ナターシャ
さて、もうひとつ……語ろうと思う。
これは私が、ハイスクールへ通っていたのころの話だ。――
私は恋をしていた。ナターシャ……彼女はクラスメイトで、三番通りの端、この町ではすこしばかり有名な家のお嬢様だった。クラスでは控えめな印象だったけれど、バスケットのコートにいるときの彼女はまるで違って、溌剌としていた。その様子が、かえってクラスでの彼女の魅力を私のなかに引き立てていた。
ナターシャ……彼女とは、幼いころから互いを知っていたけれど、特別仲がよかったわけでもなく、今は特に、通りですれ違っても挨拶を交わすくらいの関係だった。もちろん彼女は、私のほのかな、それでいて熱いこの恋心を知る由もない……そう思って、私は彼女との距離を保っていたように思う。
五日前、ひとりチャペルに残る彼女を見かけた。後ろ姿だったけれど、なにか特別なことを祈っているようにも思えた。その姿はまるで、バルコニーでため息をつくジュリエットのようで、私は話しかけたい衝動に駆られたけれど、声をかけずにその場をあとにした。
***
ナターシャ……ここ数日、彼女の姿を見かけない。彼女はもう、バスケットも辞めたらしい……。
三番通りの端、ナターシャの家の前に、人影があった。彼女の部屋は二階で、その窓を見上げるかたちで男が立っていた。街灯に照らされて浮かび上がった男の像は、グレーのハンチングを押し上げて、窓のなかを窺っているようにも見えた。
怪しい……。
さっ……と、おそらくカーテンが閉じられたのだと思う。ナターシャ……彼女は男の存在に気がついて、気味が悪くなって、さっとカーテンを閉じたのだ。男はハンチングを目深に被りなおし、去っていった。その口許がいやらしく、私は吐き気を催した。
ナターシャ……。
***
三番通りの端、ナターシャの家の前。男を見たのは一度きりで、あれ以来、不審なことはなにも起こらなかった。
ただし、ナターシャはクラスに出てこない。……それにもうひとつ、あのおぞましい夜以来、彼女の部屋の窓はいつも分厚いカーテンに被われていた。
その日はたまたま、カーテンが開いていた。ナターシャ……、きみは、閉め忘れたのだろう。私は心配になって、その窓を見上げた。窓自体が開いているようで、吹きこむ夜風と入れ替わりに、繊細なランプの明かりが洩れだしていた。
ナターシャ……。
声をかけようかかけまいか、私が迷っていると、不意に彼女が姿を見せた。目が合った、その途端、彼女は声にならない悲鳴をあげて、白くなった身体を仰けぞらせて窓から姿を消した。
ナターシャ……!
***
気がつくと、私は自宅のベッドにいた。
前夜の出来事をすっかり忘れていた私に、すべてを思い出させ、私の肢体を戦慄させたのは、机のうえへ置いていた、お気に入りのハンチングだった。――
- FIN -
ハイネの詩、『ドッペルゲンゲル』から着想を得ました。