第1話 失われた威厳と、残された「才能」
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チートなし、暴力なし。元実業家が前世の知識と商才、そして一流の仲間たちとともに成り上がる痛快商売ファンタジーです。
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目を覚ました男が最初に確認したのは、自分の名前でも、現在地でもない。
薄い毛布をめくって、見て、戻す。もう一度めくって、やはり戻す。三度目は、少し祈ってからめくった。
「…………半分じゃないか」
窓の外では知らない鳥が鳴き、石畳を荷車が通るたび、古い窓枠がかすかに震える。漆喰の壁、黒ずんだ天井、寝返りを打つときしむベッド。昨夜ようやく取った安宿の一室で、男は人生最大級の問題に直面していた。
正確には、人生は一度終わっている。三十歳。会社をいくつか回して、金も稼いで、車も買って、雑誌の取材で適当な意識高いコメントを喋ったりしていた。それが不慮の事故で死んだ。
死んだこと自体は、まあいい。受け入れる。だが次に目を開けたら、腰に剣を差したやつが普通に歩いていて、店の看板には堂々と『錬金術』と書いてあった。異世界としか思えない。
顔は同じだった。昨夜、宿の桶に張った水で何度も見た。手足も身長も変わっていない。なのに、前世で一番自信のあった部分だけが、どう見ても縮んでいる。
「いやいやいや」
男は首を振った。ここは異世界だ。魔力だか何だかがあるらしい。その影響かもしれないし、寝起きで目が霞んでいるだけかもしれない。あるいは角度だ。光の加減。
「測ろう」
定規はない。室内を探し、荷物を縛っていた細い紐を見つけた。慎重に当て、爪で位置を押さえる。一回目。男は黙った。もう一度測る。さらに黙る。念のため三回目。窓の外で鳥が元気よく鳴いた。一羽くらい黙れと思った。
「……半分だ」
きっちり半分だった。せめて三割なら寝不足のせいにした。半分は無理だった。誰かが寸法を指定したとしか思えない。
「転生担当者がいるなら出てこい。仕様書を見せろ」
神も女神も謝罪担当も現れなかった。廊下を誰かがどすどす歩いていっただけだった。男はベッドの端に腰を落とした。前世では、自信があった。銀行との融資交渉でも、条件が悪ければ笑って突き返した。女性に困ったこともない。
金と肩書が効いていただけかもしれないが、人と目を合わせるのが怖いと思ったことなど一度もなかった。ところが昨夜、宿の受付にいた若い女から鍵を渡された時、まともに顔を見ることができなかった。相手は部屋の場所を説明していただけだ。それなのに、妙に腰回りが気になった。服は着ているし、見えるわけもないのに。
「俺は……こんなにもろい男だったのか」
これは少し笑えなかった。会社を作ったのも、契約を取ったのも、金を稼いだのも、そこが大きかったからではない。当然だ。
「社員がついてきたのも、俺の――」
そこで止まった。
「……まあ、それはいい」
朝から自分で自分を追い込む必要はなかった。腹が鳴った。少し間を置いて、もう一度鳴る。
「飯か」
いつまでも毛布をめくっていても、数字が改善する気配はない。男は粗い布のシャツと簡素なズボンを身につけた。前世なら部屋着にも選ばなかった品質で、襟元がちくちくする。腰紐を締めたところで、手が止まった。別に緩くはない。それでも、もう一度締め直した。
「関係ないだろ」
誰も聞いていないのにつぶやいた。
一階へ下りると、食堂では宿の女将が丸いパンをかごへ積んでいた。四十代くらいだろうか。腕が太く、朝からよく動く。
「おはよう。眠れたかい?」
「ええ、まあ」
反射的に視線を外すと、女将が不思議そうに顔を見てきた。
「顔色悪いよ?」
「大丈夫です」
「そうかい。朝飯は銅貨二枚。食べるならスープもつくよ」
「いただきます」
「毎度」
女将はそれ以上気にせず、隣の客へパンを運んでいった。男は壁際の席に座り、硬いパンを豆のスープへ浸した。前世なら、人目を気にする部下に言っていただろう。他人は、お前が思っているほどお前を見ていない。
「……知ってるよ」
パンをちぎった。知っていても効かないから困っている。
食事が終わって部屋へ戻ると、机の上に財布の中身をぶちまけた。銀貨が二十四枚。銅貨が十一枚。転生した時、服のポケットに入っていた全財産だ。銀貨を指先で弾くと、机の端で一枚落ちそうになった。慌てて手で押さえる。
「……いくらなんだ、これ」
何が買えるのかが分からない。朝飯は銅貨二枚だった。スープ付きで二枚。なら銀貨一枚で何日食える? 銅貨と銀貨のレートすら知らない。宿はとりあえず五日分払ったが、その先はどうする。服も買いたいが、襟のちくちくくらいは我慢できる。
それより、この銀貨一枚で何が買えるのかを知らないと話にならない。昨日一日ふらふら歩いただけでは、通りが広かったことくらいしか覚えていない。
「仕入れて売る……は、無理だな」
銀貨を一枚、爪でいじる。相場が分からない。昨日、屋台で見たあの干した肉はいくらだったか。覚えていない。比較する相手もいない。仕入れて売れ残ったら、その時点でかなり痛い。
日雇いで肉体労働でもするか? いや、時間がかかりすぎる。何より、そんな小銭をちまちま貯めていたら、元に戻す研究どころではなくなる。
研究。そうだ。この世界には魔法がある。昨日歩いた時も、傷口に塗る薬だの、火を点ける石だのが並んでいた。前世なら怪しい通販広告でしか見ないような代物が、普通に売られている。
なら、身体の一部をどうにかする手段だってあるはずだ。魔法か、錬金術か、それとも怪しい民間療法か。何にせよ、金が要る。銀貨二十四枚で足りるのかどうかすら、今は分からない。
男は銀貨を革袋へ戻しかけ、壁の小さな鏡を見た。金はない。知り合いもいない。銀貨一枚の価値すら分からない。それでも、朝飯が銅貨二枚だったことだけは分かった。
「こっちはある」
人差し指でこめかみを叩いた。それから視線を下げて、腰のあたりを見る。
「こっちは半分だけど」
革袋を持つ手が止まった。
「……いや、なくなってはいない。半分だ」
誰も聞いていないのに訂正した。ゼロと半分は違う。そこは大事だった。
今日使う分の銅貨だけをポケットに入れ、銀貨の袋はズボンの奥へ押し込んだ。扉に手をかけたところで、一瞬だけ間が空く。外には女もいる。昨夜の受付を思い出すと、また変な汗が出そうになった。
「……別に、見せに行くわけじゃない」
自分に言い聞かせて扉を開けた。
宿を出ると、朝の通りは昨日より一段と騒がしかった。二人がかりで樽を転がす酒屋の親父が、足元の犬を怒鳴りつけている。道の向こうでは、耳の長い女が果物屋と揉めていた。
「昨日より高いじゃないですか!」
「昨日より仕入れが高えんだよ!」
「そんなの知りません!」
「こっちだって知らねえよ!」
男は遠巻きにその様子を見た。耳、本当に長いな。女がこちらを振り向き、男は慌てて視線をそらした。通りの奥からは、魚を焼く煙と、金属を叩く音と、値段を叫ぶ声が混ざって流れてくる。男はポケットの銅貨を握り直した。
まずは、何がいくらで売れているかだ。
第1話をお読みいただきありがとうございました。
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