犯人・上
「貴方は、人を食べたの?」
そう、聞かずにはいられなかった。衝撃的な問いかけにも、香田は黙ったまま桐生をじっと見ている。
「先ほどの疑問と同じだよ、櫻子さん。『人』の概念とは何だろう? 精神的に自我を保てない人、脳死状態の人、受精して人間に成長する過程のもの、どこからどこまでが『人間』と呼ばれるものなんだろう?」
「全て、人間でしょう?」
「じゃあ、君は先ほどの菜食主義は生き物を食べているのに、菜食主義者と言えるのかな? それとも櫻子さん、君は植物を生き物だと否定するのかな? 賢い君なら、それは違うと言うよね? そうなると、僕は生き物を食べている。もしかしたら、『人』と同類とされる哺乳類の鯨もね。では、その延長で僕は『人』を食べたかもしれない」
どう返事をしても、きっと桐生の質問に勝てない。櫻子はぎゅっと唇を噛んだ。こんな禅問答を繰り返していては、ただ無駄に時間が過ぎるだけだ。
「うちの店のホストにストーカーしてた女も、お前の差し金か?」
香田が、考え込んでしまった櫻子の代わりに口を開いた。それまで桐生は愛しそうに櫻子を見ていたが、香田の言葉にふと無表情になり彼を見返した。
「あの下品で愚かな醜い女の事かな? あれは、僕の好みじゃない。ただ、犯人の求めるモノを横取りしたかっただけだ――でも、犯人はちゃんと始末したんじゃないかい?」
やはり、桐生は全てを同じ時間で見ている。犯人の行動も、櫻子の事も。
「笹部君と篠原君が見つけた病院は、確かに僕が廃業された病院を彼らが来る日に、わざわざ開業して診察した。紙カルテという古臭いものを、あの病院に隠している。デジタルにしなかったは、笹部君が見つけにくくなるためだよ」
まさか、アナログに管理しているとは思わなかった――確かに紙では、蜘蛛の巣の中で、笹部が中々見つけられなかった筈だ。処方箋の履歴を絞った中から、笹部がようやくあの廃病院を見つけたのだ。
「カルテが揃えば、僕の今回の計画が分かる筈だ。今回も楽しめたよ、櫻子さん」
桐生は満足したというように、笑顔で椅子から立ち上がった。そうして、一度香田に視線を向けた。
「これ以上、櫻子さんには近づかないで貰おう。僕は、僕の計画を邪魔されるのが最も嫌いなんだ――桜海會を潰されたくなかったら、ね。無駄な行動も、僕は嫌いだ」
「お前一人で、何が出来るねん。俺も、俺の邪魔をする奴は嫌いでなぁ」
香田は怒鳴る事はせず、だが静かな殺意を桐生に向けていた。
「仔猫の鳴き声は、あどけなくて可愛い――またね、櫻子さん。早く髪を伸ばしてね」
そう言うと、桐生はマイクのスイッチを椅子の上に置いて、自分の部屋に繋がるドアの前に立った。
「私は、菫じゃない! ――菫の身代わりには、なれないわ……」
櫻子は、椅子から崩れ落ちて床に腰を落としたまま、力なくそう呟いた。子供の頃から桐生を越える為だけに生きてきたのに、どうしても母と桐生を越えられない。唯一桐生を懐柔した母親の菫すら、手の届かない存在になっているように思える。
「分かっているよ、櫻子さん。君は菫さんの娘で、菫さんじゃないけれど――君は、菫さんであり櫻子さんなんだ」
再びマイクのスイッチを手にした桐生はそう呟いて櫻子をもう一度見つめると、再びマイクのスイッチから手を離して、開けられたドアの向こうへ姿を消した。
「俺らも、出るか」
香田は最後まで桐生が出ていく姿を見つめていたが、椅子から立ち上がって床に座る櫻子に腕を伸ばした。
「こ、香田さん!」
腰と足裏に回した香田の筋肉質な腕は、軽々と櫻子を抱き上げた。そうして、エレベーターの方へと向かう。これには、公安の青山も驚いたように二人を見つめていた。
「エレベーター、動かしてくれるか?」
香田は、気にした風でもない。促されて、慌てて青山はボタンを押した。
「お疲れ様です」
櫻子を抱えたままの香田に声をかけた池田も、特に気にした風ではないようだ。何かの紙を手にして、乳酸飲料のボトルに口を当てそれを飲んでいた。
女を抱き上げているのが香田にとっては当たり前だと分かり、櫻子は複雑な思いになる。
「何やそれ」
香田が、池田が手にしている紙に視線を向けた。
「若たちが中に入って、飲み物買いに行った時に車から少し離れたんです。戻ってきたら、この紙が後部座席の窓ガラスに貼られていたんですよ」
池田は、香田と櫻子にその紙を見せた。
『けいこ、和歌を、十メモさ。』
「……アナグラム……!」
櫻子は、無意識に自分を抱き上げる香田にしがみついた。その細い体を、香田は安心させるように抱き留めた。




