再会・中
「アナグラムは、アルファベット表記で考えるのが基本だからね。日本語だと、子音が意味を成さない事が多くて、言葉が限られて難しい。アルファベット全てを使った『パングラム』より、いろは歌と『ん』を付け加えられた――『鳥啼く声す 夢覚ませ 見よ明け渡る 東を 空色映えて 沖つ辺に 帆船群れゐぬ 靄の中』――の方が、ただの言葉遊びだけでなく、情緒に満ちている。このように日本語は、他国語にはない表現が多い。尊敬語や謙譲語、丁寧語……一つの言葉を他で表現する技法が多く、それだけ言葉を選ぶのが難しいんだよ。だから『ひらがな』を組み直して新しい言葉を、意味のある限定の言葉として作るのは、かなり無理がある」
桐生は、歌うようにそう言葉を口にすると櫻子の様子を楽しむように微笑んでみている。彼女は、桐生の言葉の最後を聞くと口に手を当てた。
「――まさか、国府方紗季さんは……貴方が彼女を探して、誘導してあの事件を起こしたの?」
桐生は、その答えを口にしなかった。ただ、穏やかにほほ笑んだ。しかし、その笑みは正解であると言っているように感じる。
前回の、悲しくて残酷な事件。犯人の名前が見事にアナグラムになっているなんて、そんな人物に出会えるなんて確率が限りなく低いはずだ。しかし、桐生は完璧が好きだ――だから、どこから手を出したのか分からないが、国府方紗季を探し出した。そうして彼女が殺人に手を染めたのは、間違いなく彼の差し金だ。完璧なアナグラム殺人に仕上げた。そうなると、考えられるのは……
「今回の事件も、まさか――貴方が仕組んだのね?」
櫻子の声音は、僅かに震えていた。岡崎と美晴を結び付けた、結局探せなかった人物。目の前に居る男が、今回の事件をこの檻の中から仕掛けたのだろうか。
「櫻子さん。僕はここから出られないし、電話もかけられない。君にメッセージカード付きの花も送れないよ?」
桐生は、微笑を絶やさずに今まで自分がやったことを口にした。最早ここから脱獄出来る状態なのに、櫻子に会う為だけに彼は喜んでこの檻に居る。櫻子は、何処か桐生を甘く思っていた自分に気が付いた。だが、やっと気が付いた――自分が思っている以上に、この男は天才で残虐で……恐ろしい犯罪者なのだ。
「折角頑張っているのだから、ご褒美をあげようか」
顔色が優れない櫻子に、桐生は笑いかけた。端正な顔立ちの彼の笑みは魅惑的なはずなのに、櫻子は怖くて僅かに震えていた。
「国府方紗季と吉川美晴を結ぶものが、まだ残っているよ? まだ、君は気付いていないだけ――さて、何だろう」
紗季と美晴を結ぶもの――そんなものが、あるのだろうか。
「それが分かれば、次の犯人ももっと早くに見付けられるかもしれないよ?」
「次!? 貴方、また事件を起こそうとしているの?」
櫻子は、立ち上がって桐生の前の硝子に近づいた。どんな道具でも簡単に割れない、分厚い強化ガラス。しかし、綺麗に向こうに居る桐生の姿が見られる。
「また、君が僕に会いに来る事になるね――今から、楽しみだよ」
櫻子の問いには答えず、桐生も立ち上がって硝子に近づく。公安の青山が心配して姿を見せるが、桐生は硝子に手を当てて櫻子をうっとりと眺めていた。
「ますます、菫さんに似てきたね。髪ももっと伸ばして、菫さんみたいに結って欲しいなぁ」
桐生は、櫻子を通して何処か遠くを見ているようだ。それは、櫻子の母である菫と会っていた頃なのかもしれない。
篠原は心配になって櫻子を彼から遠ざけたかったが、前回彼の瞳を見た時の恐怖が蘇って、足が震えて近くに行けない――篠原は、臆病な自分を責めた。櫻子を護りたいが、足が、身体が動かない。
「一条課長、お時間です」
三十五分の面会時間にはまだ余裕があったはずだが、青山は面会の終わりを告げて櫻子の腕を掴んだ。彼女の精神状態も考慮する様にも、上から命令されているのだ。しかしその瞬間、桐生の笑みが消えた。
「青山管理官――気安く彼女に触れないで貰おうか」
マイク越しでも背筋が寒くなるほど、冷たい声音だった。青くなった青山が、慌てて櫻子から手を離した。
「櫻子さん、そして篠原君。またね」
青山が手を離した途端に、いつもの様に笑みを浮かべる桐生は穏やかに二人に別れを告げて、自室である部屋に続くドアの前に立った。
「――いつまでも、貴方の考えるストーリーを歩かないわよ!」
櫻子は、その後ろ姿に叫んだ。
「大丈夫――『君ならこっちに来られる』から」
背中越しに、桐生はそう呟いた。櫻子の顔が青くなった。
「……一条課長、帰りましょう」
何とか立ち上がった篠原は、櫻子を促した。
「ああ、そう言えば。篠原君、唯菜ちゃんにもよろしくと伝えて置いてね」
その言葉を聞いた瞬間、篠原の動きが止まった。今彼の口から出たのは、彼が知る筈ない篠原の姪の『唯菜』の名だ。
「どうして、あなたが唯菜を!? ――やめろ、唯菜には、絶対に手を出すな!」
篠原は、恐怖を忘れて強化ガラスを叩いて叫ぶ。しかしマイクのスイッチは、櫻子と青山しか持っていないので、桐生には届かなかった。
「――お二人とも、今日はお帰り下さい」
疲れたような青山の声が、二人に向けられた。静かな部屋に、到着したエレベーターの扉が開く音が響いた。




