第一章 時計塔から消えた青い星 その①青い星と銀の鳥
グレイヴェル中央駅に汽車が滑り込んだのは、午後二時十三分だった。長い汽笛が響き、窓の外が真っ白になる。
何事かとリズが身を乗り出すと、汽車から吐き出された蒸気がホームを覆っていた。やがて風に押されて白い幕がほどけ、その向こうから少しずつ街の姿が現れる。
赤茶色の煉瓦を積み上げた高い建物。壁や屋根を縫うように走る太い蒸気管。真鍮の看板。馬車の隣を、煙を吐きながら走っていく三輪の機械車。どこかで鐘が鳴り、別の場所では金属同士がぶつかる甲高い音がした。
「……すごい」
リズは思わず呟いた。
十八年間暮らした村では、夕方になれば聞こえるのは風に揺れる木々と家畜の声くらいだった。グレイヴェルはまるで、街そのものが巨大な機械になって動いているようだ。
そして、その中心に一本の時計塔がそびえていた。
周囲の建物より頭ひとつ高く、巨大な文字盤が駅の方を向いている。針が示しているのは、二時十三分。その中央に――青い光があった。
「星……?」
八つの尖りを持つ、小さな青い星。午後の日差しの中でもはっきり分かるほど鮮やかで、深い青色をしている。
きれい。もっとよく見ようと窓へ近づいたところで、汽車の扉が開いた。
「あ」
見惚れている場合ではなかった。リズは慌てて鞄を肩に掛け、大きな旅行鞄を引っ張り出した。今日からこの街で暮らすのだ。所持金は銀貨十二枚と銅貨七枚。宿は三日分だけ取ってある。
そして肝心の仕事は――まだ決まっていない。
「まずは仕事探しだよね」
自分に言い聞かせ、汽車を降りる。
都会へ来たことへの期待と、ちゃんと暮らしていけるだろうかという不安。その両方を抱えながら駅舎を抜け、広場へ出ようとした、そのときだった。
「危ない!」
「え?」
反射的に足を止める。リズの靴のつま先から、ほんの数センチ。銀色の小さな鳥が転がっていた。
「踏むところだったよ」
声をかけてきたのは、リズより少し年下に見える少年だった。黒い髪に灰色の目。黒い上着の襟元から白いシャツが覗き、額には革製のゴーグルを載せている。
その隣には、よく似た顔立ちの少女が立っていた。顎の辺りで切り揃えられた黒髪に、深い青色のリボン。
双子だろうか。
「教えてくれてありがとう。全然気づかなかった」
リズは旅行鞄を置き、銀色の鳥を拾い上げた。手のひらに乗るほどの大きさだ。羽根の隙間から細かな歯車が覗き、片方の目にだけ、深い青色のガラスが嵌められている。
「これ、二人の?」
「違うよ」
少年が首を振った。
「機械鳥は珍しくないけど、それは見たことないなあ」
「郵便局や商会の印もないわね」
少女が覗き込む。
「それに古そう。今の機械鳥は羽根の歯車をこんなに露出させないもの」
「じゃあ落とし物かな」
リズは辺りを見回した。汽車が到着したばかりで、広場には大勢の人がいる。
その向こう側、人の流れに逆らうように立っている人物が、一瞬だけ目に入った。灰色の長いコートに帽子を深く被っている。
こんなに暖かい日に、ずいぶん重そうな服だな。
そう思ったところで、駅から噴き出した白い蒸気が視界を遮った。次に見たときには、もういなかった。
「どうしたの?」
「ううん。なんでも――」
カチ。
手の中で音がした。
「え?」
銀色の鳥の胸が、ひとりでに開いている。
「おおっ」
少年が途端に目を輝かせた。
小さな胸の中から、折り畳まれた紙が一枚落ちた。
リズはそれを拾う。古びた紙に、黒いインクで文章が記されていた。
――青い星が消える日に、王の忘れ物は再び光を見る。
その下には三つの数字。
VII ― III ― XI
「……青い星」
リズは時計塔を振り返った。そして、立ち止まった。
「ない」
「何が?」
「星。さっき時計の真ん中にあったの」
今、時計塔の中央にあるのは小さな金色の円盤だけだ。
「青い星があったの?」
少女が尋ねる。
「うん。八つ尖りの。汽車が着いたときだから……二時十三分」
少年と少女が顔を見合わせた。
「僕、あの時計塔なら何百回も見てるけど、そんなの見たことない」
「私も」
「でも、あったよ」
リズは言い切った。自分でも不思議なくらい確信がある。昔から、一度見たものを覚えるのは得意だった。
村の外れにはよく似た畑道が何本もあったが、迷ったことは一度もない。曲がり角の石の形や、柵の壊れ方や、道端に生えた木まで、見れば自然と頭に残った。
「二時十三分。八つ尖りで、青。真ん中にあった」
「そこまで覚えてるの?」
「うん」
少年の顔がぱっと明るくなった。
「面白い」
「ノア」
少女が低い声を出す。
「だって面白いだろ? 謎の機械鳥を拾ったら『青い星が消える日に』って書いてあって、その直前にこの子だけ青い星を見てるんだよ。事件の始まりっぽい!」
「まだ事件とは決まってない」
「でも絶対何かあるって」
「あなた、事件にしたいだけでしょ」
リズは思わず笑った。
「あ、ごめん。私、まだ名乗ってなかったね。リズ。今日、グレイヴェルに来たばかりなの」
「僕はノア!」
少年は嬉しそうに胸を張った。
「ネリーよ。ノアの双子の妹」
「やっぱり双子なんだ」
「私の方が三分あとに生まれた」
「三分なんて誤差だよ」
「お兄ちゃんぶるには十分らしいわ」
どうやら仲はいいらしい。
三人でしばらく時計塔を見ていると、二時半になった。塔の側面から白い蒸気が勢いよく噴き出す。
その瞬間。
「あっ」
文字盤の中央で、青い光が一度だけ瞬いた。
「今の見た!?」
「見た」
ネリーも頷く。
けれど、あまりに一瞬だった。
「星の形だった?」
ノアに聞かれ、リズは首を振った。
「分からない。でも最初に見たのは絶対に星だった」
ネリーは時計塔ではなく、その向こうを見ていた。
「あれの光かもしれない」
建物の屋根に、巨大な真鍮の円盤がある。太陽を追うように、ゆっくりと向きを変えていた。
「太陽光集積器よ。街の照明や工場で使うために光と熱を集めてるの。時計塔の青い光も、どこかから反射させてるのかも」
「じゃあ、あの星も?」
「可能性はあるわね」
リズは時計塔を見る。気になる、とても気になる。
『青い星』、『機械鳥』、『王の忘れ物』、『VII、III、XI』。
どう考えても、偶然とは思えない。
「よし、調べよう!」
ノアが言った。
「あのね、ノア」
「なに?」
「私もすごく気になるんだけど……」
リズは足元の大きな旅行鞄を指差した。
「先にこれ、宿に置いてきてもいい?」
「今!?」
「だって重いんだもん」
ネリーが吹き出した。
「私はリズが正しいと思う」
「事件が逃げるかもしれないよ?」
「事件かどうかも分からないものに、旅行鞄を持って走り回る方がおかしいでしょ」
「それに私、仕事も探さないといけないし」
「仕事?」
「うん。三日分しか宿を取ってないから、できれば早めに」
ノアが目を丸くする。
「それは事件より先だ」
「でしょう?」
ようやく意見が一致した。
宿《眠り鹿亭》は駅から西へ十五分ほどの場所にあった。
ノアとネリーは、どうせ暇だから、と案内してくれた。
時計店の角を左へ。看板には、針のない懐中時計。細い橋の手前には、片方の翼を失った天使像。橋を渡って坂を上ると、青い扉のパン屋。
知らない街を歩くのは楽しかった。リズは目に入るものを一つずつ覚えていった。
宿の部屋に旅行鞄を置き、銀の鳥を机に載せる。
そこで初めて、開いた胸の蓋の裏側にも刻印があることに気づいた。
小さな王冠。その下に、
G.R. 1831
「1831年……?」
今年は1874年。四十三年前だ。でも、この街に来たばかりのリズは歴史なんて知らない。2人に聞いてみようかな。
「これ、やっぱり古いものなんじゃない?」
「ベル爺なら分かるかも!」
「ベル爺?」
「歴史と古い機械に詳しい人。あと紅茶がおいしい」
ノアが答える。
「スコーンも」
ネリーが付け加えた。
リズは銀の鳥を見る。仕事探しは頭の片隅にちゃんとある。ちゃんとあるのだけれど、どうにも放っておけなかった。
「……ちょっとだけ聞きに行ってみようかな」
《The Brass Robin――真鍮の駒鳥亭》は、細い路地の角にあった。
深緑の扉の上に、真鍮製の小さな駒鳥が揺れている。扉を開けた瞬間、リズは足を止めた。
好き。
理由を考えるより先に、そう思った。
琥珀色のランプ、壁一面の本、大小さまざまな時計。棚には、何に使うのか分からない真鍮の機械。奥から紅茶と焼き菓子の甘い香りがする。
「いらっしゃい」
カウンターの向こうから声をかけたのは、白髪に銀縁眼鏡をかけた老人だった。深い葡萄酒色のベストを着ている。とても渋くてエレガントだ。
「ベル爺、事件!」
「違います」
ネリーが即座に訂正した。
「まだ事件かどうかは分かりません」
「ネリーは慎重だね」
老人――エドマンド・ベルは楽しそうに笑った。
「初めまして。リズです。今日この街に来たばかりなんですけど……ちょっと見ていただきたいものがあって」
銀の機械鳥をカウンターに置く。
ベルの視線が、その胸の刻印へ落ちた。ほんの一瞬彼の手が止まった。
そして、隣にいたノアもわずかに表情を変えた。
リズは二人を見た。何も言わない。でも、覚えておく。
「G.R.か。おそらくGeorge Rex――王室を示す印だろう」
ベルは眼鏡を押し上げると、三人に紅茶を淹れ、スコーンを出してくれた。
クロテッドクリームと苺のジャム。
一口食べたリズは、謎とは別の意味でこの店へ来てよかったと思った。
「グレイヴェルには昔、《王立機巧研究所》という施設があった」
ベルは静かに話し始めた。
かつてこの街には、王の支援を受けて多くの技師が集まっていたようだ。ところが1831年、研究所は閉鎖。その直前まで、《ブルー・スター計画》と呼ばれる研究が行われていたという。
「ブルー・スター……」
「記録のほとんどは失われている。それから、もう一つ妙な話がある」
研究所が閉鎖される直前に王室から研究所へ預けられていた何かが、公式の記録から消えたらしい。それは、宝石だったのか、機械だったのか、はたまた文書だったのか。それすら分からない。
後世の人々は、それをこう呼んだ。
「《王の忘れ物》」
リズはポケットから紙を取り出した。
――青い星が消える日に、王の忘れ物は再び光を見る。
繋がった。
「壁にかかっているあの古い地図を見てもいいですか?」
「もちろん」
リズが気になっていたのは、壁にかかっていた1842年のグレイヴェル市街図だった。今日街を歩いたが、古地図とは違う気がしたのだ。
現在の地図と並べると、やはり街はずいぶん変わっているようだった。
中央駅はまだ存在しない。今の時計塔が建つ場所には、王立機巧研究所。そして西側に
《聖オルフェウス礼拝堂》
今はもうない建物だ。その横に、小さな八つ尖りの星。さらに、VII。
「……七」
最初の数字だ。リズはもう一度地図を見つめる。
そして、宿へ向かった道を頭の中で辿った。時計店、針のない看板、橋。そして片翼の天使、その台座でたしかに見たのだ。
「三」
「え?」
「IIIも見た」
リズは現在の地図で場所を指す。
「この天使像。台座にIIIって刻んであった」
ノアが身を乗り出した。
「じゃあ、残りはXI!」
二つの地点を線で結ぶ。VIIからIII。その線をさらに東へ伸ばす。時計塔を通り、辿り着いた先は――市立博物館。古地図では、《王立天文観測所・旧館》。その横に、小さく、XI。
三人は黙った。
VII。
III。
XI。
ただ並んでいるだけだと思っていた数字が、グレイヴェルの街の中で一本の線になった。
「これ……」
ノアが嬉しそうに顔を上げる。
「絶対、何かあるよ」
ネリーも今度は否定しなかった。
リズは古地図を見る。最初のVII。今は存在しない礼拝堂。
そこへ行けば、何か分かるかもしれない。
その時なぜかふと、駅で見た光景が蘇った。
白い蒸気の向こうに見えた灰色の長いコート。あの人は、機械鳥のすぐ近くにいた。ただの通行人だったのだろうか。
窓の外では、夕方の光を浴びた時計塔が街を見下ろしている。
青い星は、もうない。
リズはテーブルの上の銀色の鳥に触れた。知らない街へ来て、まだ数時間しか経っていない。そして仕事だって見つかっていない。
それなのに、もう気になってしまった。
知らないままにしておくには、少しだけ知りすぎてしまったのだ。
――さて、リズはどうする?




