蒼の夢3
木陰に腰かけて、幹に背を預けた彼女の隣に、半歩分くらいの遠慮を空けてオレも腰を下ろした。アーシャはそんなオレの顔を覗き込んでは、不敵そうな笑みを浮かべている。何か言いたげな瞳を制して、オレは昼食のサンドイッチとリンゴを頬張り始める。彼女はというと、木の実と干しブドウを、小さな口に運んでいた。
「ウィーロはさ、ゲリーさんの跡を継ぐの?」
「ううん、どうかな。きっと、そうだと思うけど。そうだといいな、とも思うし」
「そっか」
不意の問いかけに、曖昧な返答で言葉を濁してしまった。なるべく本当の気持ちで答えようと焦って、霧を口に含んだみたいな答えがさらに口をついた。
「珍しいね。これからの話?」
「まぁ、あたしも一生ここで仕事しているかどうか分からないし。ていうか、そんなの絶対ゴメンだし」
「……そうだよね」
「ちがう。そういうことじゃなくて」
オレの口調を耳ざとく拾い上げて、彼女は口をとがらせて言う。クリーム色の髪が風に揺れて、薄ら桃色の頬を撫でていた。
「別に、マクトベラシュカに不満があるわけじゃないよ。そりゃあ、あたしの境遇を考えたら嘘だと思うかもしれないけど。それはそうとしてさ。十年後も、二十年後も、ずっとここに居たいわけじゃない。せっかく帝国に連れてこられたんだからさ、だったら帝国中を見てみたいじゃない。小さな島で一生を終えるはずだったあたしが、世界中を見て回ってみたいじゃない?」
「なるほど、それは面白そう」
「でしょ? 特に黄道の北側は全くの未知だし。もっと言えば、魔王に会いたい!」
「え、魔王に?」
意外な発言に、オレは思わず彼女の顔色を窺った。どういう反応をするのが正解なのか、見当がつかなかったから。
彼女が幼少の頃に、暴力を伴ってこのゼプキル市に連れてこられたことは想像に難くない。場合によっては、その中で親族や友人を亡くすことだって、正直言って珍しいことじゃない。魔王が指示したことではなくても、帝国の人間が搾取目的で起こした蛮行であることには違いない。恨むべき対象でこそあれ、親しみを込めて「会いたい」と言えることなんてあるのだろうか。
「そうだよ、魔王。たぶん滅茶滅茶にでっかくて、ものすっごく怖そうな顔で」
「うん」
「綺羅ッ綺羅な服を着て、超・超・超~強くてさ」
「うん」
腕をぐるんぐるん回して、獣の真似をして、カラカラ笑いながら話す彼女が、いつの間にか少しだけ遠い目をしていた。
「それで、たぶん、すごく優しいんだ」
「うん……?」
想定外の想像図に、疑問符がオレの思考回路を堰き止めた。
「知らないでしょ。キミたちが言う『原生群島』ではね、魔王は大人気なんだよ」
「そうなの? なんで?」
「いろんなお話が残っているから。お話っていうか、大人たちが会って喋ったってだけなんだけど。そういう話を聞いて島の子どもは育つから、自然と魔王が身近に感じるってわけ」
魔王が、原生群島に? そんな話は聞いたことがないけれど。
「あ、でも、今の魔王じゃないんだって。ひとつ前の魔王」
「幻王様か……」
それなら、少し納得できる。数年前に即位した現代の魔王が原生群島に訪問していたとなれば、流石に情報が入っていないとおかしい。けれど、先代の幻王ならば有り得ることだ。ゼプキル市を含め、この辺りの反帝国勢力を抑えて平定したのも幻王の大きな功績の一つだ。
俄然、興味の湧く話だった。「本当に存在したのか」とまことしやかに囁かれる幻の王の所業とは、果たして音に聞くようなものなのだろうか。悪党退治か、魔獣討伐か、それとも、戦争の記録?
「そんなんじゃないよ」
オレの表情を読み取ったのか、クスリと笑ってアーシャは応えた。
「どれもくだらない話。魔王が風の読み方に興味をもったとか、薬効植物の種類を知りたがったとか、赤ん坊を寝かしつけてくれたとか、島の神話を本に残したいから話して聞かせてほしいって頼んできた、とか」
「えぇ……それ、本当に魔王だったの?」
なんというか、イメージぶち壊しだった。どこぞのもの好きが、原生群島の人々に取り入ろうとして法螺を吹いた可能性の方がよっぽど高い。こんな言い方は怒るだろうかと思ったけれど、アーシャは風が吹くみたいに笑い声をあげた。
「そうだよね。でも本当なんだ。その人はね、神様を鎮めてくれたんだって」
「神様……? 自然信仰みたいな?」
「違うよ。あたしたちの島には、本当に神様がいたんだ。火の神コルトスと、死の神カリスト。この二柱の神々を島の人々はずっと信仰して生きてきた」
「だから、それは……信仰していたっていうのはつまり、炎の恩恵や死の恐怖に、神様の存在を重ね合わせて、ってことで合ってる?」
脳をフル回転させながら、言葉を選ぶ余裕もなしにオレは彼女に問いかけた。だというのに、彼女は大きく首を横に振った。
「いーや、合ってない。ウィーロの考えてること、わかるよ。神様なんていないし、見えないと思ってる。でしょ?」
「……じゃあ神様はいるし、見えるの?」
我ながら意地悪な問いかけだったと思う。けれど、彼女は満足げに頷いた。
「そうだよ。いるし、見える。コルトスに命を助けられることもあれば、カリストに殺されることもある。それは人には変えようのない運命として、信仰の対象になってた。『精霊が昇華したもの、つまりは神霊の類』だってさ。あたしもよく知らないけど」
「神霊、か。それなら少しわかる。龍種もそれに近いモノだって聞いたことがある。生物としての枠組みから外れて、意志を持った概念に格上げされた上位存在だって。そんなもの、いくら魔王だって相手にできるのかな」
龍種に会ったことがあるわけではない。というか、遭ってしまえば生きて帰れる保証はないのだろうから、なるべくなら出遭いたくないものだ。奴らからすれば、ヒト種だろうが龍人種だろうが等しく下等生物、虫けら程度にしか思わないに違いない。鬱陶しければ踏みつぶされるような存在だろう。
「はじめは、神を殺すつもりだったらしいよ」
何気なく放たれた彼女の言葉に、身の毛がよだつ思いがした。はっきりした信仰心を持ち合わせていないオレでさえ、その言葉にはゾクリと鳥肌が立つ狂気を感じた。
「でも、人々に恩恵をもたらすコルトスはもちろん、人々から命を奪い去るカリストでさえ、島では大切に信仰されていることを幻王は知ってしまった。だから、神様の権能だけを残して、封じることに決めた」
神を、封じることに、決めた。
「そんなの一体どうやって」
「あたしに聞かれても。幻王様、ドラゴンと仲良しだったらしいから、何か知恵があったのかもね。結局その権能は、形代に封印されたってわけ。めでたしめでたし」
「はぁ……で、アーシャは今の魔王様にも会いたいと思うの?」
満足げに語り終えた彼女に、そう問いかけた。
彼女はしばし考え込んだ後、腕の中に顔を半分うずめてこちらを見た。
「そうだね。今の魔王に別段興味があるわけじゃないけど。あたしはこのゼプキルの外に出てみたい。一緒に行ってくれる誰かと」
吸い込まれそうになる瞳の奥に、自分の顔が映りこんでいた。呼吸が浅くなる。首の裏側が収縮して、知らぬ間に鼓動のリズムが乱れていく。いつもなら言わない言葉。普段なら出せない声。それが、きっと今なら。
「アーシャ、あの宝石のこと……」
言いかけて、彼女の目を見つめて、何かを悟る。この瞬間、この人生できっと二度とこないこの瞬間に、彼女の瞳に映っていたのは、オレじゃなかった。アーシャの血の気が引くのが分かる。振り返らないといけないと気づく。彼女の視線の先で何が起きたか、彼女の瞳に映った景色が見えていた。
「ウィーロ……あれ、なんだろう」
観念して振り返る。
先程までオレたちがいた『ヒメユリ』の薬園。真っ白な花弁が舞い散っていたその一帯が、鮮烈な朱に塗りつぶされていた。花びらの一枚一枚が、見る間に変色していく。見渡す限り一面の朱に、オレたちは唖然として目を見開いて静止する。
花畑に立つ労働者たちから、驚きの声すら上がらない。誰もが呆気に取られて動けずにいる中で、父だけが、目を細めてこちらを見ていた。
「――――――!!!!」
雄叫びが木霊する。火薬庫が爆発したような重厚な怒声が、地の底からオレの足元を震わせる。静寂を砕いて地面に衝突した、漆黒の影、その刺々しい巨躯。魔獣の類。
「どうして」
アーシャが小さく呟く横で、オレは一歩も動けずにその場にへたり込んだ。全身に響き渡る獣の咆哮が、逃げることすら許さない。
「エイゾラ……」
彼女が口にしたのは、口伝にしか残っていない魔獣の名前だった。ひとたび姿を表せば、周囲の人間を鏖殺し、いずこへともなく消えるという、言わば厄災の名。
「どうして!? ここには何も……!!」
言いかけた彼女が口をつぐむ。
嗚呼、と息を漏らして。
「そういうこと。ゲリーさん、あたしたちは今までずっと、アヒルを育てていたのね」
パッと、鮮血が散った。
何が起こったのか、分からなかった。
衝撃で、背後のハシラギの樹が幹から砕け、頽れる。
半身が、生温かい。血まみれになって、ぐちゃぐちゃの肉片になったオレの左半身が見える。獣の魔力放出に、自らの半身が砕け散ったのかと思った。
でも、そうじゃなかった。
恐る恐る、傍らを振り返る。見るべきではなかった。だが、見ずにはいられなかった。
少し耳が欠けているけれど、かろうじて、彼女の頭部は無傷だった。
だが、それだけだ。
アーシャの右半身は、ほとんど完全に吹き飛んでいた。吹き飛ばされて、背後のハシラギに叩きつけられて、粉々になった彼女の欠片が、オレの左半身に温かく注がれている。
「アーシャ……?」
彼女は、ふわりと髪を靡かせ、静かに事切れた。
脳が錯乱していく。
一瞬を永遠に感じる。
何が起こった? エイゾラが現れた? 花弁が朱に染まった? だから何だ。
だから……なんだ?
思考を放棄したがる意思と、無意識に回転する思考そのものが摩擦を起こしていた。
ようやくわかる。
オレは光を知り、そして喪った。




