第51話 王宮から来た、美少年
青い蝋は、爪を立てると思ったより簡単に割れた。
打ち上げの肉の脂が、まだ指に残っていた。封筒の端に薄く指の跡がつく。ズボンで拭ってから、リョウはもう一度中身を開いた。
登城命令ではなかった。
文面は短く、役所の言葉で書かれている。騎士団へ納めた規格金具と保冷コンテナを、王国正規補給規格の候補として実地で監査する。数日のうちに王宮軍務局から査察官を派遣するので、現物と検査記録、製造工房の一覧を用意しておくこと。末尾には、封蝋と同じ王家の印が押されていた。
二度読んだ。三度目は、日付だけ確かめた。
扉が小さく鳴って、フェルがスープの椀を持って入ってきた。
「まだ起きてたんですか。もう片付け終わりましたよ」
「ああ、悪い」
フェルは椀を机の端に置き、封書の青い蝋に目を止めた。
「……何て書いてあるんです?」
「国が、うちの規格を使いたいらしい」
「……それ、かなり大変な話じゃないですか?」
「そうだな」
リョウは帳簿を引き寄せ、インク壺の蓋を外した。
「何してるんです?」
「国家案件になった場合の人件費を――」
「そこからですか?」
「検査の人手が足りない。親方たちに日当を出すとして、一日いくらになる?」
「私に聞かないでください」
フェルは呆れた顔のまま、椀をリョウの手元へ指三本ぶん寄せた。スープの湯気が、書きかけの数字の上を通っていった。
三日後の昼前、大通り本店の裏庭へ馬が二頭入ってきた。
裏庭にあるのは、組み立て途中の保冷コンテナが一台と、部品の箱が三つだけだった。先行の十台は騎士団へ納めてしまったので、見せられる現物はこれしかない。検査記録と十七工房の一覧は、昨夜のうちにリョウが写しを三部作っておいた。
馬から降りてきたのは、想像していた老官僚ではなかった。
細身の騎士服を着た、若い男が一人。背丈はリョウとさほど変わらず、短い髪を後ろで束ねている。銀に近い白で、染めているのか生まれつきか分からない。染めているなら金がかかる。それにしては、根元まで色が揃いすぎていた。靴はよく手入れされているのに、裾にだけ乾いた泥はねが残っていた。
その後ろから、大人用の上着の袖を折り返した小さな小姓が、手綱を握ったまま降りてくる。十歳くらいか。目だけが忙しなく動いて、裏庭の樽と煙突と箱を順番に数えていた。
「ようこそ。大通り本店のリョウです」
「軍務局特別査察官のエレンだ。これは小姓のリィ」
名乗りはそれだけで終わった。家名も官位もない。差し出した検査記録には手も伸ばさず、エレンはまっすぐコンテナへ歩いていく。
「説明は後でいい。壊れた時、どこを交換する?」
リョウは足を止めた。
役人が最初に聞くのは、たいてい値段か生産数だった。壊れた時の話をされたのは初めてだ。
「四隅の金具と、防振材です。そこを共通寸法にしています」
「全部交換する必要は?」
「ありません。壊れた一個だけです」
エレンの口の端が、少しだけ上がった。
「いいな。それを見に来た」
リョウは予備の箱を引きずり寄せ、蓋を跳ね上げた。
「予備はこの箱です。十七工房で作った部品が混ざってますけど、同じ型ならどれを差しても入ります。ほら、頭に工房ごとの刻印が――」
エレンは気にした様子もなく、ボルトを一本つまんで刻印を親指の爪で撫でている。その足もとで、リィがしゃがんで箱の中を覗き込んだ。
「これ、全部ちがう人が作ったの?」
「十七軒分だな」
「ふーん」
リィはボルトを一本つかみ、別の工房のナットへねじ込んだ。入る。もう一本。入る。三本目で飽きたのか、手の中のボルトを袖口へ入れかけ、エレンに睨まれて黙って箱へ戻した。
エレンは荷台の下へ膝をつき、コンテナと台座の接合部を覗き込んだ。リョウも並んで膝をつく。
「ここが一番ガタつきます。悪路だと四隅に力が集まるので、ゲルを噛ませてあって――」
肩が触れた。エレンの顔が、思ったより近かった。
横顔を見たまま、リョウは次の言葉を出しそびれた。
「……どうした?」
「いえ。近いなと思っただけです」
「狭いのだから仕方ないだろう」
「……そうですね」
さっきまで勝手に出ていた説明が、そこで一度途切れた。
相手は軍務局の査察官だ。顔が近いくらいで何を動揺している。……いや、何がだ。リョウは隅金具の図面を引っ張り出して、工房の一覧と見比べた。数字は見えているのに、さっき何を説明するつもりだったかが出てこない。
そこへ、検査治具を抱えたカーナが裏口から入ってきた。
昼前の日差しを浴びて、短く切り揃えた栗色の髪が跳ねている。重い治具の木箱を抱えた腕は細く、踏ん張るたびに革の前掛けの下で引き締まった身体の線がしなやかに動いていた。
仕事終わりの火照りがまだ残っているのか、首筋から鎖骨にかけて薄く汗が滲み、日差しを弾いて白く光っている。
「おい、リョウ、頼まれてた基準型だ。床に張りついて何してんだ」
「査察です」
リョウはすっと立ち上がると、カーナが抱える重い木箱の底へ、下から大きな片手を差し入れて支え上げた。
ふっと箱の重みが消え、至近距離にリョウの身体が寄る。
仕立て直したシャツの袖口から覗く、荷運びで鍛えた骨太な手首。微かに香る石鹸の清潔な匂いと、見下ろしてくる真剣な瞳に、カーナの喉が小さく鳴った。
抱えた手のひらから伝わってくるリョウの手の熱さに、首筋から一気に赤みが駆け上がる。
「……っ、ば、馬鹿! 一人で持てるっつーの!」
カーナは慌てて木箱を荷台へと押し付けるように置き、乱暴に髪を掻き上げた。
「査察官ってのは、そこの兄ちゃんか」
カーナは真鍮の基準型と、まだ歯車印のないボルトの箱を荷台へ置き、エレンを上から下まで見て鼻を鳴らした。
「今朝届いた分だ。まだ検査前。これは寸法を見る型だ。通れば次、止まればここで作り直し。それだけだ。やってみろ」
エレンは箱から無作為にボルトを十本取り、基準型へ順に通した。九本は通った。一本だけ、頭の手前で止まる。
「これは?」
「作り直しだ。誰が打った?」
カーナが刻印を見て、舌打ちした。
「西通りの新顔か。後でやり直させる。他は文句ない」
エレンが短く頷いた。
「明日、荷重の検査を見せてもらう。朝から来る」
「お待ちしてます」
「リィ、行くぞ」
「はーい」
二人が馬に乗って裏門から出ていった後、裏庭には蹄の音が少しだけ残った。
事務所へ戻ると、毛布を肩まで引き上げたセリアが床で図面を広げていた。ローブの首元から細い鎖骨が覗いている。
フェルはしとやかな手つきで湯呑みを並べ、見回りから戻ったルイーナが、入口で革の手甲を外しながら腰の長剣を外していた。剣帯を解いた腰回りは引き締まって細く、手甲を外したばかりの長い指先が、ほんのり汗で湿って日差しに光っている。
「……あの人、女」
セリアが顔を上げずに言った。
リョウが振り返る。
「誰が?」
「エレン」
「……セリア。今日は何時間寝た?」
「八時間」
「じゃあ寝すぎか」
「……違う」
「さすがに男性でしょう?」
フェルが湯呑みを配りながら、リョウの横に立った。ふわりとエプロンから甘いハーブの香りが漂い、触れ合った腰の柔らかい感触に、リョウは無意識に背筋を伸ばした。
ルイーナも長い腕を組み、額の汗を手の甲で軽く拭いながら頷いた。
「軍務局の若い騎士官だろう。足の運びは、剣を使う人間のものだった」
「どこの誰だろうが、仕事が分かるならどっちでもいい。邪魔さえしなきゃな」
カーナが椅子を引きながら言った。
セリアは何も返さず、図面の束を一枚めくって、毛布を顎まで引き上げた。
カーナが椅子の背にもたれて、天井を仰いだ。
「明日の荷重、朝からだろ」
リョウは検査予定表を引き寄せた。
「カーナ、重りの準備だけ頼む」
「もうしてるよ」
セリアの狐耳が、閉じた裏口の方へ一度だけ向いた。
「……女なのに」




