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英知の槍  作者: ねこじゃ・じぇねこ
第1部
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1.ソフィア

 アテナという名前は母が私を産む前に考えていた名前だったらしい。

 とても古い女神の名前だと聞いている。

 英知の国の片田舎で、本を読むのが好きだった母がふと思いついた名前だった。

 次にもしも娘が生まれたらその名前を付けたいと言った母の希望を、父もまた尊重し、叶えてくれた。

 そして私は生まれ、予定通りアテナという名前を付けられたのだ。

 古き女神の名前。母が考えてくれた大切な名前。しかし、十七歳になった私をその名前で呼ぶ者は、今やもう本当に少なくなってしまった。

 公的な場で、私を示す名前。

 それは、ソフィア。

 英知を意味する言葉。そこには人々の願いが込められ、生まれながらに私に課せられた大きな使命への責任もまた含まれている。

 清水の精でも取り憑いているかのような巨大な槍を召喚し、たった一つの守りたいものの為だけに戦う私は、あらゆる者に一角獣とも呼ばれる。

 けれど、私は知っている。

 私は決して、伝説の一角獣のような絶対的な存在ではない事を。


 生温かい夜風を感じながら、私は一人夜空を窺っていた。

 別段利くわけでもない夜目を意識しながら星々の瞬きを見上げているのは、何も単なる暇潰しの為だけではない。

 人を待っていたのだ。

 場所は神殿。ここ英知の国を守る聖域の要となるユグドラシルを守る御殿の屋上。そこは展望台と呼ばれていて、空を一望できる。

 本来は人鳥にんちょう等の空を飛べる獣人に考慮して作られた空間らしく、現在、私が待っているのもその人鳥の一人だった。

 空を見上げ、待ちわびている者の姿を脳裏に思い描く。

 寒いわけではないけれど、一人きりで待つのは少々不安な事もあって、身体の震えが生じていた。

 待ち人が遅いということではなく、私が待ち切れないだけだ。

 展望台のすぐ後ろにはユグドラシルの枝が空の彼方へと向かって伸びている。その枝の揺らめきを感じながら、私はふと巨大な聖樹の根元で今も寝そべっているのであろう少女の姿を思い浮かべた。

 ――カリスティ。

 その名を思い浮かべた時に生まれる感情は、上手く言葉で表す事が出来ない。

 近いもので、家族から特別に手紙をもらえた時に双子の弟妹が生まれたのだと知らされた時にふと湧き起こった感情だろうか。

 或いは、もしも私が普通の女子として生まれ、成長し、誰かと結ばれて子を産むことがあった時に抱けるものかもしれない。

 家族愛とでも言うべきもの。

 絶対に赤の他人だなんて言えない十歳そこそこの少女のことを考えながら、私はじっと空を見上げ続けた。

 こうして人鳥の一人を待っているものも、カリスティの為だ。

 それは、人鳥の方だって同じ事。わざわざ危険な夜空に不確かな噂の為に狩りだされてしまったのも、カリスティの身を按じてのことだった。

 待ち続けて暫く。

 予定通りの時刻にそれは現れた。

 月光と雲の間を縫うように飛ぶ大きな鳥。

 聖域の外に広がる魔物の世界で怪鳥と呼ばれる肉食鳥と同じ血を引く魔獣。しかし、純血の怪鳥と違う点は、聖域を越えられるだけの人間の血を引いているという所だ。

 彼女こそが人鳥。

 私が待っていた人物。

 怪鳥は私の姿を見逃さずに捉えると、そのまま展望台へと急降下してきた。そして、その巨体が建物にぶつからないぎりぎりの所で、たくさんの羽毛が飛び散り、間から一人の若い娘が現れた。

 ちょうど私の正面で華麗に着地し、怪しく笑みを浮かべる娘。

 成人している女性のはずなのだが、中性的な外見は少年に見えなくもない。だが、そんな事よりも他人の目を惹くだろう特徴は、万華鏡のように輝く独特な鳥の目と、髪の代わりに生えている美しい羽毛かもしれない。

 それ以外は本当に私とも変わらない人間の姿をしていて、整った顔立ちには親しみやすい表情をいつも浮かべている。

「おかえり、ニンフ」

 私は彼女の名を読んだ。

 ニンフは目を細め、気ままな猫のように伸びをすると、よく通る声で答えた。

「ただいま、ソフィア」

 その声もまた少年のようだ。

 けれど、ニンフは立派な大人であり、ガーディアンと呼ばれる戦士の頭の一人として認められており、たった一つしかない命をもう何度も危険に曝してきたつわものだ。

 半人半鳥の姿で私が生み出す者とは比べ物にならないほどの大槍を振り回すその姿は、この神殿を侵そうというあらゆる不届き者の腐った心身を凍らせてきた。

 しかし、それも戦いの時だけの話で、普段のニンフは私によく協力してくれる頼もしく心優しい大人の姉のような存在に違いなかった。

「何か分かった事とかあった?」

 私が訊ねると、ニンフは溜め息混じりに首を横に振った。

「何にも。悲しいくらいにね」

「そう……」

 ニンフが向かってくれたのはここから遠くに離れた英知の国の都だ。幼い頃にほんの少しだけ通った記憶しかないそこで、数日前より事件が起こっている。

 沢山の人が集う場所で揉め事が起こるなんて珍しい事ではないけれど、その事件はあまりにも歪なものだった為に、神殿の者たちは警戒を強めているのだ。

 勿論、私もそうだ。

 ここは聖域の要。悪しき魔物から人々を守る為の心臓部。ユグドラシルと果実が守られる限り、英知の国の人間達は守られ続ける。

 それなのに、世の中には狂ったことも多い。

 非凡な魔力を有していると知られる果実を欲しがる愚かな者は後を絶たないのだ。どんなに教育を徹底し、どんなに教えを広めても、果実はいつの時代も狙われ続ける。

 都で怪しげな事件が起きた時、私達はいつも警戒した。

 狂った者が欲望のままに近づいて来るかもしれない時に備える必要があったからだ。

「とにかく、吸血鬼の『き』の字も見つからなかったよ」

 ニンフはそう言って大きく溜め息を吐く。

 夜の闇に浮かび上がるような白い肌は、純血の人間と少しも変わらないように見える。その姿からは、先程までの厳つい怪鳥の風貌とは結びつかないくらいだ。

 けれど、訓練で共に刃を交えた事のある私は知っている。

 華奢に見えるこの姿であっても、ニンフの身体能力は純血の人間とは比べ物にならない程高いものだ。人間の男が束になっても、ニンフを取り押さえる事は困難だろう。

 彼女の強みは人鳥であることだ。

 怪鳥の姿ならば思う存分、空を飛べる。その能力を使って、ニンフはたびたび神殿の周辺を警備して回った。

 そして今回、ニンフが探りまわっていたのは夜の都。

 ここからでも近代的な建物の明かりがちらほら見えるあの場所で、吸血鬼騒動が起こったのはもう一カ月以上前の事だった。

「都は広いからね。どうにか見つけてやりたい所なんだけれど、見かけるのは古ぼけた機械人形ばっかりでさ。血の通った人自体があまり歩いていなかったようだよ」

 そう言ってニンフは地べたに座り込んだ。

 万華鏡のような目と羽毛の髪はそのまま。それでも、それ以外は人間の女性と何ら変わらない姿を目の当たりにしていると、一体どうして私達の周りに鳥の羽根が散乱しているのだか思い出せなくなって来るほどだった。

 事件の全貌を思い出し、私は少々不安を覚えた。

 吸血鬼の正体はあまり明らかになっていない。犯行現場が殆ど目撃されていないせいでもある。吸血鬼はまるで幽霊のように現場に現れ、一人きりでいる若い娘を襲う。襲われた娘は全身の血を失い、家族が見つけた時には帰らぬ人となっているらしい。

 そんな事件がもう何十件も起きている。

 幼い娘や若い娘を抱える家庭の中には、既に都から離れる者たちもいるらしく、都の人口はやや減っているらしい。それでも、皆が皆、思い立ったが吉日と離れることが出来るわけでもなく、未だに都では人々が怯えているらしい。

 若い娘だけではなく、恐怖は中年以降の女性や男性にも伝染している。

 その理由は、つい一週間ほど前より起こり始めた新たな事件の流れのせいだ。目撃者が殺される事態となってきたのだ。犯行現場に横たわるのは幼い娘だったが、その傍にはたまたま通りかかっただけの男性も全身の血を抜かれた状態で発見されたのだ。

 それがきっかけで、人々はますます外出を控えるようになったのだとか。

 そんな事件の話を私に詳しく教えてくれるのは、私の世話係を引き受ける女性神官や、ニンフくらいのものだ。

 だが、特にニンフのお陰で外の状況は詳しく伝わってくるようになっていた。

「犯人はよっぽど強い魔力を持っているらしい。恐らく、濃い血を継いだ鬼族きぞくの一味だろうけれど……」

 鬼族とはその名の通り、鬼の血を引く魔族のこと。

 殆どがニンフを始めとする人鳥等の獣人で占められる魔族だけれど、ほんの一部、鬼族というものや人妖というものも存在するらしい。らしいというのも、この神殿に仕える魔族は獣人のみであり、少なくとも私は見たこともないからだ。

 ただ、鬼族の話を知らないわけではない。

 彼らは聖域の外を跋扈する鬼の血を引き、吸血、食人、殺人といった欲求を抱えながら暮らしている。もちろん、聖域の中で暴れ回るような不届き者というわけではない。知能の高い彼らは、そんな事をすれば鬼族が迫害されてしまう事を知っているのだ。

 しかし、どんなに正しくあろうとしても、彼らの中には度々欲望に支配されて暴れ回るような輩が存在する。あらゆる犯罪組織の中でも、特に取り締まるのが困難な団体のメンバーには鬼族が紛れ込んでいる事があると聞いた。

 しかしかつては、この神殿にも鬼族が仕えていたことがあるらしい。そうやって正しくあろうとする鬼族もいるというのに、悪い方面に走ってしまう者たちのせいで他の種族の者たちからの彼らのイメージはとてつもなく悪い。

「つまりは本物の吸血鬼ってわけね」

 私の言葉にニンフはぎこちなく頷いた。

「そうだと思う。でも、何だか妙なんだよね……」

「妙って?」

「うーん、なんて言うか、鬼族っていうのは確かに強い力のある魔族だけど、もっと生き物らしい奴らでもあるんだ。それに対してこの事件の犯人は何処か幽霊みたいな得体の知れなさがあって……」

 そう言って、ニンフは戸惑いと若干の怯えを見せる。

 ニンフにしては珍しい。そんな事を想ってしまった。

 少なくとも彼女は幽霊だなんて言葉に怯えるような人ではない。現実的に物事を見るし、現実的に敵と戦う勇猛なガーディアンだ。その血の中に僅かにでも勇敢の民の者を受け継いでいるのかと思うほど、彼女は現実的かつ勇ましく戦う。

 そんな彼女が戸惑い、怯えを見せているなんて。

「もしかしたら、奴は賢者級の魔術の使い手かもしれないね」

「賢者級……」

 我が英知の国では専門的な分野に突出した者、特に魔術を極めた者は賢者という称号を得ることが出来る。国より直々に称号が下り、栄誉として没した後もその名は永遠に輝き続けるものだった。

 神殿にも賢者の称号を与えられた者が複数いるが、決して多いわけではない。

 賢者級。もしも他人の為にその力を使うと言うのならば問題は無かった。けれど、相手は既に複数名の命を奪った極悪人だ。

 ニンフの懸念が当たっているとすれば、厄介な事この上ない。

「ともかく、これからも警戒するに越したことはないだろうね」

 そう言ってニンフは立ち上がった。

「僕からは以上だ。大した情報が無くて御免よ」

「ううん……お疲れ様」

 そう声をかけるとニンフは軽く笑みを浮かべてあっさりと去ってしまった。

 一人夜空の下に取り残された私はふと背後で揺れるユグドラシルの枝を振り返り、見上げた。空の彼方にまで伸びるそのてっぺんを確認する事は絶対に出来ない。聖域を作りあげているという大樹はそれだけ果てしない存在だった。

 神聖なる命の幹とその途中にて風に揺らされる数多の枝を見つめながら、私はそっとその根元にいるだろう人物の顔を脳裏に思い描いた。

 既に日も沈み久しいけれど、カリスティはきっとまだそこにいる事だろう。

 ふわりとした生温かい風を感じながら、遠き都の光の下に潜む吸血鬼の噂を胸に、私もまたそっと踵を返した。


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