罪2・下
次の日、櫻子は天神橋六丁目にある三浦板金へ篠原を連れて朝から向かった。天神橋には、『天六』と呼ばれ、堺筋線、谷町線、阪急千里線の駅がある。電車の到着時の車内アナウンスでも「天六です」と付け加えられる程、この愛称は府民に親しまれている。また、有名な『天神橋筋商店街』と呼ばれる日本一長いと言われる天神橋に沿って商店街があり、北から南へ全長およそ2.6キロメートル続いているという。
今朝、珍しく署長から指示があった。捜査課宮城班は、連続ホームレス事件の捜査を続ける事。宮木課長宛ての爆発物と署内の不審火の捜査は、富田班が担当する事。特別犯罪心理課は、両方の連絡交換案内係と、同時に両方の事件を独自に捜査する事――これは、刑事局長からの指示だと、刑事課の者は皆言わずとも分かっていた。
三浦板金は、その商店街から少し離れた場所にあった。櫻子と篠原が店の前に着くと、三人の作業服を着た男が、それぞれの車を修理作業中だった。
「……何か?」
白い国産車のエンジン部分を覗き込んでいた男が、頭を上げると二人に気が付いて声をかけてきた。僅かに白髪混じりの髪を短く刈った、よく日に焼けた男だった。顔を上げた時は普通の顔つきだったが、二人を見ると何故か僅かに眉を顰めた。
「曽根崎警察署特別犯罪心理課の一条と篠原です。ここの工場の三浦さんはいらっしゃいますか?」
櫻子の凛とした声に、三人の男は剣呑な雰囲気をみせた。これは、櫻子達が警察だからそういう態度になったのだろう。三浦板金は前科者も更生の為雇っている。従業員全てではないだろうが、警察に対して少なからず良い印象はないだろう。しかも、自殺した従業員の『池波隼人』に殺傷事件の容疑があるまま、現在も捜査中だ。冤罪だと思っている彼らにとって、警察は敵だと思ってしまうのも仕方ない。
「社長は、今は弁護士の先生の所に行ってます。池波君の冤罪の件で、親御さんに頼まれたんですわ。前来てた刑事さんとは違うみたいですが?」
「違う部署でも捜査しているんです――貴方は、海藤さんかしら?」
「……いえ、神崎と申します。もうすぐ戻ると思うので、とりあえずこちらへ」
櫻子は、答えた男に声をかけた。その男は他の二人に見えない様に小さく頷くが、そう答えて櫻子達を事務所に案内した。
「すみません、今私は神崎健と名前を変えて生活しています。申し訳ありません」
事務所に案内されて客用の椅子を二人に勧めると、神崎はその正面に座った。彼は、ひどく疲れたような顔つきだ。
「驚かれませんでした? 自分と同じ容疑が、同僚の池波さんにもかけられて――貴方は、かつての自分の事を、池波さんに話した事あったんですか?」
篠原はその部屋にあった自動販売機で、無糖の珈琲缶を三個購入する。それを座っている櫻子と神崎に渡して、残りの一本を手に静かに椅子に腰を落とした。篠原のカバンの中では、笹部のボイスレコーダーが電源を入れられて潜んでいる。篠原は、櫻子の邪魔にならない様に彼女が質問をしている時は、静かにするように気を付けていた。
「……二十二年前でも、隠せませんね……罪は、消えないんですね……」
神崎は、困った様な怒った様な悲しい様な――言いようのない複雑な表情になった。
「彼がここに来て、半年ほどでしたか……彼に、私の前科を聞かれたんです。私は今でも、自分は冤罪だったと胸を張って言います。ですから、『大阪市ホームレス連続殺傷事件』を話して、冤罪だったと答えました」
神崎は当時を思い出したのか、ぐっと冷たい珈琲缶を握り締めた。
「その件に関して、私はまだ調べていません。ですからそれが冤罪だったかは言えませんが――冤罪というなら、なぜ貴方は自分の名前を偽って生きてるんですか?」
その言葉に、神崎は怒りを露にした表情で櫻子を睨んだ。
「あんたに何が分かる!? やってもいない罪を突き付けられて、刑務所に入れられた俺の惨めな人生を!!当時の彼女すら俺を裏切って見捨てて、親もどこかに越して行って生きているかも知らない! 俺を救ってくれたのは、三浦さんだけだ!!」
そう怒鳴ると、神崎はぜぃぜぃと息を荒げてぐったりと肩を落とした。小さくヒューヒューを乾いた音が、喉から鳴る。篠原はその様子を見ていて何か思いついたのか、缶珈琲を椅子に置いて慌てて彼の傍らに行き、作業服の胸ポケットに手を差し入れた。
「神崎さん、吸ってください!」
篠原は彼の体を支えて、取り出したものを彼の口に咥えさせた。それは、櫻子も見た事がある、喘息発作用の呼吸器だ。篠原がボタンを押すとカシュッと音が鳴り、多分薬が神崎の口から喉に広がっただろう。呼吸と共にそれを飲んだらしい彼の呼吸が、二口目からゆっくりだが落ち着いてくる。
「――すみません、大丈夫です……」
ようやく、弱弱しくだが神崎が篠原に声をかけた。
「喘息だったのね。興奮させてしまって、ごめんなさい」
櫻子は、素直に謝った。神崎は、辛そうに小さく首を振る。
「刑務所で、多分ストレスでなったんです。最近あまり起こす事が無かったので、うっかりしていました――社長が帰ってきたみたいですわ」
店先の作業所の方からの声に、神崎はよろよろと立ち上がり二人に頭を下げると、珈琲の缶を手に部屋を出て行った。
「――嘘です、一条課長」
珍しく、篠原が口を開いた。
「呼吸器を、胸ポケットに入れていました。最近症状が出なかったなら、身に着けるのを忘れる筈です。作業の邪魔になるので、発作が起きないなら多分ロッカーにでも入れているのでは無いでしょうか? それに、呼吸器は軽くてもうすぐ薬がなくなりそうな感じでした。最近よく発作を起こしていたのではないでしょうか?」
篠原の言葉に、櫻子はにっこりと笑った。
「いいわね。洞察力が増えたみたいで、頼もしいわ」




