2.湖
御殿の中庭に足を踏み入れると、途端に水の香りを纏わせた風が私を出迎えてくれる。
揺らめくのは湖とユグドラシルの枝。決して小さくはない湖一つをすっぽりと包みこんだそこを、中庭と呼ぶにはあまりに広い。
ともかく、清らかさを絵に描いたような場所だった。
そんな場所の中央。
ユグドラシルの大きな根元と湖の揺らめきの間で、青い礼服に身を包んだ愛らしい少女はじっと地面を見つめていた。
柔らかな土色の髪と澄んだ水色の双眸。
彼女自身が穏やかな小川のせせらぎのよう。
カリスティという名のその少女の元へ、私はそっと近寄った。
「何を見ているの?」
出来るだけ、優しく。
意識的に声をかけては見たけれど、カリスティはこちらを向いてくれなかった。じっと地面を見つめたまま、私の姿等感じていないかのように動かない。
夜風が彼女の髪を揺らしてはいるけれど、彼女自身の身体はちっとも動いたりしない。
幼さの残るおよそ十歳の外見をした少女を前に、私はただただ佇んでいた。
ここ数年、私はまともにカリスティと向きあえていない。
それは間違いなく異常な事であるらしい。
私が神殿に引き取られたのは五歳の頃だ。
生まれてすぐ私を取り上げた大人達は、私の左胸にはっきりと浮かぶ痣を見て恐れを成したらしい。
槍の印と呼ばれる痣。英知の天使が授けた知恵。
敬虔な両親はそれでも五年の間精一杯私を愛してくれたらしい。もはやその殆どを覚えてはいないけれど、神官たちに引き取られる前に見聞きした父母の悲しそうな表情と穏やかな声は、今も私の脳裏にしっかりと刻まれている。
――何処で生きようと、お前は私達の可愛い娘だ。
厳かに見送る父と薄っすら涙を浮かべる母。
たった五歳。されど五歳。
父母と別れるのは寂しかったことをはっきりと覚えている。
神殿という場所は生まれ育った家よりもずっと豪勢な場所だったけれど、生まれ育った家の方が温かいと何の疑問もなく納得していた。
辛い時、寂しい時、父母の下に帰りたいと何度願ったことだろう。
世話係の女官や、教育係の魔術師がどんなに優しく包みこんでくれても、その温かみが父母のものに勝ることなんてなかった。
アテナという名前をくれた父母。
神殿の頂点である神官長の命令で、その名前を公的に使う事は禁じられてしまったけれど、それでも私はアテナという娘であった事をしばらく忘れることが出来なかった。
けれど、両親が寂しくて泣いたのは七歳となったあの日までの私。
青きサファイアのような卵が孵化したあの日、全ては変わった。
カリスティは全く動かない。
まるで置物にでもなってしまったかのようだ。
隣に座ってみても、覗きこんでみても、カリスティの視界のなかに私の存在が入り込むような隙すら存在しないらしい。
いつからこんな事になってしまっただろう。
思い返すのも、辛いものがある。
夜空の下で生温かい風がカリスティの土色の短髪をふわりと揺らす。同時に、すぐ傍で湖の水面が揺らめいた。
全てが青く、深い。
カリスティの清らかな身体を包む礼服のように静かだ。
黙ったまま下を向く少女を見つめながら、私は必死に話題を探した。思い出すのは私の世話係をしている女官との会話。彼女は無駄話が多いけれど、こういう時に少しは役に立つ噂話ばかりだ。
「そう言えばね、ここ数カ月の間、愛情の国で他国の伝承のお祭りをしているんだって」
今朝、聞いたばかりの話だった。
カリスティは下を向いたまま頷きもしない。
「それで先月は希望の国の番だったけれど、今月は英知の国の番で、一角獣に因んだお祭りをしているらしいの」
「一角獣……」
ちらりとその小さな唇が刻んだ声を、私は聞き逃さなかった。
――一角獣伝説。
我が国に英知の天使が舞い降りる前よりこの地域の人々が信じてきた話だ。人々を陥れようと悪しき者の手が伸びた時、必ずや聖なる一角獣が現れ、救ってくれるだろう。
かつてそんな生き物がいたのだろうか。
分からないけれど、一角獣の人気は今でも高い。
その後、英知の天使が黄金の果実を産み、槍を与えた後も、この伝説は消えようともしなかった。寧ろ、英知の天使が授けた武器が槍だった事が、一角獣の伝説をさらに根強いものに変えてしまった。
わが国で槍の印を受けた者は一角獣とも呼ばれる。
果実に寄り添い、不届き者から必死で守ろうとするその姿は、この国に生まれた人々にとって聖なる一角獣が具現化したようにしか見えないらしい。
かつてカリスティはそんな一角獣の話が大好きだった。
今でも聖なる一角獣の訪れを待っている事だろう。
けれどそれは恐らく私の事ではない。
「どんなお祭りなの……?」
カリスティが再び呟く。
質問だ。興味を持ったらしい。会話が出来るのは貴重な事だった。私は出来るだけ意識して静かな声で答えた。
「英知の国で出回っている一角獣の本とか、置物とか、絵画とか、そういったものが展示されるって聞いたわ」
それだけではなく、槍と英知の果実についても何かしら展示があるらしい。
どんなものかとても気になるけれど、遠い他国の話では知る術もない。聖域を越えて国を移動するには、大金がかかる。殆どの民が他国になんていけないだろう。
そもそも、同じ事が英知の都であったとしても、カリスティは勿論、私でさえも観に行く事は許されない。私もカリスティも、この神殿の中だけで一生を終えるように定められているのだ。
いや、生きている間だけではない。死後の身体もまた、この敷地の中で葬られる。
ユグドラシルの見つめる大きな湖。
私達の耳にも、夜風によって生み出されるそのさざめきの音は聞こえてくる。
ここは私達がいつか入る墓でもあった。代々の果実と槍は死した後、火葬された後にこの湖に遺灰を流される。
私が槍に生まれ、カリスティが果実に生まれた以上、この場所からは逃れられない。
此処はそんな場所だった。
「一角獣の……展示か……」
弱々しくカリスティは呟いた。
だが、それ以上言葉は続かなかった。
その目がこちらを向く事は無い。どうあっても彼女の表情が笑みを浮かべるような事もないようだった。
もう何年だろう。
何年の間、私は彼女の笑みを見ていないのだろう。
それでもまだましにはなってきた。前は会話すら出来なかったのだ。私が一方的に喋るだけ。触ってみても嫌がりはしないけれど、その表情に変化もない。
それは私にとって辛いことだった。
カリスティを初めて見た時から、槍として生まれた尊さを感じ、この子の為に生きようと心に決めたはずなのに、どうして私は彼女と心を通わせられないのだろう。
何よりも、カリスティにとって私が必要ないのではないかと思うのが怖かった。
槍に生まれ、ここで囲われる以上、戦い続けるのが私の役目だ。それは分かっているし、当り前の事だし、見返りなんて求めるつもりはない。
けれど、そうは思っても、カリスティの笑顔すら見られないのはやっぱり寂しかった。
浮かび上がってきた負の感情を必死に振り払い、私は再びカリスティに向かって会話を切り出した。
「都ではね、愛情の国の芸術家達の作品が流行っているんだって」
カリスティは俯いたままだ。
気にせずに、私は続けることにした。
「元々、愛情の国の人達って、英知の国の一角獣伝説が好きな人が多いらしくってね、一角獣をモチーフにした作品もいっぱい生まれているらしいよ」
カリスティは黙ったままだ。
「私はよく知らないんだけどね、ニンフはそういうのをよく見かけるんだって」
身軽な人鳥というものは少々羨ましいものがある。
空を飛ぶっていうのは楽ではないと主張する彼女だけれど、それでも実際に悠々と飛び回っているのだから説得力がない。
何より、空いた時間で気の向くままに都まで軽々と飛べること自体は羨ましかった。
私が行くとなれば、一週間に一度半日ほどの暇を許される時に、数名のガーディアン等を連れてのことだろう。そもそも、半日暇であるだけだと行って帰ってくるだけで一杯一杯になってしまうではないか。
小さく息を吐くと、カリスティが微かに動いた。
「ソフィア……」
控えめに私の呼び名を呟く。
その表情を窺おうとしてみたけれど、それは困難だった。
「……都に行きたい?」
決して目を合わせぬまま、カリスティはそんな事を訊ねてきた。
そこに含まれる弱々しい感情に気付いて、私は慌てて首を横に振った。
十歳の少女だからといって甘く見てはいけない。そもそも、カリスティはただの人間ではない。ユグドラシルの根元より青い卵として生まれ、七年の時を経て孵ってやっとこの姿で誕生した果実なのだから。
カリスティは聖域の要であるユグドラシルの命そのもの。
愛らしい少女の身体の心臓部には果実が秘められ、その小さな鼓動の一つ一つが英知の聖域を守るユグドラシルの清潔さを保っている。
無駄に丈夫な私と違って、人間のように繊細で壊れやすい身体を持っているカリスティが、正確には何歳なのかよく分からない。
ただ卵より孵ってからの年齢で扱われているから、それに倣っているだけの事。
それでも、カリスティはやはりただの十歳の人間と比べて気に聡い所がある気がした。
どんなに幼く見えても、どんなに未熟に見えても、どんなにか弱く見えても、果実を孕む儚げな少女は、いつだって私が思っている以上に心を悩ませている。
他国でもそれは同じ。果実とそれを守る武器の間には一種の絆と責任感と罪悪感とが寄り添いあっているらしい。
果実は時に自分の為に血を流し、幾度となく無限の命を散らす己の武器に心を痛め、罪悪感を抱くのだ。
カリスティがそうでないと何故言えるだろう。
「いいえ。都に行くくらいなら、ここでこうしてカリスティと一緒にいる方がいいわ」
別に嘘を言っているわけではないのだ。
己の守るべき果実と時間を共にして嬉しくない槍なんて存在しない。歴代の槍は危険のない時でも果実の傍に居たがったらしい。
私だってそうだ。カリスティがサファイアのような卵より孵ったあの日以来、私は常にカリスティの傍に居たくて仕方がなかった。どんなに報われなくとも。
――なのだけど。
カリスティの反応は薄いものだった。
目はやはり合わせてくれず、覗きこんでも反応は得られない。唇はやや動いているけれど、そこから明確な言葉が生まれる事はなかった。
私は黙ったまま目を逸らし、ユグドラシルを背に正面の湖を見つめた。