何度も彼女の元を訪れた。
いやだ。言わないで。貴方の言葉は聞きたくない。
いつもの人は。いつもの人達はどこ?
眠りを妨げられ、彼女がいい加減うんざりした頃――。
彼女の周囲を包んでいた水が、気付けばなくなっていた。
目の前には心配そうに覗き込む、ザイロウの顔。白銀の狼は舌を出して彼女の顔を舐めると、鼻を鳴らし、彼女の覚醒を促す。
彼女は気付いていた。目覚めのときだと。
〝彼〟が現れたのだと。
気付いた時にはザイロウの背に跨がり、外の世界に飛び出していた。生まれて初めて目にする外界。だが不思議と、木も草も水も動物達や虫達も、どれも彼女は初めて目にするものではない気がした。確かに初めて見るはずなのに、どれも知っている。
そうして、ザイロウは駆けに駆け、少女と大狼は、少年と出会ったのであった――。
「起きてたんですね。シャルロッタさん」
虚ろな眼差しで部屋に差し込む光を眺めていたら、ベッドで横になっていたレレケが、体を起こしていた。体はとても辛そうだが、どこにも傷はない。
良かった。これで朝ご飯が食べられる。
今にも空腹の虫が鳴り出しそうだったシャルロッタは、喜び勇んで立ち上がる。
「行こう、レレケ。お腹空いてもうペッコペコ」
先ほどまで思い出していた断片的な記憶も、昨日のレレケ誘拐の事もすっかり忘れ、今は朝食の事しか考えていない。そんな彼女の姿に優しげな苦笑いを浮かべるレレケ。けれど自分もそこそこ空腹な事に気付き、彼女はシャルロッタの提案に喜んで賛意を示した。
シャルロッタがこの場所をどこなのか判らなかったのも無理はない。彼女が弐号獣隊 の騎士団堂に来たのは昨日の夕刻。今朝目覚めた来客用の自室に行ったのは、彼女がリッペ卿の屋敷を張り込んでいる最中、睡魔に耐えられずに寝てしまった後、イーリオとマテューに抱えられ眠ったまま横にしてくれたからだ。
先ほどの部屋だけでなく、明るい中で見る騎士団堂の内部は、彼女にとって物珍しさに溢れている。それのあちこちに目を泳がせた後、彼女らは食堂でイーリオ達と合流し、遅い朝食を摂った。
時刻は昼の一時だという。
さすがに騎士団員であるリッキーとマテューは、午前中には起床して公務に励んでいたものの、彼らも明け方近くまでレレケの身の上話からはじまる一連の事件について話し込んでいたのだ。いつもよりかなり遅い時間まで、両名共に眠り込んでいたらしい。
朝食兼昼食を摂っていたイーリオらは、いつものシャルロッタの健啖家っぷりを相変わらずだと感心しながら眺めていた。軽く四人前は平らげたのだから、それもむべなるかな。
ただ、いつもの彼女ならそんな皆の視線を毛程も気にしないのだが、今朝の記憶の断片が頭の片隅に淀んでいたのか、何故だか少し煩わしく感じた。
イーリオの頭を凝っと見つめるシャルロッタ。「な、何?」と問われた後で、彼の髪の毛をわしゃわしゃっと撫でる。
突然の奇行に、どう反応していいかわからない。
「な、何? 何なの、シャルロッタ?」
ひとしきり撫でまくった後「イーリオは大丈夫」と告げた。
言われた方も見ていた周りも、何が何やら判らない。彼女の中だけで完結している事だが、実は彼女自身もよく判っていなかった。予測不能なシャルロッタの行動にもいい加減馴染んできたように思っていた一同だったが、やはり彼女は意味不明だ。
とはいっても、シャルロッタの事を話の通じない相互理解に問題のある人間だなどとは、一同も思っていなかった。話は通じるし、それどころか不意に理知的な言葉を口にする事もある。ただ時折、今のような突拍子もない言動をしたり、予測不能な奇矯に出たりもする。それでもしばらく時間が経つと、そんな彼女の奇妙な振る舞いには意味があったのだと気付かされる事も多かった。少なくともイーリオにとってはそうであった。
イーリオと出会った時「守って」と言った言葉もそうだ。
ただ単に自分を守って欲しいという意味だけではなく、彼女を守る時にしか鎧化出来ないザイロウという存在も含め、一緒に〝まもって〟欲しかったのだと、今になってイーリオはしみじみと思う。
そうは言っても、先ほどの行動がどういう意味であったのかなど、当然分かるはずもない。
シャルロッタが何か言おうと口を開きかけた時だった。
イーリオ達の前に公務をしているはずのリッキーが姿をあらわし、彼女の言葉を遮ったのだ。
「おお、やっぱ、ココに居たか」
振り返った瞬間、何を言おうとしていたのか今の一言ですっかり頭から飛んでしまうシャルロッタ。
思わずリッキーを、噛み付くような目で睨みつける。
唸り声でも聞こえそうな視線を受けたリッキーは、意味が判らず「な、何だ?」と戸惑った。さしもののリッキーも、シャルロッタの前では凄んでみせられないようだ。まあそういうところが、彼の良い部分ではあるのだが。
「オレ、何かしたか?」
首をすくめる一同。シャルロッタのみ、重い目つきをしている。
「ま、まぁイイや。ンな事よりオメーらに呼び出しだ。急いで支度をして、オレに付いて来い」
「呼び出し? 誰から?」
次のリッキーの一言は、まるで予期せぬものだった。
「国王陛下だ」
固まるイーリオ。
何で? 何で自分達が、この国の国王に呼び出される? 昨夜の事? 昨夜の事件の事? そんな言葉が頭の上で踊っているイーリオだったが、シャルロッタにはむしろ戸惑うイーリオの態度の方が、訳が分からない。
怪訝な表情で見つめる彼女にとって、国王だろうと皇帝だろうと、イーリオ達に比べたらどうでも良い事なのだ。




