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アナグラム  作者: 七海美桜
キルケゴールの挫折

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繋がり・下

 まだ僅かに震えていた池田の頬を叩いてから、帰りは真田が運転をした。名神(めいしん)高速道路養老(ようろう)SA(サービスエリア)で一度休憩のため車を停めると、三人は暖かい珈琲を飲んだ。その頃には、池田もようやく落ち着いたようで真田に頭を下げていた。


「池田君、もう構いません。彼の脅威を、実際に目の当たりに出来ましたので。それより櫻子さん、彼の言葉の意味は分かりましたか?」

 無糖の珈琲の香りを楽しんでから、真田は櫻子に視線を向けた。ガラスを殴った時の傷は血がもう乾いて、右手が痛々しく見える。辺りは昼間過ぎで、家族連れの子供たちが暖かな日差しの中、楽しそうに走り回っていた。


「掛川の家――と言うか仕事場で見つかったものよね……池波の名前の精神安定剤の空袋ぐらいしか、当てはまらないわ」

 ヒルナミン|(5mg)と書かれていた薬袋。ヒルナミンとは、統合失調症、躁病、うつ病患者が感じる、不安や緊張の治療に使用される。強い睡眠作用もあるので、精神科医が処方箋(しょほうせん)を出さないと買う事が出来ない――西成やグリ下など特別な地区では、秘密裏に高い価格で買う事は出来る。強い睡眠作用から、快感を得る事が出来るからだ。


「池波が、心療内科に通っていたという事かしら?」

「少年鑑別所にいた時に、精神的な不安を訴えて少年鑑別所法しょうねんかんべつしょほう第三十六条により、医者に診てもらったかもしれませんね」

 櫻子は、じっと考える。思い出せ、と自分に言い聞かせる。共通点、見落とし……何かないのか、焦ったように最初の事件から思い出す。

「……心療内科……」

 一件目の事件。集団レイプされた(さかき)光汰(こうた)。『光汰は精神を病んだみたいです』と、安井は言っていなかったか? その時に、心療内科に通ったのかもしれない。もしくは戸籍を替える際に、性同一障害を診断した精神科医がいたかもしれない。


 二件目の事件。璃子(りこ)に裏切られた吉川(きっかわ)美晴(みはる)。『お父さんと祥平には内緒で精神科にも連れて行きました』と、彼女の母の和葉(かずは)が言っていた。


 そうして、鑑別所にいた(あいだ)か出所後も薬を処方してもらう為に、『心療内科』に通っていたと思われる、三件目の池波隼人。


 ――共通しているのは、多分心療内科……その医師かもしれない。


「一緒の医師かもしれませんね……多分、考えたくありませんが……桐生蒼馬、彼が『精神科医』として、彼らに接触していたのかもしれません」

 真田も櫻子の考えを見抜いたのか、肯定する言葉を口にした。櫻子は静かに頷いた。その視線の先、転んでしまった子供を見た池田が、慌てて駆け寄り立ち上がらせていた。


「池田君の過去や――雪近さんという方の件は……? 先生たち、私とあまり行動しない方がいいんじゃないの?」

 桐生が口にした、警告。『櫻子に関わるな』と、はっきり桐生は真田達に告げた。彼なら、間違いなく行動に起こすだろう。泣きそうだった子供に笑いかけて頭を撫でた池田が、席に戻ってくる。


「若が決める事ですが――多分、若も会長も桐生を殺す為に動き始めるでしょう。雪近さんの敵討ちの為に」

 弁護士であるにも関わらず、真田はそうはっきりと言った。

「いずれ分かるとは思いますが、雪近さんは次期桜海會の跡取りであった会長の嫡男(ちゃくなん)です。若……雪之丞さんは、奥様とは別の頼子(よりこ)さんと言う女性と会長との間に産まれた方です。現在、若が跡取り候補です」


 桜海會の大事な跡取りが殺された。確かに、桜海會は桐生を許すことはできないだろう。黙っていれば犯人が分からないのに、自ら教える桐生は何を考えているのか。桜海會は、関西最大、全国でも屈指の大きな組だ。それと全面対決するつもりなのか。


「ですから、私たちは貴女といる方が好都合なんです」

「姐さん」

 池田は、ミルクも砂糖もたっぷり入った珈琲を一口飲んで、小さく笑った。

「俺の件は、大丈夫です。刺された事は子供の頃の俺の親の問題で、桜海會には関係ありません。むしろ、組には恩がありますんで」

「……そう。分かったわ」

 櫻子はスマホを取り出すと、何処かに電話をかけた。

「もしもし、私よ。こっちに帰って来たのに、まだ会いに行けなくてごめんね? ――調べて欲しい事があるの。出来れば、秘密で急いで欲しいの」

 電話口で、相手が何か返答したらしい。櫻子は「お願いね」と念押しして電話を切った。そうして、カバンから古めかしい茶封筒の束を取り出すと改めて真田に向き直った。


「真田先生、これは当時曽根崎警察署の刑事だった東が、自分がホームレスを襲ったと同僚に詳細に自供した音声と、関連した新しい証拠です。同僚の春日元刑事が、今まで大事に保存していました。証言して下さるという事です。そして、海藤さんの母親を見つけました。彼女から、再審請求をお願いされました」

 替えの下着を取りに行った竜崎が、宮城のロッカーで見つけたものだ。竜崎はそれを、櫻子に託していたのだ。


「――当時の検事の息子である、私に被告人の弁護を……?」


 差し出された茶封筒を手に、真田が戸惑ったように櫻子を見つめた。櫻子は何も言わず、小さく頷いた。

「分かりました、必ず海藤さんの潔白を証明します」


 今回の件で、宮城や曽根崎署に対する傷害罪、威力業務妨害罪いりょくぎょうむぼうがいざい、公務執行妨害は免れないだろう。だが、事件の背景を考慮されるに違いない。それに――犯人は、死んでしまったのだから。それならせめて、二十二年前の件だけは、清算してあげたかった。



 ただ、彼を爆死させた『三人目』は、しばく一課が大掛かりな捜査が続けられたが見つける事が出来なかった――当然のように海藤と掛川は自殺、として捜査は打ち切られた。

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