その3『告白』
ティースたちが宿泊する宿で泥棒騒ぎがあった日から三日間、彼らが滞在するアグノエルの町は悪天候に見舞われていた。町の通りには足首が埋まるほどの雪が積もり、太陽が昇る時間になっても外は薄暗いまま。辺り一面が真っ白に染まったその光景は、四月のネービスでは決して見られないものである。
天気が悪化して四日目の午前中。
宿の自室から外を眺めていたシーラはようやく回復しつつあった空模様に、今日は出かけても大丈夫だろうかと少し様子を窺っていたのだが、窓から外を見る限り、道行く人々はこの天気に動じた様子もなく平然と歩いており、どうやらこの程度はアグノエルの町では珍しい光景ではないようだ。
やれやれ、と、空模様と同じ曇った気分で部屋の中に視線を戻すと、ちょうどのタイミングでノックの音がした。
「シーラ、いる?」
ドアの向こうから顔を出したのはエルレーンである。ヒラヒラとした薄手の服を着ていることが多い彼女であるが、このクリーヴランド領ではさすがに寒いようで、今はシーラたちが着るような厚手の木綿の服を着ていた。袖や裾が余り気味なのは、彼女にピッタリ合うサイズをすぐには調達できなかったためである。
「なんだか不機嫌そうだね、シーラ」
「少なくとも気分爽快ではないわね」
軽く椅子を動かして振り返ったシーラの表情は、その言葉とは裏腹な穏やかだった。
エルレーンは後ろ手にドアを閉め、軽やかな足取りで部屋の中央まで進むと、ぴょんと飛び跳ねるようにしてベッドの上に腰を落とした。
「クローゼルの花だっけ? この天気じゃ観光馬車も出られないもんね」
そう言いながら窓の外を見る。
シーラはそんなエルレーンの視線を追いながら、
「明日からは少し回復しそうだけど、いずれにしてもあと何日かは待ちぼうけね」
と、残念そうに答えた。
クローゼルの花の群生地は、アグノエルの町から馬車で四時間ほどの場所にあるらしく、数日に一回程度、観光用の箱馬車も出ている。しかしながらその道中には雪が多く、天気の悪い日には馬車が出ないということだった。
だから今はとにかく天気の回復待ちなのである。
「まあ急がなくてもいいじゃない。せっかくの旅行なんだしね」
と、エルレーンはベッドに腰掛けた足をブラブラさせながら、
「ティースとだったら仕事で色々なところに行ったりしたけど、キミとこうして遠出をするのは初めてじゃなかった?」
「まあ、そうね。ネービスじゃなかなか休みが合わなかったし、カザロスにいた頃は外出どころじゃなかったわ」
と、シーラは当時のことを懐かしみながら頷いた。
彼女たちが出会った当時、エルレーンとリィナの二人は一時的に人間に姿を変える術も心得てはおらず、蔵の隠し部屋からほとんど外に出ることができなかったのである。出るとしたら人気のなくなった真夜中ぐらいで、日中の町を一緒に歩くようなことはもちろんなかった。
「今にして思えば、よく二年間もあそこで過ごせたものだわ。私だったら気が狂うかも」
少し冗談めかしてシーラがそう言うと、エルレーンも懐かしそうな顔になって、
「キミたちが世話してくれたからね。リィナも一緒だったし。一人だったらボクも耐えられなかったかも」
「そう。……懐かしいわね」
シーラは目を閉じ、過去の記憶に思いを馳せた。
世話をした、といっても、シーラもティースも蔵にずっと入り浸っていたわけではない。蔵の中に隠れている二人の存在がバレないように、一日に一度の食事を運ぶとき以外はなるべく近付かないようにしていた。
そんな状況で二年間。
二人ともかなり辛い思いをしたはずだとシーラは考えているが、彼女たちがそれを口にすることはない。それどころか大切な思い出だと迷いなく言い切っていて、それは当時、自分なりに一生懸命だったシーラにとっては嬉しい言葉だったし、そんな彼女たちと出会えたことを逆に感謝してもいるのだ。
シーラはゆっくりと目を開いて現実に戻ってくると、そういえば、と、呟いて問いかける。
「リィナはどうしたの? 部屋?」
「行き先はキミが知ってるんじゃない? ティースに付いていったみたいだから」
「知らないわ。所用とかなんとか言ってただけだし。そう。ティースと一緒なのね」
彼が宿を出たのは朝食を終えてすぐのことだ。シーラは見送ることなく部屋に戻ったので、リィナが彼と一緒に出かけたことを知らなかったのである。
そこでいったん会話が途切れた。シーラがなんとなしに窓の外を見ると、雪の勢いはどんどん弱まっているようだった。
この様子だと、二、三日後には目的を果たせるだろうか、などと、取らぬ狸の皮を数えていると、
「ねぇ、シーラ」
少し改まったようなエルレーンの言葉が響いた。
「なに?」
シーラが再び振り返ると、エルレーンはブラブラさせていた足を止め、どこか探るような目を真っ直ぐに向けていた。
「いつか聞こうと思っていたんだけど……キミはどうしてネービスを出て行くことにしたの?」
「ジェニスが恋しくなったからよ」
シーラは即座にそう答える。予想していた質問だった。
「それだけじゃないよね?」
確信しているかのような問いかけ。
シーラは続けて言った。
「向こうのほうが薬師としてやっていくのに楽だから。こういう職業はネービスだとだいたい供給過多なのよ」
「ウソ。サンタニア学園の首席卒業なら、ネービスどころかヴォルテストでも引く手には困らないはずだよ」
即座にそう言い切ったエルレーンにシーラは少し驚いたが、少し考えて納得した。彼女はもともと人間の世界に強い興味を持っている。こちらの世情や常識に疎いという王魔の定説は、少なくとも彼女に対しては当てはまらないのである。
「よく知っているわね。本当に勉強家だわ。あなたもサンタニア学園に入学できるんじゃない?」
「はぐらかさないで、シーラ」
エルレーンはベッドから少し身を乗り出すようにした。
「ティースもリィナも口には出さないようにしてるけど、本心ではキミに残ってほしいと思ってる。もちろんボクだってそう。ジェニス領とネービス領は行き来できないほどの距離じゃないけど、ティースにはディバーナ・ロウの任務があるし、会えてもきっと数年に一度ぐらいだ」
「あなたたちはともかく、ティースは少なくともカザロスの町には入れないわね。あそこじゃあの男はお尋ね者みたいになってるはずだもの」
エルレーンは悲しそうな顔をした。
「それで寂しくないの?」
シーラは軽く首を傾けてみせて、
「別に寂しくないわね。あの男の情けない顔を見なくて済むから逆に清々するんじゃないかしら?」
「ウソだよ、そんなの」
再び強い調子でそう言い切ったエルレーンに、シーラは僅かに挑戦的な目を向けた。
「どうして嘘だと?」
「だってキミは、あんなにもティースと仲が良かったじゃない」
「それはカザロスの町にいた頃の話でしょう? 今は今。ちょっとしたことで心変わりなんて珍しいことじゃないわ」
エルレーンは即座に応酬する。
「ティースは昔と変わってないよ。いきなり嫌う理由があるとは思えない」
「だったら訂正するわ。私とあの男は最初から仲良しなんかじゃなかったの」
「そんなはずないよ。だってシーラ。キミとティースはあんなに――」
「だからその前提が間違っているのよ、エル」
「え?」
きょとんとしたエルレーンに対し、シーラは一瞬の躊躇の後、
「仲が良かったのはその二人であって、私とティースではないんだから」
「……なに言ってるの、シーラ?」
エルレーンは困惑顔をした。当然だろう。いくら察しの良い彼女であっても、その言葉だけで真相に至ることができるはずもない。
重たいため息。
シーラは少し迷う表情をしていたが、やがてゆっくりと口を開く。
「たぶんこれが最後の機会だし、あなたには話しておいてもいいかもしれないわね」
そう言って右手をゆっくりと自らの後頭部、髪を束ねる質素な髪飾りに添えると、言った。
「ティースとシーラの仲が良かったのは本当よ。仲が良いどころか、あの子にとってあの男はきっと初恋の相手ですらあったわね」
「……どういうこと?」
急に他人事のようになったシーラの口調の変化に、エルレーンはますます戸惑いの顔をした。
そんな彼女に、シーラはことさらに素っ気なく言い放つ。
「きっと今、あなたが疑問に思ったとおりよ。私はシーラじゃない。私の本当の名前はシルメリア。シルメリア=レビナス。……シーラというのは四年以上も前に事故で死んだ、妹の名前よ」
エルレーンの息を呑む音が、静かな宿の部屋に響き渡った。
ティースたちが泊まる宿から大きな通りを南下し、町の中心付近にある噴水公園から西のほうに進んでいくと、この町の治安を守る警邏隊の本部である大きな建物が見えてくる。
宿の主人に聞いたところによれば、この町では悪天候のときに犯罪率が高まる傾向があるとのことで、建物前の通りを見覚えのある制服の男たちが頻繁に行き来していた。
ちなみに三日前に宿に侵入した泥棒についての新情報は今のところない。特に大きな被害がなかったこともあって、ティースなどはこの警邏隊の本部前まで来て、ああ、そういえば泥棒の一件はどうなったんだろうな、などと呑気に思い出したぐらいである。
もちろんそんなティースが、この警邏隊本部に用などあるはずもなく。彼が向かったのはその建物のさらに三軒ほど向こう。“デビルバスター協会支部”という看板の掲げられた比較的新しめの建物のほうだった。
入り口のドアを開くと玄関の横には人が一人収まるぐらいのカウンターがあり、そこから顔を出した若い女性がティースの顔を見て、
「デビルバスター証の提示をお願いします」
と、言った。
“デビルバスター証”は厚さ一センチほどの金属でできた手のひらサイズのカードで、デビルバスター試験の合格時に配られる身分証である。表面には名前とデビルバスター試験の合格年が彫られていて、本人が手にしたときのみこの文字が薄く発光し、その人物が間違いなくデビルバスターであることを証明する仕組みだ。偽装を防ぐためにこの仕組みの詳細については公にされていないが、一般には各人が持つ聖力のパターンに反応して発光すると言われている。
ティースは受付の女性に自分のデビルバスター証を提示し、いったんカウンターに置いて、手にしたときのみ文字が光ることを示す。
「確認しました。ティーサイト=アマルナ様。奥へどうぞ」
受付の女性がそう言うと同時に、カチリと正面にある扉の鍵が開く音がした。
リィナを伴ってその扉の向こうへ進む。
まず最初にあったのは大広間だ。辺りにはいくつかのテーブルが設置され、正面の奥には酒場のようなカウンター。左右の壁には三つずつ扉があってその奥はおそらく個室だろう。部屋の隅には二階に続く階段があって、二階部分はおそらく宿泊施設だ。
各地にあるこれらデビルバスター協会の建物は、主にデビルバスター同士の待ち合わせや情報交換などに利用される。宿泊施設も含め、デビルバスターであれば誰でも無償で使用することが可能だ。
ティースは誰もいない大広間を真っ直ぐに進み、奥のカウンターへと向かった。カウンターの向こうには三十代後半ぐらいの男がいて、近付いてきたティースを見るなり、いらっしゃいと野太い声で言う。
ティースは軽く頭を下げ、男に対してもデビルバスター証を提示した。
男はそれを覗き込むように見て、
「おお、去年の合格者か。新人さんだな。どうだい、最近の調子は」
無精ひげで一見気難しそうな外見とは裏腹に、気安い口調でそう言って右手を差し出した。
「ええ、まあ、それなりに……」
曖昧な返事をしながら握手を交わし、隣にいたリィナを仲間だと紹介した後、彼女と並んでカウンターの席に腰を下ろす。
そして、
「最近、この辺りの魔の動きはどうですか?」
と、尋ねた。
デビルバスター協会の各支部にはその土地にいるデビルバスターたちが多く訪れる。そのため、その周辺の魔に関する情報も集まりやすいのだ。
ティースがここに来たのはその情報収集のためであった。
「ってことはよそ者だな? ……ああ、何か暖かい飲み物でも出そう。二人とも紅茶でいいか?」
「いただきます。あ、彼女のほうにはミルクと砂糖を六杯入れてください」
そう言うと男は驚いた顔をした。
まあ、当然だろう。一般的に紅茶に入れる砂糖は多くてもせいぜい二、三杯というところだ。ただ、超の付く甘党であるリィナにとってはこれでもかなり控えめな数字であり、彼女の好みと世間体を天秤に架けたギリギリのラインが六杯という量なのであった。
「そんなに砂糖を入れたがるヤツは俺の知ってる限りじゃ二人目だ」
男はそう言って少し笑い、奥の厨房らしき部屋にオーダーをして再びティースのほうへと向き直った。
「で、最近の魔の動きだったな。……三、四年前に比べるとこっちは比較的穏やかだ。君は普段どの辺りで活動してるんだ?」
ネービスです、と、ティースが答えると、男は小さく頷いた。
「そっちは大変だろう。まあ人によっちゃ仕事が増えて商売大繁盛だなんて言う輩もいるが、被害の大きさを考えるとな」
「三、四年前って、こっちでは何かあったんですか?」
そう尋ねると、男は微かに眉をひそめた。
「その頃はベルリオーズがこの辺りで活発に動いていたんだ。最近じゃ大陸の東側……ヴィスカイン領やフィンレー領辺りに拠点を移したらしいがね。ネービス領での活動は不思議と報告がないが、近々そっちにも現れるんじゃないか?」
「ネスティアスがベルリオーズに対する警戒を強めているという話は聞いたことがあります」
ティースがそう答えると、男は納得顔をした。
「やはりか。ま、だからこそネービスにはおいそれと手が出せないのかもしれんな。ネスティアスのディグリーズといえば大陸最強クラスのデビルバスター集団だ」
確かに、と、ティースはかつて目の当たりにしたディグリーズ同士の戦いを思い出す。そのときからすでに一年ほどが経過し、ティースもこうしてデビルバスターとなったが、それでも彼らに追いついたとは到底思えなかった。
ティースはさらに尋ねる。
「何故ベルリオーズは活動拠点をあっちに移したんでしょうか?」
「そいつは不明だが、何か明確な目的があるはずだ、ってのが、ここを訪れる多くのデビルバスターたちの見解だな。……ああ、そうそう、ベルリオーズといえば――」
そう言いかけたところで奥の厨房から男と同じぐらいの年齢の女性が出てきた。手には湯気のたつティーカップを乗せたトレイを持っている。
ティースとリィナは同時に礼を言ってカップを受け取り、まずは香り立つその液体に口をつけた。ネービスで飲むものに比べると香りと渋みが強い。葉の種類なのか入れ方なのかはわからないが、ティースには少し苦手な味だった。
女性が奥に下がると同時に、男が先ほどの言葉を続ける。
「ベルリオーズといえば、その協力者と思われる魔がこのクリーヴランド領に入ってきたって噂があってな。メイナード=ルヴィア=ストーリーという名を聞いたことはないか?」
「メイナード? その名前は初めて聞きました。有名なんですか?」
首をかしげたティースの隣からリィナが口を挟む。
「ルヴィア族というと、空の将魔ですね」
男は再び驚いた顔をリィナに向けると、
「物知りじゃないか。そっちのお嬢ちゃんもデビルバスターを目指してるのか?」
「あ、いえ。彼女は趣味で魔界学の勉強をしているんです」
ティースは少々肝を冷やしたが、男は別にリィナの正体に疑問を覚えたわけではないようだった。
「確かにメイナードは空の将魔だ。ただ、そこらの将魔族とはわけが違う。昔から戦うことを生業としてきた戦闘のプロでな。活動範囲はこの近辺に限られるが、もう十年も前から名前が知られているにも関わらず、まだ誰も仕留めることができていない。ヤツに返り討ちにされたデビルバスターは両手の数じゃ足りないほどだ。実は最近も――」
男の声に、ガチャリというドアの開く音が重なった。
視線が同時に動く。
その音源である個室へ続くドアから出てきたのは若い女性だった。見た目は十代後半、リィナと同い年ぐらいだろうか。腰には長さの違う二本の剣を差している。
それを見て、彼女もデビルバスターなのかと質問しかけたティースは直前で口を閉ざした。
そんな女性の後ろからもう一人、異様な出で立ちの男が姿を見せたからである。
まず目を引いたのは頭髪だ。前髪からてっぺんまでは綺麗に剃り上げられているにもかかわらず後ろ髪は丸々残っていて、首の辺りで一つに縛ったものが腰の辺りまで垂れている。ネービスではほとんど見かけることのない髪型だった。
さらに、どこか違和感のある顔立ちだと思ってよくよく見てみると、眉毛も頭部と同じように綺麗に剃られていて、どうやら睫毛まで抜いているようだ。頬骨から顎の辺りにかけては奇妙な文様の刺青が入っている。
歳はティースよりも明らかに年上、異様な出で立ちのために推測しづらいがおそらくは二十代後半から三十代前半といったところだろうか。
と。
「あれ? バルフォスさん、ここに複数のお客さんなんて珍しいですね」
そんなティースたちの視線に気付いた女性が彼らに歩み寄ってくる。バルフォスというのは彼女と一緒にいる奇妙な出で立ちの男ではなく、カウンターにいる男の名前のようだった。
女性はティースとリィナに視線を送って、
「そちらはお二人ともデビルバスターですか? それとも――」
「デビルバスターはこちらの青年のほうだ。ティーサイトくん。彼女たちもデビルバスターだ」
「お初にお目にかかります」
近くまでやってきた女性がハキハキとした口調でティースに右手を差し出した。
「カルヴィナ=スペンサーです。普段は南のブリュリーズ領でデビルバスターをやらせてもらっています」
礼儀正しい女性のようだった。近くで見るとデビルバスターにしてはやや小柄で、百六十センチあるかないかだろう。髪は肩の辺りで切り揃えられていて、遠目の印象よりもやや幼く見えた。
ティースは椅子から立ち上がり、悪いと思いつつも差し出された右手を無視して頭を下げる。
「ティーサイト=アマルナです。昨年の試験で合格したばかりの新米デビルバスターです」
「ホントですか? 私も一昨年合格したばかりなんです」
新米同士ですね、と、カルヴィナは少し嬉しそうな顔をしながら右手を下ろした。
「去年は確か合格者が少なくて、こっち方面には一人も来なかったと聞いていましたが……」
やや不思議そうな顔をしたカルヴィナに、バルフォスが答える。
「彼はネービス領で活動しているそうだ。こっちへは……ん? そういやどうして来たのかはまだ聞いてなかったな?」
「あ、実はデビルバスターの仕事とは関係なしで。観光のような」
「ああ、そういう」
カルヴィナはティースの隣にいるリィナを見て納得顔をする。何か誤解されたようだったが、話題がそれ以上広がる様子もなかったので特に反論はしなかった。
「でもそういうことであればご協力をお願いすることはできなさそうですね」
と、カルヴィナは少し残念そうな顔をした。
その言葉を受けてバルフォスが言う。
「今、彼ともちょうどその話をしていたところだよ」
「その話、というのは?」
ティースがそう尋ねると、バルフォスが答えた。
「メイナードさ。彼女はヤツを追ってここまで来たらしい」
その言葉にティースが改めてカルヴィナを見ると、先ほどまで彼女が浮かべていた笑顔は消えていた。
気になって事情を尋ねると、
「半月ほど前、ブリュリーズ領内で兄弟子のユアンというデビルバスターとともにヤツに挑んだのです。手強いことは承知の上でしたし、それでも二人でなら勝てると踏んでいました。ですが……」
重苦しい息が漏れる。
カルヴィナは視線を伏せて続けた。
「結果的にはまるで歯が立たず、ユアンはヤツに殺されました。それで」
「リベンジマッチなどやめておけ、と、そう言ったのだがな」
バルフォスがため息混じりに呟く。
そういえば、と、ティースはそこで先ほどの異様な格好の男のことを思い出し周りを見回したが、男の姿はいつの間にかなくなっていた。
そんなティースの動きに気付いたバルフォスが言う。
「さっきの男はシュナーク=フォルリッチといってな。このクリーヴランドで十年以上デビルバスターをやっている中堅、いやそろそろベテランか。かなり腕の立つ男だ」
「私とユアンの師でもあります」
カルヴィナの言葉にバルフォスは肩をすくめて、
「あの男も実力は申し分ないんだが、弟子に甘いヤツでな。師匠と妹弟子が揃って敵討ちをしようってわけさ。……なぁ、カルヴィナ。メイナードにゃ腕の立つ部下もいるって聞くぞ? 背後にはベルリオーズがいるんじゃないかって噂もある。いくらシュナークでも危険すぎやしないか?」
しかしカルヴィナは強い視線でバルフォスを見つめ返した。
「メイナードの部下については調査済みです。闇の上位魔が二人。彼らに邪魔をさせず、シュナーク先生がメイナードと一対一で戦える状況を作るのが私の役目です」
「シュナークが勝てるとは限らんぞ?」
「それはどの相手でも同じことですよ、バルフォスさん。それを理由に戦いを回避していては、デビルバスターである意味がないでしょう」
そういうことを言っているんじゃないんだが――と、バルフォスは再び深いため息を吐き、意見を求めるようにティースの顔を見る。
「あ、ええっと」
それを受けてティースは困ってしまった。バルフォスの言うことは確かにもっともだと思ったが、兄弟子を失ったらしいという心情的なことも加味して、個人的にはカルヴィナの言うことが理解できるという立場だったのである。
考えた末、何を言っても無責任になりそうだと判断し、ティースは話を変えることにした。
「さっきバルフォスさんにも聞きましたけど、そのメイナードというヤツはそんなに強いんですか?」
カルヴィナが答える。
「私もユアンも将魔族と戦うのは初めてではなかったのですが、恥ずかしながら私では手も足も出ませんでした」
さらっと言ったが、怒りをこらえているのか喉の奥が微かに震えているのがわかった。ずっと冷静に受け答えているように見えるが、実際には強い感情が胸に渦巻いているのだ。
「その強さの理由を説明することは難しいです。ただ……不思議なことに、メイナードには当たったと思った攻撃が当たらないことがあるのです」
「当たったと思った攻撃が、当たらない?」
ティースはその意味が理解できず、オウムのように言葉を繰り返した。
隣のリィナが口を挟む。
「幻魔の力に捕らわれていたのではありませんか? 視界に錯覚の魔力がかけられていたとか……」
「いえ、それはありえません。メイナードが空の将魔であることは間違いありませんし、仮に視覚に何らかの幻覚がかかっていたとしても、直接武器を交えていれば何かしらの違和感を覚えるものです。でも、ヤツとの戦いではそれもありませんでした」
絶対に幻魔の力ではありません、と、カルヴィナは断言した。
その自信を見る限り彼女の言葉に間違いはなさそうだ。
「そんな得体の知れないヤツが相手で大丈夫なんですか?」
思わずティースがそう言うと、バルフォスがほら見ろと言わんばかりの顔でカルヴィナを見る。
しかしカルヴィナは頑なな態度で答えた。
「じっと考えてどうにかなるものでもないでしょうから。倒すためには戦うしかありませんし、その中で答えを見つけるしかありません」
「まあ、そうかもしれませんけど……」
「幽霊ではないのですから、何かしらの方法で攻撃を避けているのは間違いありません。その方法さえわかれば並の将魔と変わらないでしょう」
カルヴィナは揺らぎのない口調でそう言うと、思い出したように、先生をお待たせしているのでそろそろ……と、ティースたちに軽く頭を下げる。くれぐれも気を付けろよ、というバルフォスの言葉にさらに深く頭を下げた彼女は、そのままティースたちに背中を向けて建物の外へと出て行った。
「……やれやれ」
カルヴィナの姿が見えなくなった直後、重いため息がバルフォスの口から漏れた。呆れたような口調だったが、その奥には心配そうな感情の動きが見て取れる。
ティースは少し温くなった紅茶を口に運びつつバルフォスに問いかけた。
「彼女のこと、以前からご存知なんですか?」
「ああ。師匠のシュナークとはもともと旧知の仲でな。カルヴィナも兄弟子のユアンもデビルバスターになるまではこの町にいたから、ここにもシュナークと一緒によく出入りしていたんだ。……メイナードは確かにいずれ討たなきゃならない相手だが」
と、バルフォスは精悍な顔を悩ましげに歪める。
「……」
ティースはそんな彼の表情を見て、思わず“俺が手伝いましょうか”なんてことを口にしそうになったが、とりあえずはこらえた。
といっても、我関せずを貫こうと決心した、というわけではなく。
逆だ。
(まずはシーラやエルに相談してからだな……)
口にこそ出さなかったが、ティースの心はすでに彼女たちに協力する方向へ傾いていた。
メイナードがいずれ討たなければならない凶悪な魔であるということ。
そんな相手に挑もうとしているデビルバスターの仲間に出会ってしまったということ。
その二つの事情は彼にとって、カルヴィナたちへの協力を考えさせるのに充分すぎる理由だったのである。
――シーラからすべての事情を聞かされた後、エルレーンはしばらく俯いて何事か考えているようだった。
無理もない、とシーラは思う。最初の出会いから現在までずっと別人を装ってきただけでなく、怪しげな薬を用いてティースの記憶を奪い、その副作用として女性アレルギーなどというおかしな体質にしてしまったことまで告白したのだ。
はい、そうですか、で、終わるはずもなかった。
シーラは視線を横に動かして外を見た。天気は見た目にも回復しつつある。先ほどまで鳴っていた風の音もいつの間にか聞こえなくなっていた。
そうして五分ほども静寂の時間が続いただろうか。
エルレーンが顔を上げる気配を感じて、シーラは彼女に向き直った。交わった視線には予想通りの困惑の色。
そのままの表情でエルレーンは口を開いた。
「……まず一つ教えて、シーラ。カザロスでボクらと会っていたのはキミ? 妹さん? あるいはその両方?」
シーラは即座に答える。
「それは私よ。正確にいえば“妹のフリをしていた私”ということになるわね。あなたたちと出会ったときの私がたまたまその状態だったから、最後までそれを貫くしかなかったの。妹といえどもあなたたちのことはおいそれとは話せなかったし、あの子は最後まであなたたちのことは知らなかった。ティースがうっかり口にしてしまわないように、あいつのほうからその話題を口にするのは禁じていたしね」
「じゃあティースもキミらの入れ替わりは知らなかった?」
「そのはずよ」
そう答えると、エルレーンは再び口を閉ざした。
どうやら頭の中を整理しているようだ。
案外冷静な反応だなとシーラは思ったが、一応は想像の範囲内だった。エルレーンが見た目に反して大人びた性格であることはよく知っている。だからこそ彼女だけには先に話しても構わないだろうと判断したのだ。
「正直言うと」
そしてエルレーンが再び口を開く。
「びっくりしてる」
「でしょうね」
端的かつ当たり前すぎる彼女の言葉に、シーラは思わず苦笑してしまった。
でも、と、エルレーンはすぐに付け加えて、
「それ以上のことはない、かな。キミがあの頃のキミと別人だったのなら話は別だけど――」
「別人よ。だから言ったでしょう? あの頃の私は“妹を演じていた私”なの。今の私が本当の私」
そういう意味じゃなくて、と、エルレーンは首を横に振った。
「だって妹さんはボクらのことを知らなかったんでしょ? だったらボクらにとってのキミはキミしかいないじゃない」
「ああ……」
もっともな話である。そもそも、エルレーンやリィナと出会ったのが妹のほうであったなら、彼女の性格からして、二人の存在は大人たちの知るところとなっていただろう、と、シーラはそう思っている。もちろん今の彼らのように交流することもなかっただろうから、いくらその性格を熟知していたとしても彼女がエルレーンたちにどう接するか、それを演じることは確かに不可能だ。
「ごめんなさい。あなたたちに対して、という意味ではそうなるわね。でも」
その点については認めた上で、シーラは続けた。
「ティースに対しては違うわよ。これはさっき言ったとおり」
「ティースとはもともと仲が良くなかったって話だよね?」
「仲が良くなかったということもないのだけど。ただの従者の一人だったわね。無関心というか。妹が恋をしていた相手だからそういう意味では特別だったのかもしれないけれど」
「……そこがボクには難しいよ、シーラ」
エルレーンは幼く見えるその顔の眉間に深い皺を寄せた。
「キミらが悪戯心で入れ替わっていた気持ちはなんとなくわかるし、ティースから妹さんの記憶を消そうとした理由も理解できる。でも、あの頃のキミのティースに対する態度がぜんぶ演技だったっていうのはどうしても信じられない」
「だとしたら、よほどうまく演じられたのね」
シーラが得意そうにそう言うと、いつの間にかベッドの上に正座していたエルレーンは彼女の顔を覗き込むようにじっと見つめて、
「ボクはあの頃のキミから色々な話を聞いた。覚えている限り、一番多かったのはティースの話だったよ」
「そうね。その頃のあの子は、あいつのことで頭がいっぱいだったから」
「キミ自身は?」
「普通よ。言ったでしょう? 私にとっては単なる従者の一人だったって」
エルレーンは少し考えるような顔をすると、続けて尋ねる。
「薬師になりたいって夢もその当時に聞いたよね? それはどっちの夢だったの?」
「それはさすがに私自身よ」
「じゃあ聞くけど」
と、エルレーンは見透かすような目をした。
「その理由は、覚えてる?」
「それは――」
初めて言葉に詰まる。
脳裏の奥が刺激されて、そこに古い映像が映し出された。
茶色の土をどす黒く染めた血の色。
徐々に薄れていく呼吸。
――産まれて初めて触れた、死の匂いと無力感。
「……もちろん、覚えているわ」
その光景は、紛れもない彼女自身の記憶だった。
エルレーンは満足そうに頷いて、
「薬師になる夢がキミ自身のものなら、その理由も間違いなくキミのものだよね? ……キミは七歳のときに森でオオカミに襲われて」
一拍。
「キミを守って死にかけたお人好しの従者のために薬師を目指すんだって、そう言ったんだ」
「……」
視線を僅かにそらす。
話したこと自体忘れかけていた。それを知っているのはおそらくエルレーンとリィナの二人だけだろう。ルナリアにさえ話した記憶はない。
しかし、それは。
「昔のことよ。ただのきっかけに過ぎないわ」
「ホントにそう? キミは今でもティースが任務に行くとき、ファナを通して色々渡してるよね」
「……あの子ったら。意外と口が軽いんだから」
「黙っておく必要がないことだから、だと思うよ」
エルレーンがそう言うと、シーラは渋い表情をした。
「ねえ、シーラ。キミはしきりに“昔のこと”とか“あの頃とは変わった”なんてことを口にするけど……本当は逆なんじゃないの?」
そんなエルレーンの言葉に、シーラは僅かに困惑した顔を彼女に向ける。
エルレーンは続けた。
「キミは当時、ティースのことが好きだった妹さんに遠慮して、妹さんを演じるとき以外は意識的にティースを避けるようにしていたんだよね。……今でもそれを続けなきゃならないって、心のどこかでそう思っているんじゃない?」
「まさか。あの子はもう死んだのよ」
シーラは馬鹿馬鹿しいといわんばかりにそう言ったが、エルレーンは引き下がらず、
「暗示っていうのは幻魔の力に通ずるものがある。たとえ嘘であっても長く続けていれば真実に近い錯覚を生み出すものなんだ。……もちろん断言するつもりはないよ。今のキミの話を聞いて、あくまでボクが感じたことなんだけど」
そう前置きして、エルレーンは言った。
「キミは自分で、どれが自分の本当の気持ちなのかわからなくなっているんじゃないかって、そう思う」
「……」
馬鹿馬鹿しい、と、そう呟こうとした口は結局音を発しなかった。
そしてシーラは考える。
嫌っているわけではない。それは確かだ。自分の夢のためとはいえ、嫌いな人物とこんなにも長く一緒にいられるはずがないし、そもそも嫌う理由がない。どこか頼りない性格も、彼女の価値観からすれば決して大きなマイナスではないし、多くの人が認める人柄の良さも否定はできない。
嫌いではない。
その気持ちをシーラはずっと“無関心”と表現し続けてきた。決して好意ではない。死んだ彼女の妹が見せていたものこそが好意である、と、そう思っていたから。
いや、それ以前に。
ネービスに来てからの彼女は立ち位置がずっと曖昧だったのだ。
シーラなのか、それともシルメリアなのか。
彼女の双子の妹が事故で命を落としたとき、世間的には姉のシルメリアが死んだことになった。それを敢えて訂正しなかったのは、長女であるシルメリアにはいくつもの枷があって、それを嫌ったからだった。
少なくともその時点で、彼女はいったん、次女のシーラとして生きていく決断をしたのだ。
しかし結果的に、シルメリアが抱えていたいくつもの枷は当然のように生き残ったシーラに引き継がれ、それに反発する形で彼女は故郷を捨てることになる。そこですっぱりと本来の自分に戻れれば良かったのだが、そうはならなかった。
ティースがシルメリアという存在を忘れていて、その時点では彼の記憶がどういう状態なのか彼女にもはっきりとはわかっていなかったからである。
結果として、そこからの彼女は少し曖昧になった。
シーラを名乗っているにもかかわらず、故郷を飛び出すときにシルメリアの証であるポニーテイルに髪型を戻した。妹の形見となった髪飾りを身に着けていたかったのか、少しでも本来の自分に戻りたかったのか、定かではない。
ネービスで暮らすようになってしばらく、自分はシーラなのだから無理にでもティースと親しくしなければならないと考えていた時期もあったように記憶している。彼に敬語をやめさせたのもそれが始まりだったが、結局そうしようとしたのは最初の一年だけだった。
その後で彼に冷たく当たるようになったのはそのときの反動だったのか、あるいはシルメリアとしての立場を取り戻そうとしたからなのか。後者だとすれば、今でもそれを続けなきゃならないと思っているんじゃないか、と、そう言ったエルレーンの言葉が事実だったということになるだろう。
「……ああ、もぅ」
もどかしさが自然とシーラの口をついた。当時の自分が何を考えていたのか、はっきりと思い出すことができなかったためだ。
「ねえ、シーラ」
そんなシーラを見て、エルレーンがハイトーンの幼い声で、しかしまるで子供を諭す母親のような口調で言った。
「どうであれ、キミがティースに無関心だったなんてことは絶対にないよ。このクリーヴランド領に来たのだって、ネービスを離れる前にティースの記憶を元に戻して女性アレルギーを治すためなんでしょ?」
「そうだけど、それは自分がやったことの罪滅ぼしのつもりだったわ」
「キミのやったことが罪かどうかはわからないけど、同じ立場だったらボクもきっと同じことをしたと思うよ。是非はどうあれ、キミはティースのことを思ってそうしたんだから。そのときの行動だけを切り取ってみても、無関心じゃなかったことの証明になるんじゃない?」
「……なんだか本当にわからなくなってきたわ」
と、シーラは少し疲れた声を出す。口の達者な彼女も、どうやら自分の過去の話になると少々分が悪いようだ。
エルレーンは頬を緩めて可笑しそうに言った。
「珍しい顔してるよ、シーラ。まるで子供みたい」
「あなたがおかしなことを言うからよ。……これも一種の暗示かしら」
「人聞きの悪いこと言わないでよ。どうしてボクがキミに暗示をかけないとならないのさ」
と、エルレーンは心外そうな顔をする。それがまるでふてくされた子供のように思えて、シーラは思わず笑ってしまった。
「え? なにか可笑しいこと言った?」
きょとんとするエルレーン。
シーラは笑ったまま、
「なにかしら。幼子に諭されたみたいな妙な気分になったわ」
「……言われ慣れてるけど、嬉しくない」
と、小さく頬を膨らませる。その表情を見てまた少し笑うと、シーラは窓の外へと視線を送った。
どうしてこんな話題になったのだったか――と、そう考えていると、
「じゃあシーラ。話を元に戻すよ」
「なんの話だったかしら?」
「キミがネービスを出て行くかどうかって話」
「……ああ」
発端の話題を思い出し、横目でエルレーンを見る。
「ボクから提案があるんだ」
と、エルレーンは言った。
「なんだかあなたに誘導されてる気がするわ」
「そりゃそうだよ。ボクはキミを引き止めようとしているんだから」
その言葉はあくまで正直で、シーラはそんな彼女のことが少しだけ羨ましくなった。
「それで、その提案というのは?」
「えっと……」
エルレーンはベッドからぴょんと飛び降りて窓際まで歩いていくと、少し高いところにある窓を背伸びしながら覗き込んで、
「雪もだいぶ弱くなってきたね。明後日ぐらいなら町の中を歩き回るのにちょうどいいかな」
「デートのお誘い?」
少し冗談めかしてシーラがそう言うと、エルレーンは小さく頷いて、
「そう。ただしお相手はボクじゃなくてティースだ」
「それが提案? あなたにしては俗っぽいわね」
シーラは少し拍子抜けした顔をすると、
「あなたも知ってるでしょう? あいつとなら三日前に町を歩いたばかりよ。いまさらそんなことをしたって何も変わらないわ」
「そうかな? そのときティースと一緒にいたのは、キミが言うところの“演じている誰か”だったんじゃない?」
「……どうかしらね。最近はあまり意識していないつもりだったけれど」
先ほどの会話の後では断言できず、再びじれったい思いがこみ上げた。
「そのモヤモヤをすっきりさせるための提案だよ、シーラ」
まるで胸の奥を見透かしたかのようなエルレーンの言葉に、シーラは苦々しい顔をする。
「まったく。これがあの男のせいなら、意味もなくひっぱたいてやりたい気分だわ」
「そ、それはやめてあげて。ボクがティースに恨まれちゃう」
もちろん冗談だった。
「ティースにはボクから言っておくよ。明後日のお昼ぐらいでいいよね?」
「好きにするといいわ」
素っ気なく言いながらも、シーラはその提案に乗るつもりだった。
それで彼女が納得するのなら、というのが大半。
残りは胸のモヤモヤが本当に解消されるかもしれないという期待。
「じゃあ明後日ね」
そう言い残してエルレーンは部屋を出て行った。
その背中を見送って、シーラはふと思い出す。
明後日。
その日はちょうど、彼女の十七歳の誕生日だった。
(……あの子のことだから、わざわざ合わせたのね)
感心して思わず笑みがこぼれる。
誕生日。
本当の自分。
シーラは椅子から立ち上がり、部屋の隅に整頓してある旅の荷物に手を伸ばした。
そして思い返す。
誕生日にその人物と町を歩いたことが過去にあっただろうか。あったとして、そのときの自分は本当の自分だっただろうか、と。
想像すると、それは意外にも新鮮だった。
旅の荷物から一式の衣装を手に取る。黒いベルベットのトップとフレアーのロングスカート。
(この格好じゃ寒そうね……)
さらに厚手のストールを手に取って、姿見の前に立った。
何を着てもだいたい似合うと、シーラは他人からよく言われるが、それはどちらかといえば嬉しいことではなかった。彼女にも彼女なりの好みがある。
手に取ったそれらは彼女のお気に入り、いわゆる外出用のお洒落着だった。
(明後日の昼、か)
それで何かが変わるとは思えないけれど。
もしかしたら新しい発見があるかもしれない。
その期待は、予想外に彼女の胸を高鳴らせて。
……待ち遠しい。
自らの胸に突然沸いてきた柄にもないその感情に戸惑いながらも、シーラはその日を待つことにした。