第1話 Re:start
その日は平和だった。昨日と変わらない一日になるはずだった。
けれど、確かに何かが繋がった日だった。
世界中の画面から、同時に音が消えた。
朝食を囲む食卓で。授業中の教室で。
会議が続く会社で。駅のホームで。
街頭の巨大スクリーンで。
ニュースも、広告も、動画も途切れた。画面が暗転し、見慣れた日常が一瞬だけ世界から消えた。
数秒後、すべての画面に、一人の男が現れた。
黒い外套。額から顎までを隙間なく覆う、黒く無機質な仮面。
顔の輪郭に沿うように成形された表面には、装飾らしい装飾がない。
目元だけが光の加減によってかすかに窪んで見えた。表情はおろか、年齢すら判然としない。
背後には、風にさらされた金属の壁があった。
剥き出しの配管が壁を這い、細かな光が不規則に明滅している。
画面の端には、巨大な構造物の影が伸びていた。
軍事施設か、廃墟か。それとも、誰も知らない場所なのか。
男は、カメラの向こうを見つめていた。
『僕は――』
声が途切れた。
ほんのわずかな間だった。
男の頭が、わずかに下がる。
次に顔を上げたとき、その声はもう先ほどとは違っていた。
『……私はネクサス。この世界を原初に戻し、正しい形へと導く者だ』
その瞬間、彼を英雄と呼ぶ者は、まだいなかった。
画面の隅には、人類統合機構の報道局を示す紋章が浮かんでいた。
しかし、聞こえてくる音声は公式放送のものではない。
何者かが通信網に割り込み、世界中の公共回線を通じて映像を流しているらしかった。
男の背後に、別の映像が重なった。
月面を進む軍用車両。地表に穿たれた巨大な採掘施設。
武装した兵士たちが互いに銃を向ける光景。
続いて、内部文書の画像が次々と映し出された。
非公開の軍事作戦、資源開発計画、関係者の名前。
いずれも、人類統合機構の管理下にあるはずの情報だった。
「……何だ、これ」
自宅の食卓で、男が箸を置いた。
教室では、生徒たちが机の上の端末を操作していた。
教師は授業を続けようとしたが、誰も黒板を見ていない。
会社の会議室では、役員の一人が画面を指さし、駅のホームでは、電車の到着を告げる音声が流れても、人々は動かなかった。
誰もが同じ映像を見ていた。
だが、同じものを見て、同じことを考える人間はいなかった。
「反統合組織の残党か?」
街頭スクリーンの前で、男が呟いた。
隣にいた女は答えなかった。
ただ、画面を見つめたまま、買い物袋を握り直した。
人類統合機構の医療支援によって、彼女の母親は命を救われた。
彼女にとって、人類統合機構は遠い権力者の集まりではない。
失えば困るものを、確かに与えてくれた存在だった。
画面の向こうで、男が再び口を開いた。
『人類統合機構は、私たちに平和を与えた』
わずかな間があった。
『飢える人間は減った。国同士の大規模な戦争も、以前よりずっと少なくなった。治療を受けられずに死ぬ人間も、学ぶ機会を奪われる人間も減った』
男は、背後の映像を振り返らなかった。
『人類統合機構が築いてきたものを、私は否定するつもりはない』
声に怒りはなかった。
だからこそ、その言葉は奇妙なほどよく通った。
『だが、平和を守るためなら、何を決めてもいいのか。誰の声も聞かなくていいのか。誰かの人生を、本人に代わって決めてもいいのか』
男は一度、言葉を切った。
『何より、私たちは何も知らずにいていいのか』
教室の一角で、生徒が顔を上げた。
月面戦争の噂については、以前から断片的な報道があった。
けれど、どれも短く、詳しいことは分からなかった。
画面に映る資料が本物なのか、何者かが都合よく編集したものなのか。
それさえ判断できない。
それでも、生徒は画面から目を離さなかった。
『私たちは、真実を知らなければならない』
男は、再び沈黙した。
『だからといって、戦争を始めるためでも、人類統合機構に取って代わるためでもない』
誰かが笑った。
街頭スクリーンの前だった。
芝居がかった反政府演説だと思ったのかもしれない。
別の誰かは、端末を掲げて映像を録画していた。
家の中では、テレビの音量を上げる者がいた。
会社では、上司の制止を無視して、社員が個人端末に映像を保存し始めた。
世界中で、無数の人間が立ち止まっていた。
仮面の男は、その反応を知る由もない。
いや、知っていたとしても、何も変わらなかったのかもしれない。
『私は、この世界を救いたい』
声は最後まで静かだった。
映像が途切れた。
世界中の画面が暗転し、数秒後、何事もなかったかのように通常の放送へ戻った。
人類統合機構の広報官が、通信障害について説明していた。
社会基盤は正常に稼働している。
映像の内容については確認中である。
市民は落ち着いて行動してほしい。
食卓には、冷めた朝食が残されていた。
教室では、教師が何事もなかったかのように授業を再開しようとしていた。
会議室では、誰も議事録の続きを開こうとしなかった。
街には、買い物袋が擦れる音が戻った。
案内端末が電子音を鳴らし、子どもが母親の手を引いて歩き始めた。
人々は、それぞれの日常へ戻っていった。
だが、映像を見た者の中には、あの男の言葉を忘れられない者もいた。
世界を救うという宣言に希望を見いだした者。
平和を壊す脅威だと考えた者。
真実を語る英雄なのか、世間を騒がせるだけの愚か者なのか、判断を保留した者。
男が何者なのか、誰も知らなかった。
なぜネクサスと名乗ったのか。なぜ仮面をつけていたのか。
何を原初に戻そうとしているのか。
その答えを知る者は、まだいない。
ただ一つ確かなことがあった。
その声を、一人の高校生の声と結びつけた者は、世界中に一人もいなかった。




