その1『常冬の国』
クリーヴランド領は大陸の北西、ヴァルキュリス山脈の西端に位置し、山脈の一部である高原が領地の大半を占めていて、大陸の約八割を占めるヴォルテスト条約加盟国の中ではもっとも領地面積が小さいとされる高原の国である。ネービス領からは西方に向かって移動し、モンフィドレル領とバーミリー領を越えた先、約二週間ほどの行程となる。
また、この国は一年の半分以上が冬であるとされ、七月と八月以外は雪が降ることも珍しくはないという“常冬の国”でもあった。
そんなクリーヴランド領にティーサイト=アマルナ一行が到着したのは、四月の末。
街道のあちらこちらにはまだ薄っすらと雪が残っていて冷たい空気が肌を刺す、そんな季節のことである。
「ティース。お前は知ってたかしら?」
クリーヴランド領の東端にある街を出発した後、街道は延々と続く緩やかな登りの道となっていた。
防寒仕様の馬車から身を乗り出して後方に視線を向けるとそこには見晴らしの良い大地が広がっていて、左手にはヴァルキュリス山脈の山々、右手には大陸の中央付近に横たわるグリゴラ山脈の一部が薄靄の中にぼんやりと見えている。
「なにがだ?」
振り返ってティースが馬車の中に視線を戻すと、貸切の馬車内には彼の他に三人の人物がいた。
「クリーヴランド領は、バートラムさんの生まれ故郷なのだそうよ」
まずはティースの隣に腰を下ろし、澄んだ陽光にキラキラと輝く金糸のポニーテイルを持つ少女。
この旅の主役、シーラ=スノーフォールである。
「え? そうだったのか?」
驚いた顔をするティースに、その対角に座っている小柄な少女が不思議そうな顔をした。
「バートラムさんって誰のこと?」
問いかけに、シーラが答える。
「二人は知らなかったわね。バートラムさんはカザロスにあったクライン教会の神父様よ。私とティースが小さい頃、よくお世話になったの」
「カザロス――ああ、ティース様とシーラ様の故郷の街ですね」
納得顔で頷いたのはティースの正面に座る、長い黒髪のおっとりとした女性。
エルレーン=ファビアスとリィナ=クライスト。彼女たちを含めた四人がこの旅のメンバーであり、そして彼らは互いに、幼い頃の二年ほどをともに過ごした幼なじみ同士でもある。
ティースはそんな彼女たちの会話を聞きながら、
(このメンバーでこんなにのんびりするのは、あの頃以来かなぁ)
しみじみとそんなことを考えた。
ティースがリィナたちと再会してから約一年半。彼がデビルバスターとなり、リィナとエルレーンが彼のサポートをするようになってから三人で行動することは多くなったが、そこにもう一人――シーラが加わるようなことはこれまでに一度もなかったのだ。
ほぅ……と、息を吐いて目を閉じる。
少女たちはティースの故郷の話に花を咲かせているようだ。
(……いいなぁ。やっぱり)
話に参加していても、ただ聞いているだけでも、心穏やかな気分になる。性格的にも体質的にも女性が苦手なティースであったが、このメンバーに関しては例外だった。
ただ――
薄目を開け、隣のシーラの表情を盗み見する。
――彼女もおそらくは彼と同じ。エルレーンやリィナには心を許し、彼女たちと話すときには歳相応の少女の表情を見せる。
紛れもない。
シーラにとっても、彼女たちは大事な存在なのだ。
ただ――だからこそ。
ティースは再び息を吐く。……若干、心が重くなった。
そんなシーラが、この旅のお供に彼女たちを選んだという事実。
その理由。
それは、きっと先日の彼女の言葉が本気であることを示すものであると、そう思ったからだ。
“故郷のジェニス領で薬師になる”
そんな彼女の宣言を聞いてからすでに一ヶ月近くが経過していた。その間、表面上は特に何も変わったこともなく時は流れていたが――しかし。
ティースは、自分の心の中で複雑な感情が渦巻き続けていたことを否定できない。
それらの色々な感情を無理やりひとくくりにすれば、それは“喪失感”とでもいうのだろうか。
――目を閉じる。
悲しむことではない。
薬師になるという彼女の夢を叶えたくて故郷を捨てた。色々と紆余曲折はあったが、彼女はそんなティースの期待を遥かに越え、ネービスでも有数のサンタニア学園で首席卒業という最高の実績を残した。
彼女の道は今、大きく開かれている。
ネービス領であろうとジェニス領であろうと、あるいは“帝都”ヴォルテスト領であろうとも、薬師になるという彼女の夢を妨げるものは何もないだろう。
そして彼女はその舞台として、故郷であるジェニス領を選択した。
そこには彼女の家族が残っている。
その選択は自然で、そして妥当なものなのだ。
だから――
(引き止めちゃ、いけないんだ……)
ネービスでも叶えられるじゃないか――と。
言いかけて何度も飲み込んだその言葉を、今日も喉の奥に隠して。
隣の彼女を見る。
「――」
リィナの少々とぼけた疑問に、おかしそうに笑うシーラ。
太陽のような瞳はいつも前だけを見つめていて――
「……」
その隣で、ティースは再び、ゆっくりと目を閉じたのだった。
アグノエルの街。
それはクリーヴランド領の北方にあり、この高原の国でも一番高い場所にある街として広く知られていた。
街の周辺にはここでしか見られない希少な植物などが群生しており、景色の良さも相まって、観光地としてクリーヴランド領の中でも三本の指に入るほど栄えている大きな街である。
そしてここが、ティースたちの最終目的地であった。
「へぇ」
感嘆を漏らすと白い息が空へ昇っていく。
ネービスなら真冬といっても過言ではない寒さだ。
ただ、
「綺麗な街じゃないか」
辺りを見回してティースは思わずそう呟いていた。
北に向かって若干登り傾斜のついた地形で、南側にある入り口から少し斜め上を見上げると、街のほぼ全貌が見渡せる。徒歩で歩いていくと、しっかり舗装された道路、ごみの少ない街並みに活気のある人々がいて、まるでネービスの街を歩いているかと錯覚するほどだった。
「この街は治安もネービス並みだそうよ」
と、シーラ。
どうやら彼女も、ネービスに似ていると感じていたようだ。
先に進むと、街の中央辺りには雰囲気の良い噴水公園があった。
「あの噴水って、どういう仕組みなんでしょうね?」
水が絡んでいるからというわけでもないのだろうが、リィナはそれが気になったようだ。
シーラが答える。
「種類はいくつかあるけど、動力らしきものが周りに見当たらないし、風吹草でも使っているんじゃないかしら」
“風吹草”は魔界由来の植物の一種で、その名のとおり一定の条件下において自ら微弱な空気の流れを生み出す特殊な草である。
束ねることである程度の動力を生み出すことも可能だ。
「風吹草はこっちの世界だとこの辺でしか栽培できないのよ。ネービス辺りで手に入れようと思ったらかなり値が張るわね」
「風吹草ってアレのことなのかな。ボクの故郷だと名前もついてない雑草みたいなものだけど」
確かに寒いところに良く生えてたかなぁ――と、エルレーンが言った。
「同じものかはわからないけれど、そうかもしれないわね。……あら」
シーラが街角の露天に目を止める。
「林檎が売ってるわ。こんな寒いところでも採れるのね」
すると、その言葉を聞き止めた露天の若い青年が答えた。
「逆だよ、お嬢さん。林檎ぐらいしかまともに採れないのさ。安くしとくけど、どうだい?」
「どうする?」
と、シーラが後からついてきたティースたちを振り返る。
値札を見ると、ネービスで見るものより五割ほど高いようだ。が、別の土地の林檎を食べる機会などそうそうあるものでもない――と、ティースはそう思い、露天の男に注文することにした。
「じゃあ、四つください」
「はいよ。御代は三つ分でいいよ。可愛いお嬢さんたちにサービスだ」
「え、でも――」
四つ分の銅貨を手にティースが戸惑っていると、横からシーラが口を挟んだ。
「人の好意は素直に受け取るものよ、ティース。それにサービスしてもらったのはお前じゃなくて私たちなんだから」
「そうそう」
ティースと同い年ぐらいと思われる青年はシーラの言葉に頷いて、人懐っこい笑顔を浮かべた。
「代わりと言っちゃなんだけど、そっちの君。今晩一緒に食事でもどう? 観光客だろ? いい店を知ってるから案内するよ」
と、その笑顔をシーラへと向ける。
あまりにもスムーズな切り替えに、ティースなどは何の冗談かと思って唖然としてしまったのだが、言葉を向けられたシーラは即座に、
「せっかくだけどお断りさせてもらうわ。今夜はこのメンバーで旅の疲れを労う予定なの」
すらすらとそう言ってのけて、
「さ、行きましょ。……ほら、ティース。いつまで女性に先頭を歩かせるつもり?」
「あ、す、すまん」
受け取った林檎の紙袋を手に、慌てて小走りに先頭へと出ていくティース。
陽気な青年の声が背中に聞こえる。
「俺、ここで毎日林檎売ってるから。気が向いたらまた声かけてよねー」
落胆した様子は皆無だった。
「……ビックリしたなぁ」
「なにが?」
ティースはすぐ後ろのシーラを肩越しに振り返って、
「いやさ。お店の人があんな風に声をかけてくるなんて。しかも俺がそばにいるのに」
と、言った。
一行はさらに歩みを進め、旅の宿がたくさんあるという街の北側へ向かっている。
ティースは先ほど言われたとおりに少女たちの二歩前を歩いていて、そのすぐ後ろをシーラとリィナが並んで歩き、エルレーンは興味津々な視線を辺りに送りながら最後方を付いてきていた。
「確かにネービスだとあまりないわね。ただ、このクリーヴランドでは珍しくないみたい」
シーラは肩に羽織ったストールの位置を直しながら答える。
「この国の人はみんな恋愛に積極的なのだそうよ。寒いから人が恋しくなるのかしらね」
「へぇ。なんだかジェニスみたいだなぁ」
ティースがそんな感想を口にすると、シーラはそれに突っ込んで、
「男はそうかもしれないけど、女は真逆じゃない。この国は男も女も積極的なのよ」
と、言った。
彼女の言うとおり、ティースの故郷であるジェニス領も男性が女性に対して紳士的かつ積極的な国として広く知られているが、女性に関しては“ジェニス・レディ”という言葉が“控えめな女性”の代名詞として使われるほど恋愛に消極的とされている。
すると、
「あっ、ジェニス・レディ!」
「え?」
突然、最後尾で大きな声がして、ティースとシーラ、そしてリィナも同時に立ち止まって振り返った。
「どうしたの、エル?」
「あ、ゴメン」
三人の驚いた顔を見て、エルレーンは手で口を押さえながら、
「今の二人の話を聞いて思い出しちゃって。……いつだったかな。屋敷の人がリィナのことを“ジェニス・レディみたい”なんて言ってた時期があったんだ」
「へぇ」
その話はティースには初耳だった。
そして反応を見る限り、シーラやリィナ本人も同じだったらしい。
エルレーンはすぐに付け加えて、
「リィナの場合、恋愛に消極的なんじゃなくて興味がないだけだからちょっと違うと思うんだけどね」
「興味がないというか……」
リィナは困惑した様子だった。
「ティース様やシーラ様に対する親愛の延長のようなものだと、一応理解はしているのですが……異性間だけに生まれる感情だというのがどうにも難解で」
相変わらず彼女には、人間の恋愛感情を理解することは難しいようだ。
そんなリィナに対し、シーラは軽く手を広げて、
「仕方ないわよ。その違いを明確に説明するのは私たちにも難しいんだから」
「確かにそうかもなぁ」
と、ティースはその言葉に相づちを打つ。
実際、ティース自身の彼女ら三人への感情がどうなのかといえば――誰に対しても恋愛感情といえるものはない、と、彼自身はそう考えているが、本当に一欠けらもないのかと追求されれば胸を張って否定することはできないとも思っている。
相手がよほど年下か、遥かに年上だったりしない限り、それは誰であってもおそらく同じことだ。
一行は再び歩き出し、活気の溢れる道を行く。
結局のところ――と、シーラは思い出したように言った。
「身も蓋もないことを言えば、互いの子供が欲しいと思うかどうか、ってことかもしれないわね」
「ますます理解し難いです……」
その言葉に、リィナはますます困った顔をするのだった。
ティースたち一行が滞在場所に選んだのは、アグノエルの街でも北の端、ヴァルキュリス山脈への上り口に近いところにある古い宿だった。旅人向けの宿は一階が酒場などを兼ねている場合が多いのだが、そこは純粋に宿泊のみを目的とした宿で、静かな雰囲気が主にシーラの好感を得たのである。
そこには残念ながら三人部屋がなかったので、一行は宿の一階にある一人部屋を二つと、二階にある二人部屋を一つ借りることとし、リィナとエルレーンが同室で過ごすこととなった。
「シーラ」
コン、コンと隣の部屋をノックし、ティースは声をかける。
「入っていいか?」
「いいわよ」
中からシーラの声が返ってきたのを確認し、ティースはドアを手前に引いた。
同時に、部屋の奥の机に座っていたシーラが振り返る。
「もう終わったの?」
「こっちの荷物はそんなにないからな。……って、すごいな」
その部屋の中を見回してティースは驚きの声を上げた。
ある程度の長期滞在を想定していたことから、彼も必要となりそうな私物の類をそれなりに持ってきていたのだが、彼女の部屋に広がっていたのはそれと比較にならないほど多数の――おそらくは薬の調合に必要な器材や材料だ。
「これ、全部必要なものなのか?」
と、ティースは床に広げられたビンや植物などを踏まないよう気をつけながら、シーラのそばまで近付いていく。
「そうね。必要になるかもしれないものよ」
「へえ……」
そう言われるとティースはただ頷くしかなかった。
魔との戦いに必要となる一部のものを除き、こういったものに対するティースの知識はほぼ皆無なのである。
「えっと……」
ベッドの上に腰を下ろしていいものかどうか悩み、結局やめることにして、ティースは立ったまま口を開いた。
「なあ、シーラ」
「なに? ……あら。これはもうダメね」
シーラはティースの顔を見ることもなく、持参した植物類の状態を確認している。
「これはこの街でも調達できるかしら。こっちさえ無事なら――」
「そろそろ、この旅の目的を教えてくれないか?」
「え?」
と、シーラが少し驚いたような声をあげて、
「言ってなかったかしら?」
「聞いてないよ。……まあ俺が聞かなかったんだけどさ」
いや、聞けなかった、というのが正しい。この旅にはおそらく、そう軽々しく口にできない大事な意味があるのだろうと、ティースは勝手に想像していたからだ。
しかしそんな彼の予想とは違って。
シーラはさらっと答えた。
「卒業試験よ」
「え? 試験って? もう終わったんじゃ――」
「じゃなくて。私の、個人的な卒業試験」
「……どういうことだ?」
意味が理解できずに問いかけると、シーラは手にしていたビンをそっと机の上に置いてようやく彼のほうに向き直った。
「ずっと作りたかった薬があるの。それに必要な材料が、このクリーヴランド領に来ないと手に入らないものだったから。それがこの旅の理由よ」
「……ああ、なるほど」
そんなことだったのか――と、ティースは少し拍子抜けした。
「そういうことよ」
と、シーラが再び机の上に視線を戻す。
しかし――
「で、その薬ってのは?」
ティースが続けて問いかけた、そのとき。
「――そうね」
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
いつも隙のない彼女の横顔に、負の感情のようなものが波立った――ように見えた。
「悪い夢から覚ましてくれる薬、よ」
「え?」
「素敵でしょう?」
そうしてティースに向けられた彼女の笑みは、一時期よく見た彼をあざ笑うものではなく、そしてもっと昔に見た無邪気な微笑みでもなく。
あまり見たことがない大人びた顔だった。
「ああ、えっと……」
ティースは戸惑う。
冗談なのかどうか、笑っていいものかどうかもわからずに視線を泳がせて――
「……あ、そういやお前、それ」
「ん?」
ティースが苦し紛れに口にしたのは、彼女が手元で大事そうにしている一冊の本だった。
黒い背表紙の、タイトルが書かれていない不思議な本。
ティースは続けて言った。
「ジェニスを出た頃から持ってなかったか、それ? 大事なものなのか?」
「ああ、これは――」
と、シーラはその本の表紙を撫でる。
「ジェニスにいた頃、バートラムさんにもらったものよ」
「ああ」
その言葉でティースは思い出す。
「そういやお前、薬のことってバートラムさんに教わったのがきっかけだったんだっけ」
「ええ」
と、シーラは頷いた。
ジェニス領カザロスのクライン教会に身を置いていたバートラム=ヴァーベックという人物は、ティースが十歳ぐらいの頃に教会にやってきた、少々変わり者の神父だった。
当時ですでに五十歳は越えていただろうか。今のティースと同じかそれ以上の長身で細身。顔の左半分が何故かピクリとも動かず、笑うと右側だけが歪んで、最初の頃はよく不気味がられていたが、性格は非常に温厚であり、そのうち街の人間たちにも受け入れられるようになった。
ただ、変わっていたのはそれだけではない。
まずその神父は非常に博識だった。大陸全土のあらゆることに詳しく、あらゆる国の風景を、まるですべて自分の目で見てきたかのように語った。
その神父は薬のことにも詳しかった。当時、ティースが仕えていた家に出入りしているどの薬師よりも詳しく、時折貧しい家の病人を診てまわることもあった。
そしてなによりその神父は強かった。左腕が不自由であるにもかかわらず、カザロスの片隅で暴れていた外のならず者十人を、手にした箒一本で完膚なきまでに叩きのめして追い払ったこともある。
その強さは、ティースが今の自分でも敵わないのではないか――と、そう思うほどだ。
彼はシーラの薬の師であり。
そしてティースの剣の師でもあった。
「もらったというより、本当はもらう約束をしていただけなのだけれど」
そう言ってシーラが少し目を伏せる。
「遺品の中からね。形見として勝手にもらってきちゃったのよ」
「……ああ」
そう。
その神父はティースが十二歳のときに亡くなったのだ。街の近くに現れた魔を追い払おうとして命を落としたのだとティースたちは聞かされていた。
――と、そこへ。
部屋の外からティースを探すリィナの声が聞こえてきた。
「……あ。じゃあ俺、いったん部屋に戻るよ」
「ええ。……ああ、ほら。そこ気をつけて。間違って踏んだら張り倒すわよ」
シーラの口調はいつもの調子に戻っていた。
「うわ、すまん。お……っとっと」
フラフラしながら部屋を出る。
バタン、と、後ろ手にドアを閉めて。
ふぅ、と、ティースは安堵のため息を吐いた。
(バートラムさんの遺品、か……)
シーラがその本を大事にしていることを嬉しく思いつつ。
(でも、あの本――)
表紙に何も書かれていない、黒い本。
個人的に書き記したものであれば、表題がないのは別におかしなことではない。
が。
――それは、どことなく不気味なものをティースに感じさせたのだった。
ネービス公直属のデビルバスター部隊“ネスティアス”。
その中でトップを占める十人のデビルバスターを“ディグリーズ”と呼ぶ。
彼らはネービス領における対魔戦略の要であり、大陸一のデビルバスター部隊との呼び声も高い、大陸きってのエリート集団であった。
そんなディグリーズの一人、“白の御子”と呼ばれる白髪の青年ルーベン=バンクロフトがミューティレイクの屋敷を訪れたのは、冬の空気が完全に一掃され、穏やかな春風が吹くのどかな一日のことである。
「しかしお前もまぁ、よくファナがいないときにばかり来るもんだな」
「つか、狙ってるでしょ、絶対」
そんなルーベンを出迎えたのは、ディバーナ・ロウのデビルバスターの一人であるレインハルト=シュナイダーと、ミューティレイク家の執事であるリディア=シュナイダーの兄妹だ。
「どうも」
紅茶を運んできた使用人の女性が退室していく。
ルーベンは天然の白髪を揺らしながらそんな女性の後姿を見送って、
「あの子、結構古くからいる子ですよね」
「ああ。お前がここに居た頃からな。……で? わざわざ当主様の留守を狙って訪ねてきて、いったい何を企んでいるんだ?」
客間のソファの上で足を組み、意地の悪い笑みを浮かべたレイの言葉に、ルーベンは紅茶のカップを手にしながら苦笑した。
「そういじめないでくださいよ。未だにファナさんの前にだけは、どの面下げて出て行けばいいのかわからないんですから」
「いいじゃないか。このディバーナ・ロウで育ったお前が、ディグリーズの、これからトップまで狙えるんじゃないかって位置にいるんだ。ファナのやつだって鼻が高いだろう」
「だからやめてくださいって」
ルーベンは紅茶のカップに口を付け、レイの隣に座るリディアをチラッと見ると、
「しかし、しばらく見ないうちに大きくなったもんだね。私がここを出たときはまだ一桁だったと思ったけど――」
「ルーベンさんの天狗の鼻ほどは大きくなってないけどね」
「……うん。中身は変わってないな。生意気なクソガキのままだ」
「お互い様じゃん」
リディアは笑って、
「で、そんな裏切り者のルーベンさんがこうして臆面も無く訪ねてきたぐらいなんだから、なにか大事な話があるんでしょ?」
「ん、まぁ、そういうことになるね。……あとお前、後でチェスで決着な」
「んな暇ないっての。夕方にはファナさん帰ってくるし」
「話ってのは“ヴァルキュリスの巫女”のことか?」
そんな二人の会話にレイが口を挟んでいくと、ルーベンは特に驚いた様子もなく、
「よくご存知で」
「お前らがあれ以来スピンネルの村辺りでなにやら動いてたのは知ってる。ま、こっちもそれを期待して情報提供したんだがな」
「こっちも何かと忙しいんでそういうのはカンベンして欲しいんですがね。……で、そのヴァルキュリスの巫女――というより、巫女が持つ魔導器“エブリースの首飾り”のことですが」
ルーベンは手元にある砂糖を紅茶に加え、スプーンでクルクルとかき混ぜながら、
「そもそも“エブリース”とはなんなのか、ということをまずはお話ししましょうか」
そう言ったが、それに対してリディアが即座に答えた。
「エブリースはいつのまにか歴史の裏に消えてしまった、かつて大陸北方を救った英雄、あるいは神の名前だね」
「……さすがは本の虫。そんなことまで調べてたか」
ルーベンの驚きに、リディアは当然といった表情で応えて、
「ネービスの国教はミーカール教。ミーカールも大陸北方を救ったとされる神だけど、実はこのとき、ミーカールと一緒に戦った四人の神がいるとされる。エブリースはそのうちの一神。ただミーカール教の聖典では存在を消されてしまっていて、その理由は――まあルーベンさんの前で言うのもアレだけど、きっとミーカールを唯一神として神格を高めるためだろうね。ネービス公家にはミーカールが残したとされる聖剣があるから」
「遥か昔の権力的な話に興味はないけど、ま、そんなとこだろうねぇ」
ルーベンが頷くのを見て、リディアは続ける。
「その辺の神話から辿ると、エブリースの首飾りっていうのは、ネービス公家が持つ聖剣ミーカールと同等の力を持つ、とんでもない魔導器だってことかな」
「ま、そんなとこだね」
訂正はないようだった。
だが、
「それだけじゃあ、ないだろ?」
と、横からレイが口を挟む。
「え? 兄さん、どういうこと?」
怪訝そうな顔のリディア。
レイはそんな妹をチラッと横目で一瞥すると、すぐに正面のルーベンへ視線を戻して、
「普通の人間に将魔級の魔力を与えるエブリースの首飾りがとんでもない代物だってのはわかる。けど、そんなのはお前らにとっちゃ大した問題でもないはずだ。……まして、そのレベルの魔導器は使用者を自ら限定する。そしてヴァルキュリスの巫女であるアメーリア=スピンネルに野心らしきものはない」
「……あなたがた相手だと話が早くて助かります。ウチのライオン頭なんてこの話を理解するのに丸一日はかかりましたからね」
ルーベンはホッと息を吐いて、
「レイさんのおっしゃるとおりですよ。本当に懸念しているのはそこではなく――それらの魔導器に別の用途がある――あるのではないか、と考えられることなんです」
「というと?」
「ミーカール教の聖典の一節にはこう書かれています。“ヴァルキュリスの口からは大量の魔物が無尽蔵にあふれ出し、人の里を埋め尽くした”と。そして別の場所では“ミーカール神は奇跡によりてヴァルキュリスの口を閉ざし、それ以降魔物があふれ出すことはなくなった”とも書いています」
この“奇跡”の部分が気になっているところです――と、ルーベンは真剣な顔になった。
「神話のヴァルキュリスが、まさにヴァルキュリス山脈のことを指していて、そこにはかつて人間界と魔界を自由に行き来できる通路があった――というのは、結構有名な話です。神話のヴァルキュリスの口というのは、その通路のことを指しているのではないか、と」
そして――と、声が低くなる。
「ヴァルキュリスの口を閉ざした奇跡というのがこの魔導器なのではないか。そしてこの魔導器を集めることによって、逆にその口を開くこともできるのではないか――というのが、我々が描いた推論で、今日、ここを訪ねた本題です」
ルーベンが最後にそう締めると、レイは即座に返した。
「やや突飛に思えるな」
「でしょうね。ただ、これならどうです?」
その感想が出ることは予測していたらしく、ルーベンはすぐに続けた。
「あの“ベルリオーズ”が、どうやらこれらの魔導器を狙っているようなんです」
「ベルリオーズだと?」
初めてレイの表情が驚きを浮かべた。
――ベルリオーズは数年前から人間界で勢力を拡大している魔の組織である。まだそれほど表立った活動はしていないものの、水面下で色々暗躍しているらしい情報と、率いているのがどうやら王魔らしいという情報により、各地の領主たちも警戒を強めている相手だ。
ルーベンはいったん言葉を止め、紅茶で喉を潤して続ける。
「魔の者が自らの意思でこちらの世界に来るためには、力、タイミング、運などいくつかの要素が必要だと聞きます。つまり自由には行き来できない。……それがもし、自由に行き来できるようになったとしたら?」
「人間の国はあっという間に侵略されて終わりだな」
そうです――と、ルーベンは頷いた。
「大陸中のデビルバスターをかき集めたって敵うはずがない。こちらの戦力はデビルバスターだけですが、向こうはすべての住人が戦力だ」
「……」
ルーベンが言葉を止め、レイもリディアも口を開かずに黙り込んだ。
室内を静寂が支配する。
「あくまで念のため、という話ですが――」
「他の魔導器の存在はすべて確認できているのか?」
と、レイは尋ねた。
ルーベンは首を横に振って、
「確認できているのは三つだけですね。そのうちの一つはすでにベルリオーズの手にあると思われます。古い文献によると――」
そう言って、そらんずるように口を開く。
「“聖剣ミーカール”はネービス公家に。“エブリースの首飾り”はヴァルキュリスの巫女が所有しています。“宝杖イスラフェル”はブリュリーズ領にある同名の集落にあったとされていますが、これは最近魔の手によって滅ぼされています。――これがベルリオーズの仕業だと我々は考えています」
レイは腕を組んで考え込みながら、
「二つはネービス領内、か。残りは?」
「“ジブリールの指輪”と“魔導書アズラエル”。前者はジェニス領、後者はクリーヴランド領にあったという古い記録もありますが、現在は所在不明ですね。すでにベルリオーズの手に落ちている可能性もあります」
「指輪と本、か」
ふぅ、と息を吐いて、レイは紅茶のカップを手にソファの背もたれに身を預けた。
「お前らの懸念が事実だったとしても、もし五つ全部集めなきゃならないってことなら、最悪ネービス公家の聖剣さえ無事であればってことになるが……」
「なんともいえませんね。ただ、少なくともわかっている限り守らなきゃならんだろってのがウチの結論です。ヴァルキュリスの巫女にはディグリーズを割いてすでに護衛を始めています」
「で?」
ソファから立ち上がったルーベンを見上げ、レイは問いかけた。
「その話、ウチにどうしろってんだ?」
「ただの情報提供ですよ。ヴァルキュリスの巫女のことを教えてもらったお礼です」
「情報提供、ねえ」
「あとはまぁ、これだけ話したんだから何かあったときには協力しろよという遠回しの圧力でもあります」
ケロッとした顔でルーベンはそう言った。
レイは苦笑して、
「そんなこったろうと思ったよ。……ま、報告はしておくさ。あとは上が考えることだ」
よろしくお願いします――と、ルーベンは帽子を手にとって彼らに一礼すると、再び使用人の女性に連れられて退室していったのだった。