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アナグラム  作者: 七海美桜
文車妖妃(ふぐるまようひ)の涙

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再会・下

 櫻子達が去り、桐生は再び真っ白い部屋に戻った。


 ――今日の彼女は、仔ウサギの様に怯えて幼く見えた。気の強い彼女が、初めて会った時の少女の様に見えたのだ。その時の事も、桐生は忘れていない。櫻子に会ったどの瞬間も、桐生は忘れていなかった。


「面影は 身をも離れず 山桜 心の限り とめて来しかど 夜の間の風も うしろめたくな」


 光る君が、若紫に向けて歌った和歌を口にする――なんだか、今の自分にしっくりくる。櫻子は菫に似て、美しく育ち過ぎた。何時までも自分がここに居ては、誰かに彼女を(さら)われてしまうかもしれない――篠原に? いや、素朴で純粋すぎる彼に、賢い櫻子を陥落(かんらく)させられるとは考えられない。


 櫻子の純潔も、桐生の希望で取引の中に含まれている――だが、その取引を知らない彼女が誰かを愛したなら? 恋や愛という感情は、身を亡ぼす大きな愚かなものだ。それを、桐生は自ら体験して学んでいた。己を滅ぼしてしまう、自制の効かないもの……人間の感情の中で、最も厄介なものだ。だから、桐生はその感情を自制できるように自分で暗示をかけた。対象を、菫と櫻子にしか向かないように。


「早く、僕の隣に立てる姿になるんだ……櫻子さん」

 しかし、急いでも菫の時のような失敗をしてしまうかもしれない。櫻子は時間をかけて、自分と共に血が似合う完全な存在に育てなければならない。


「リストの、愛の夢を」


 桐生がそう空間に話しかけると、ピアノと弦楽器による音楽が流れ始めた。桐生は弦楽器を自身も演奏していた事から、ピアノだけのクラシックをあまり好まない。

 その曲を聞きながら、桐生はベッドに横になり瞳を閉じた――そうして、その真っ白な部屋は電気が消されて、ピアノと弦楽器が奏でる音楽だけが鳴り響いた。




「篠原君」

 篠原が運転する車の後ろの座席で、櫻子は窓を開けて神戸の海から微かに漂う磯の風を受けていた。

「はい」

「国府方紗季さんが、さっき病院で亡くなったそうよ」

「……残念です」

 カプセルにシアン化ナトリウムを詰めたものを飲んで櫻子達の前に姿を見せた美晴は、その場で救急車の到着も待たずに死んでしまった。前回の事件の犯人、(はるか)と一緒にアパートの三階から飛び降りた紗季は、何とか命は助かって集中治療室(ICU)で治療を受けていた。

 そして、先ほど車に乗った櫻子のスマホに、笹部から「国府方紗季が収容されていた病院で、心肺停止で亡くなりました」とメールが届いていた。桐生に彼女の事を聞いた、そのすぐ後に。


 潮風は、何処か生暖かく櫻子の髪を乱している。櫻子は窓の縁に頭を預けて、遠くを眺めていた。

「――泣きたくなったら、花を見るんよ」

「え?」

 櫻子の小さな声に、篠原は思わず聞き直してしまった。

「母が、よく言っていたのよ。愛情をかけて育てた花は、綺麗に咲いて心を癒してくれる。だから、涙が出る時は花を見なさいって――でも、私は母のせいで桐生に支配されて、辛くても悲しくても泣いてられない。常に警察と公安と桐生に監視されているのよ――花なんか見て、癒されてる場合じゃないのよ……」

 自動車のルームミラーから見える櫻子の柔らかな頬を、涙が一筋流れた。国府方紗季を想ってか、吉川美晴を想ってか、自分自身を想ってか――篠原には、分からなかった。


「自分は、一条課長に付いて行きます。まだまだ未熟ですが、きっと一条課長を助けてみせます――それに、今は泣いても誰も見ていませんよ」

 篠原は、FMラジオを付けた。ラジオからは、陽気で朗らかな女性の声が紹介するリクエストの曲が流れてくる。ショップなどで耳にする曲だが、櫻子は歌っているアーティストの名も曲の名も知らない。だが、その曲のフレーズの「泣きたいときは全力で泣いて 泣いた分今度は全力で笑うんだ」という歌声に、涙をあふれさせて両手で顔を覆い泣いた。


 大阪のサービスエリアに入る迄、篠原は黙って運転をして、櫻子は今まで抱えていた涙を流した。




「お帰りなさい、ボスに篠原君」

 曽根崎警察署に帰ってくると、居残りをしていた笹部がパソコン画面から顔を上げて二人を迎えた。

「篠原君、僕喉が渇いたよ」

 それでも篠原が帰るまで待っていた笹部に、篠原は笑った。

「一条課長も、飲みますか?」

「有難う、お願いするわ」

 もう、先ほどの涙を見せていた櫻子の姿はない。いつもの、しっかりとした澄ました顔の櫻子の顔だった。


「そうだ、天満署からボスに荷物が届いていますよ――それです」

 篠原がミルで豆を砕き始めると、櫻子のデスクの電話の横に置かれた薄い封筒を指差した。表には綺麗な字で「一条櫻子様」と書いてある――「子」が癖なのか、一文字で書かれていた。「美晴の文字は癖があって、『子』の漢字が繋がっているんです」という、和葉の言葉が脳裏に蘇る。櫻子は、慌ててその封筒を開けた。

 そこには、平安時代の十二単姿の女性が手紙を広げている姿を刺繍した、布製の栞が入っていた。そして、桜の一筆箋(いっぴつせん)が添えられている。


「私の本当の最後の作品『文車妖妃の涙』です。貴女に届きますように」


「捜査中、貸金庫の中から出てきたそうです。調べると、あの日工場に来る前に銀行に寄っていたそうです――その時に、ボス宛のそれを入れていたみたいですね。それと……」

 笹部は立ち上がると、ノートパソコンを手に櫻子のデスクに歩み寄った。不思議そうにその画面を見ると、どうやら教会が映されているらしい。


「美晴さんが作品を送った長崎の教会です」

 笹部が再生ボタンを押すと、修道女姿の初老の女性にマイクが向けられていた。

「この作品を作られた方は、罪を犯されました。ですが、地獄で悔い改めてその罪も何時か神により赦されるでしょう――このステンドガラスは、彼女の赦しを願うため教会で正式に飾らせて頂きます」

 完成を見る事がなかった――『チェステッロの受胎告知』をモチーフにしたステンドガラス。璃子に似たマリアの姿と、完成したガブリエルが映し出された。そのガブリエルは天使だからか、中性的で美晴とも祥平とも見えた。

 美しい、どこか魂を揺さぶる作品だった。


「終わったのね」

 櫻子がそう呟くと、篠原が香りのよい珈琲を配った。



 事件が終わり、またいつもの日常に戻ったのだ。

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