第53話 ……男じゃない?
地下の研究室は、夜になると通りを走る荷馬車の振動も届かなかった。
作業台の油灯が、薬瓶の底を丸く照らしている。棚には干した草根と、蒸留した硝石液の小瓶が整然と並んでいた。帳簿の隅に引いた二重線の横には、今夜使える研究費の残高が几帳面に書き留めてある。
「……国家規格の話がいくら進んでも、こっちの数字は一ミリも動かないんだよな」
リョウは革の作業着の紐を緩め、卓の上の小瓶を指先で弾いた。
今夜試すのは、「伸長」と「維持」の並行定着だ。フェルに精製してもらった巨木の細胞活性樹液の濃縮液に、刺激性の強い鉱物粉末を微量だけ混ぜてある。前回のふにゃふにゃ化の反省を踏まえ、組織の硬度を保ちながら外縁部を押し広げる狙いだった。
調合液を硝子棒ですくい、薄く塗り広げる。直後、腰のあたりにじわりと熱が広がった。
「お……?」
リョウは息を呑み、作業台の端を両手で掴んだ。熱は下腹部から全身の皮膚へと一気に駆け上がっていく。
「来たか……?」
急いで下着をずらし、手鏡をかざす。
……変わっていなかった。
長さも、太さも、前世の半分になった時のまま、微動だにしていない。
「変わってないな」
その代わり、別の異変が訪れた。シャツの麻布が肌をこすった瞬間、チクリとした鋭い痛みが走った。まるで針の先で撫でられたような感触だった。作業着の縫い目、襟元の折り返し、袖口の留め糸の感触までもが、皮膚を通して驚くほど鮮明に伝わってくる。
「……何だこれ」
指先で自分の手の甲を撫でてみる。指紋の凹凸や手の甲の産毛一本一本の感触まで、ぞわぞわするほど鮮明に伝わってくる。
「……サイズは一ミリも動かないくせに、皮膚の感覚だけ無駄に研ぎ澄まされてどうするんだ」
溜め息をついて薬瓶を片付けた。前回の実験では、数時間で元に戻った。今回も同じだろうと踏んだが、ベッドに入ってもシーツの繊維が肌に触れるたび、そわそわして夜明けまで熟睡できなかった。
翌朝、裏庭の空気はまだひんやりと冷たかった。
ルイーナが手配した王国騎士団の軍用荷車が、すでに中庭の真ん中に据え付けられていた。大径の車輪、厚い樫の木の荷台、泥よけの鉄板。普段の下町の荷車よりも一回り大きく、頑丈に作られている。
エレンとリィは、約束通りの時刻にやってきた。
エレンは昨日と同じく、襟元をきっちり留めた細身の騎士服を着ていた。リィは昨日リョウから貰った乳白色のゲル座布団を、大事そうに脇に抱えている。
「荷車は用意できたようだな」
「ええ。騎士団の輜重隊が実際に使っているものと同じ型です」
ルイーナが荷台の留め木を叩いてみせた。
「コンテナを二台、前後に載せる。金具の噛み合わせと、振動による緩みを見る。カーナ、積み込みを頼む」
「へいへい。お前ら足元に気をつけろよ、荷台の板が朝露で濡れて滑るからな」
カーナが職人たちに指示を出し、保冷コンテナを滑車で荷台へと引き上げていく。
エレンは腕を組み、下から眺めているだけでは飽き足らない様子で、荷車の踏み台に足をかけた。
「おい査察官、上るのか?」
カーナが眉をひそめた。
「上から噛み合わせの隙間を見る。図面と現物は違う」
「靴底が濡れてんだろ。滑って落ちても知らねえぞ」
「子供ではない」
エレンは手際よく荷台の縁に手をかけ、ひらりと身軽に飛び乗った。
荷台の上で、エレンは膝をつき、コンテナの隅金具と荷台の固定枠が噛み合う箇所を指先でなぞった。覗き込むその横顔は真剣で、金具の寸法が正しく機能しているかを確かめる瞳には一片の淀みもなかった。
「……隙間は半ミリもないな。揺すっても金具が浮かない」
「走行中の振動で金具同士が擦れ合って締まる設計にしてあります。外す時は、横のピンを抜くだけです」
リョウが荷台の下から説明した。エレンは満足そうに頷き、立ち上がった。
「分かった。下りて全体のバランスを――」
言いかけた瞬間だった。荷台の端に置かれた樫の木の床板が、朝露でぬめっていた。エレンの靴底が、つるりと滑る。
「あっ」
短い声が漏れ、エレンの身体が荷台の縁から外側へと傾いた。
「危ない!」
リョウは考えるより先に、荷車の脇へ踏み込んで両腕を伸ばした。
落ちてきたエレンの身体を、下から抱き止める。勢いでよろめき、リョウの背中が荷車の車輪にぶつかった。腕の中にすっぽりとその身体が収まり、腰を支えた腕と胸元が強く密着する。
ほんの一瞬のことだった。だが、昨夜の薬の影響が、リョウの皮膚感覚を異常なまでに研ぎ澄ましていた。
腕と胸越しに伝わってきたのは、鍛えられた兵士の骨太な感触ではない。掌に触れる腰回りの細さ、胸を押さえ込むように幾重にもきつく巻かれた布、その下にある消しきれない柔らかな感触。汗に混じって、普段なら気づかないほど微かな香油の匂いまでが鼻腔をかすめた。
リョウの思考が止まった。
……女だ。
エレンもまた、目を見開いたまま固まっていた。二人の視線が、数十センチの距離で完全に交差する。
「お、おいリョウ! 大丈夫か!」
カーナの怒鳴り声で、リョウは我に返った。慌てて腕の力を抜き、エレンの身体を地面へと下ろす。手を離した瞬間、触れていた掌が火傷でもしたように熱かった。
「……すみません」
リョウの声は、自分でも驚くほど上擦っていた。
エレンは乱れた上着の襟元を片手でさっと押さえ、一度だけ小さく息を整えた。その白い頬が、わずかに朱に染まっている。
「……いや。助かった。怪我はない」
「お怪我はありませんか? どこか打ち付けたりは」
「ないと言っている」
「……そうですか。それは、重畳です」
敬語が二重三重に重なり、言葉が妙に硬くなる。エレンはその様子を、細めた目でじっと見つめていた。
「何だ、無事か。驚かせやがって。だから言っただろ、朝露で滑るってよ」
カーナが工具を持ったまま駆け寄ってきて、エレンの背中を無遠慮にバシバシと叩いた。エレンはわずかに眉を寄せたが、何も言わずに埃を払った。
ルイーナが馬車止めの方から視線を向けていた。リィは荷台の陰からひょっこり顔を出し、リョウとエレンの様子を不思議そうに眺めている。
リョウは逃げるように荷車の影へ回り込み、腰の帳簿を開いた。しかし、紙の上に並んだ数字が何一つ頭に入ってこない。
間違いない、女性だ。あの腰の細さや胸の感触、骨格、何より幾重にも巻かれた晒。どう考えても男の体つきではなかった。
なぜ男装しているのか。王宮の特別査察官という肩書きで、こんな下町までわざわざ足を運んでくる高位の人物だ。もし王族や大貴族の血縁だとしたら、下手にその秘密を暴いた時点で首がいくつあっても足りない。
商人としての生存本能が激しく警鐘を鳴らしていた。触れてはいけない。聞いてはいけない。詮索してもいけない。
リョウは帳簿を力任せに閉じ、胸の内で強く念じた。
知らないことにする。それが一番安全だ。
積載試験は、夕暮れ時まで続いた。荷車に重りを載せて裏通りを走らせ、金具の緩みや防振ゲルの変形度合いを細かく記録した。結果は上々で、ボルト一本の緩みも出なかった。
職人たちが解散し、裏庭に長い影が伸び始めた頃、エレンが一人でリョウの元へ歩み寄ってきた。
リョウは作業台の上で、ノギスを油布で拭いていた。
「リョウ」
「はい。本日の試験記録なら、いま清書を――」
「リョウ」
もう一度、静かに名前を呼ばれた。
リョウは手を止め、ゆっくりと顔を上げた。
夕日が裏庭へ差し込んでいた。エレンは眩しそうに少し目を細めている。
昨日までなら何とも思わなかった顔が、今は妙に見づらかった。
「……気づいたな?」
裏庭の空気が、ぴたりと止まった。
リョウは一拍の間を置き、手元のノギスをそっと台の上に置いた。
「何にでしょう」
「商人のくせに、嘘が下手だな」
エレンがわずかに口元を緩めた。だがその目は笑っていない。
「朝から私の顔を見ない。話しかける時だけ妙に丁寧だ。……分かりやすいぞ」
「契約なら、もう少し上手くやりますよ」
「だろうな」
エレンは腕を組み、視線を荷車の方へ向けた。
「言わないのか。『なぜ騙した』と」
リョウは油布を四角く折り畳んだ。
「言いたくないことなら、聞きません」
エレンの眉がわずかに動いた。
「理由もか?」
「ええ。契約に関係ありませんから」
リョウは顔を上げ、エレンの目を正面から見た。
「俺たちが取引しているのは、歯車規格の寸法と、コンテナの強度と、供給が止まらない仕組みです。査察官殿が男だろうと女だろうと、金具の強度は変わりませんし、ボルトのネジ山が狂うわけでもありません。商売に必要なこと以外は、知る必要がないんです」
エレンはしばらくの間、リョウの顔を無言で見つめていた。
やがて、ふっと息を漏らすように小さく笑った。
「変な男だな」
「よく言われます」
「また明日来る。調達部の正式な審査条項を持ってくる」
「お待ちしてます」
表通りで待たせていた馬車へ、エレンはリィの手を引いて乗り込んだ。御者が鞭を鳴らし、車輪が石畳を軋ませて遠ざかっていく。
窓の隙間から、リィが膝のゲル座布団を抱えて何か楽しそうに喋っているのが見えた。向かいに座るエレンは膝の上で手を握ったまま、窓の外を見ていた。夕暮れの影のせいか、その白い横顔が少しだけ赤らんで見えた。
秋の夜風は、むしろ冷たかった。




