希望・中
「笹部君、包帯を替えなきゃいけないわ。動いたから、傷口が広がったのかしら? 血が滲んでる……篠原君達が心配だから、私は今日は病院で待機するつもりなの。だから一緒に病院へ、戻りましょ?」
頭を軽く振って桐生の顔を脳裏から消すと、櫻子がそう笹部に声をかけた。笹部は特に何も言わず、素直に頷いた。室生に病院に戻ると声をかけると、「宮城を頼みます」と珍しく櫻子に頭を下げた。隣の市井もそれに倣っていた。
「あ! 大村検事、確認したい事があります」
帰ろうとしていた大村検事に声をかけると、隣にいた事務官の岩井も振り返った。
「二十二年前の『大阪市ホームレス連続殺傷事件』は、一事不再理に当てはまりますね? ……ですが、新事実を見つければ、『再審』の申し立ては勿論出来ますよね?」
櫻子の言葉に、彼女と笹部以外の者がザワっとした雰囲気になる。
「……事件の新たな証拠なり……事実が見つかれば、被告の親か配偶者、子供……兄弟姉妹の申請があれば……可能です。もしくは、検事である我々の判断で再審を申し立てする事は出来ます……ですが、あの事件は……」
一事不再理。日本国憲法では第39条に記されている、『何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない』の事だ。この39条がある為に、一度判決された事件は英米法の『二重の危機の禁止』である、「同一の犯罪について二度裁判を受けない」という原則で、冤罪だと誰もが分かっていても一度判決を受けた海藤は、その冤罪の汚名を消す事が出来ない。
またこの一事不再理で有名なのは、『M鶴高一女子殺害事件』だ。『限りなく黒とされた人物が無罪判決を受けた』ため、この事件は証拠が乏しかった事もあり捜査は難航した。
一事不再理の為、容疑者を再び裁判にかける事が出来なかったことが大きい。そして新しい証拠が出る事もなく、事件は限りなく黒と思われた男が死亡した事で、未解決となっている。
だが、確実な新事実があれば『刑事告訴法』第439条により、一事不再理の者が再審を請求できるのだ――本来なら本人が申し立てしなければならないが、海藤はすでに亡くなっている。『狭き門』と言われるこの刑事告訴法に頼るしか、海藤の無念さは解決できない。彼の親族を、探すしかない。
何故なら、大村の態度を見れば現役の検事の再審請求は無理そうだと、櫻子は理解した。もうすでに引退しているが、東元検事の影響力は衰えてないのだろう。彼が無罪とした判決を覆して汚名をそそぐことになれば、何らかの圧力を受けるかもしれない。
だからこそ、親族からの再審請求しか道がなかった。
「有難うございます、お疲れさまでした」
櫻子は大村に頭を下げると、会議室を出た。笹部も、いつもの様にのんびりと後に続いた。
「僕は、海藤さんの肉親を捜せばいいですか?」
「ええ――負傷中に、ごめんなさいね」
タクシーで病院に戻った櫻子と笹部だったが、笹部の傷が開いているのを知った看護師に怒られて、彼は引きずられる様に診察室へと連れていかれた。
それを見送った櫻子が宮城と篠原の眠る病室に向かうと、意外な人物と出会った。
「竜崎さん、大丈夫なの?」
同じ病院に入院していた、まだ肋骨骨折も顔に受けた傷も治っていない竜崎が、宮城のベッドの横に置かれた椅子に座って、櫻子に頭を下げた。
「お疲れ様です、警視。少し署に戻っていたんで、疲れてしまって……座ったままで、申し訳ありません」
「署に!? 怪我人なのに、無理しちゃだめよ。何か用があるのなら、私に言ってくれればよかったのに」
櫻子は椅子を彼と並ぶように置き、自分は篠原の方に向かい腰を落とした。
「あはは、警視に宮城課長の下着を取りに行ってもらうのは忍びなくて」
竜崎は、くすりと笑った。
「僕の分は、幸い母が持ってきてくれましたが……宮城課長は、奥さんを亡くしてるので一人なんです。ですから、捜査課に泊まり込み用に置いてある下着を取りに行ったんです」
宮城の私生活の事は、知らなかった。櫻子は、まだ眠っている宮城をまじまじと見つめた。




