資料⑤:
政治演説 — 次世代権利保障基本法案 賛成討論
資料番号:2084-DIET-HR0609-P07
資料名:衆議院本会議・次世代権利保障基本法案賛成討論抜粋
記録日:2084年6月9日
発言者:与党・次世代保障推進会議 事務局長 篠原真紀
資料種別:国会映像記録
映像は、衆議院本会議場を映したものだった。
画面右上には、白い文字で次のように表示されている。
衆議院本会議
次世代権利保障基本法案 賛成討論
議場は、完全な静寂ではなかった。紙をめくる音、端末を操作する音、議員同士が小声で話す気配、議長席の周辺で事務方が動く音。そうしたものが細かく重なっていた。
やがて、議長の声が響いた。
「次に、賛成討論を許します。篠原真紀君」
議場の一角から、一人の女性議員が立ち上がった。
年齢は、五十代前半ほどに見える。
濃紺のジャケットに、白いインナー。髪は短く整えられており、表情は硬すぎず、柔らかすぎもしなかった。政治家として必要な範囲で感情を見せ、しかし、その感情に飲み込まれない訓練を受けた顔だった。
画面下に、字幕が出る。
与党・次世代保障推進会議 事務局長
篠原真紀
彼女は演壇に上がると、一度だけ議場全体を見回した。
「私は、与党・次世代保障推進会議を代表し、ただいま議題となりました次世代権利保障基本法案ならびに出生児社会養育移行法案について、賛成の立場から討論を行います」
声は、よく通った。
この当時は最新であった演説補助が入っているのか、議場の隅々まで均一に届く音だった。ただし、機械的な響きはない。彼女自身の声が、そのまま拡張されているように聞こえた。
「まず、冒頭に申し上げます」
篠原議員は、手元の原稿に一度だけ目を落とした。
「本法案を、いわゆる『家族禁止法』などという扇情的な呼称で語ることは、法案の本質を著しく歪めるものです」
議場の一部が、わずかにざわついた。反対席の方から、何か声が飛んだようだったが、記録映像では内容までは拾われていない。篠原議員は、そちらを見なかった。
「本法案は、家族を憎む法律ではありません。親を罰する法律でもありません。ましてや、子を産み、育てようとしてきた人々の努力を否定する法律でもありません」
彼女は、一語ずつ区切るように続けた。
「本法案の目的は、出生したすべての子供に、安全で、安定し、専門的に設計された発達環境を保障することにあります」
議場は、再び静かになった。
「これまで私たちは、子供の未来を、あまりにも多くの偶然に委ねてきました」
篠原議員の背後にある大型スライドに、短い項目が並んだ。
出生地域。
家庭所得。
親の教育水準。
親の健康状態。
親の精神的安定。
家庭内暴力リスク。
教育情報へのアクセス。
民間養育支援サービスの利用可否。
「どの地域に生まれるか。どの所得階層に生まれるか。親がどれほど教育に詳しいか。親がどれほど健康で、精神的に安定しているか。親がどの思想、どの価値観、どの生活環境を持っているか」
篠原議員は、ゆっくりと議場を見回した。
「それらの偶然によって、子供の健康、学力、進路、所得、社会適応、幸福度が左右されてきました」
彼女は、そこで一拍置いた。
「これは、もはや個別家庭の問題ではありません。社会の構造的問題です」
議場の与党席から、小さな拍手が起こった。議長が軽く視線を向けると、拍手はすぐに収まった。
「私たちは長い間、子育てを尊い営みとして語ってきました。親の愛情、家庭の温かさ、家族の絆。そうした言葉が、人々を支えてきたことを、私は否定しません」
篠原議員の声は、少しだけ柔らかくなった。
「実際、多くの親たちは、限られた時間と収入の中で、懸命に子供を育ててきました。夜泣きに起き、仕事を調整し、教育費を払い、制度を調べ、発達支援を探し、時には自分の健康やキャリアを削ってでも、子供のために努力してきました。だからこそ、申し上げたい!」
彼女は、少し声を強くした。
「私たちは、親を責めるためにこの法案を提出しているのではありません。親だけに、あまりにも重い責任を負わせてきた社会を変えるために、この法案を提出しているのです」
今度の拍手は、先ほどより大きかった。
「子供を十分に育てられない親が悪いのでしょうか。違います」
篠原議員は、はっきりと言った。
「専門的な発達知識を持たない個人に、乳幼児期の栄養、情緒応答、認知刺激、睡眠管理、感染症対策、教育選択、進路設計、心理的安定、社会性形成、そのすべてを担わせてきた制度こそが限界に達しているのです」
反対席から、再び声が上がった。
「家庭を否定するのか」
というような野次だった。篠原議員は、今度はそちらに顔を向けた。
「家庭を否定しているのではありません」
即座に答えた。
「家庭だけに、子供の未来を背負わせることを、これ以上続けるべきではないと申し上げているのです」
彼女は、そこで少しだけ間を置いた。
「そして、この問題は、もはや個々の家庭の努力だけで解決できる段階を超えています」
篠原議員の背後に、新しい資料が表示された。
合計特殊出生率の推移
2050年代危機時点
日本:0.58
2084年現在
日本:1.40
うち家庭養育予定出生:0.55相当
うち社会養育予定出生:0.85相当
議場の空気が、わずかに重くなった。
「かつて、わが国の出生率は0.6を下回りました。近隣の韓国では、0.2台という、かつての人口統計学では想定さえされなかった水準も記録されました」
篠原議員は、スライドを振り返らずに続けた。
「これは、単なる少子化ではありませんでした。国家的緊急事態でした」
与党席から、「そうだ!そうだ!」という強い同意の声が上がった。
「その後、2060年代にゆりかご支援選択制度が導入され、出生率は一定の回復を見せました。現在、わが国の出生率は1.4前後まで戻っています」
篠原議員は、そこで一拍置いた。
「しかし、ここで目をそらしてはならない事実があります。家庭で育てることを前提とした出生は、現在でも0.55相当にとどまっています。回復した出生の多くは、出生後に社会養育へ移行することを前提とした出生です。すでに、出生児の六割強、ほぼ三分の二が、ゆりかご制度を通じて社会養育を受けています」
議場の一部で、端末を操作する音が増えた。
「つまり、出生率を回復させたのは、旧来型の家庭養育モデルではありません。出産と養育を切り分け、子供を持つことに伴う過大な養育責任を社会が引き受けるという、新しい制度設計だったのです」
「なぜ、家庭養育を前提とする出生は、危機的水準から大きく回復しなかったのか。答えは明らかです。子供を持つことが、あまりにも重くなりすぎたからです」
スライドに、別の項目が並んだ。
子育て費用の高騰。
教育競争の過熱。
共働きと育児の両立困難。
出生提供者のキャリア断絶。
家庭内養育責任の集中。
民間高度養育サービスの価格格差。
恋愛・結婚の減少。
「子供を持てば、生活の自由を失う。キャリアを止めなければならない。教育費を負担しなければならない。発達支援を調べなければならない。安全管理をしなければならない。周囲と比較され、制度を調べ、申請を行い、少しでも失敗すれば親の責任だと言われる」
篠原議員は、少し声を強くした。
「これでは、人々が子供を持てなくなるのは当然です」
反対席から、短い声が飛んだ。
「だから国家が子供を奪うのか」
篠原議員は、今度はそちらを見た。
「違います」
即座に答えた。
「国家が子供を奪うのではありません。社会が、子供を持つことに伴う過大な養育責任を引き受けるのです」
議場は、再び静かになった。
「出産は、個人の人生を破壊するものであってはなりません。子供を持つことが、片方のキャリア断絶や、家庭の経済的破綻や、人生設計の放棄を意味する社会であってはなりません」
篠原議員は、一語ずつ丁寧に言った。
「子供を持つことと、子供を家庭だけで育てることは、同じではありません」
その言葉に、議場の数人が顔を上げた。
「私たちは、出産と養育を切り離すことで、子供の権利を守ると同時に、出生提供者の人生も守ることができます。子供は専門的な社会養育を受ける。出生提供者は、キャリアを継続し、生活を維持し、個人としての人生を失わない。その両方を実現するための制度が、出生児社会養育移行法案です」
彼女は、そこで一度だけ原稿に目を落とした。
「もちろん、誤解してはなりません。本法案は、出生率の数字のために子供を産ませる政策ではありません。子供を、国家の人口維持のための手段として扱うものでもありません」
篠原議員は、ゆっくりと議場を見回した。
「むしろ逆です。子供を持つことが、出生提供者の人生を破壊しない社会を作ること。子供が、親の所得や知識や生活条件に左右されず、安定した発達環境を得られる社会を作ること。その結果として、人々が子供を持つことを、恐怖や犠牲ではなく、現実的な選択として考えられるようにすること。それが、本法案の目指すところです」
ここでまた、拍手が起きた。
今度は与党席だけではなかった。中間的な立ち位置だった党も拍手をしていた。
篠原議員は、拍手が収まるのを待ってから続けた。
「親の愛情を否定しているのではありません。しかし、愛情は制度ではありません」
その言葉のあと、議場の空気が少し変わった。
「愛情は、栄養管理の代替にはなりません!愛情は、発達特性の早期発見の代替にはなりません!愛情は、教育格差を補正する制度的基盤にはなりません!愛情は、虐待やネグレクトのリスクを、常に防げるわけではありません!」
篠原議員は、原稿を見ずに力強く演説を続けた。
「そして何より、愛情がある家庭に生まれるかどうかも、子供にとっては選べない偶然なのです!」
議場は静かだった。与党席でさえ、拍手をするタイミングを失っているようだった。
「本法案は、その偶然を社会が引き受けるためのものです」
彼女は言った。
「出生した子供が、どの家庭に生まれたかによって、医療へのアクセスを失ってはなりません。栄養状態を損なってはなりません。発達支援の機会を失ってはなりません。教育環境を制限されてはなりません。親の所得によって、民間の高度養育サービスを受けられる子供と、受けられない子供に分かれてはなりません」
スライドに、新しい資料が映し出された。
家庭内会話時間の推移
二〇二〇年基準:一〇〇
二〇五〇年:二一
二〇七〇年:五・六
二〇八三年:一・一
議場が、わずかにざわついた。
篠原議員は、スライドを一度見た。
「ここで、もう一つ、私たちが直視しなければならない数字があります」
彼女の声は、先ほどより少し低くなっていた。
「二〇二〇年以降、家庭内における親子の実質会話時間は、長期的に減少し続けました。最新の追跡調査では、二〇二〇年を一〇〇とした場合、二〇八三年時点の家庭内会話時間指数は、一・一です」
議場の一部から、驚きとも失笑ともつかない声が漏れた。
「約九九%の減少です」
篠原議員は、はっきりと言った。
「もちろん、これは親が子供を愛さなくなったという意味ではありません。親が意図的に子供を無視したという意味でもありません。多くの家庭では、親は働き、制度を調べ、家計を管理し、子供の発達記録を確認し、学校や保育機関からの通知に対応していました」
彼女は、そこで一拍置いた。
「しかし、そのすべてが端末を介して行われるようになりました」
スライドに、家庭内の模式図が映った。
父親:業務通知・在宅勤務端末
母親:家計管理・育児記録・支援制度申請
子供:学習アプリ・動画・ゲーム・個別推薦教材
「親と子供は、同じ居住空間にいました。しかし、同じ世界を見ていたわけではありません。父親は仕事の通知を見ている。母親は育児記録と家計アプリを見ている。子供は教育アプリ、動画、ゲーム、個別推薦教材を見ている。夕食の席に家族がそろっていても、それぞれが別々の情報環境に接続されていたのです」
反対席から、声が飛んだ。
「それならスマホを規制すればいいだろう!」
篠原議員は、すぐにそちらを向いた。
「その通りです。私たちは、そうしてきました」
彼女は、原稿を見ずに答えた。
「利用時間制限。年齢別閲覧制限。教育用端末と娯楽用端末の分離。家庭内通信遮断時間。未成年向け推薦アルゴリズム規制。保護者への利用通知。学校単位での端末管理。依存性設計への課徴金。あらゆる規制を、私たちは試みました」
スライドには、過去の規制一覧が表示された。
2038年 未成年端末利用時間制限法
2044年 教育端末・娯楽端末分離義務化
2052年 家庭内夜間通信制限制度
2061年 未成年向け推薦アルゴリズム規制
2073年 依存性UI課徴金制度
2079年 保護者端末利用透明化法
「しかし、現実はどうだったでしょうか」
篠原議員の声は、感情的ではなかった。むしろ、淡々としていた。
「制限すれば、子供たちは別の端末を使いました。端末を分ければ、教育アプリの中に娯楽が入り込みました。娯楽を禁止すれば、学習コンテンツが娯楽化しました。推薦アルゴリズムを規制すれば、国外サービス、匿名ネットワーク、友人間共有、生成型コンテンツが抜け穴になりました」
彼女は、少しだけ声を強くした。
「そして何より、親自身が端末から離れられませんでした!」
議場が静かになった。
「親は、働くために端末を必要としました。家計を維持するために端末を必要としました。行政手続きを行うために端末を必要としました。学校や保育機関と連絡するために端末を必要としました。子供の発達記録を見るために端末を必要としました」
一拍。
「スマートフォンは、家庭の外から侵入してきた悪ではありません。家庭を維持するための道具そのものになっていたのです」
篠原議員は、そこでスライドを変えた。
十八歳時点標準学力偏差値
知能関連多遺伝子スコア・出生時健康状態・地域・年齢調整後
社会養育児:60.4
家庭養育児:37.9
議場の空気が変わった。
「この会話時間の崩壊は、単なる情緒の問題ではありませんでした。教育成果に、極めて大きな差を生みました」
篠原議員は、数字を指さした。
「2072年から2081年出生コホートを対象とした追跡調査では、18歳時点の標準学力偏差値において、社会養育児と家庭養育児の間に、最大で30ポイントを超える差が確認されています」
反対席から、すぐに声が飛んだ。
「家庭の所得差だ!」
「遺伝の差だ!」
篠原議員は、待っていたように頷いた。
「当然、その疑問はあります。だからこそ、この分析では、家庭所得、出生地域、出生時健康状態、年齢、そして知能関連形質と統計的関連を持つ多遺伝子スコアを調整しています」
議場が、再びざわついた。
「調整してなお、大きな差が残りました」
彼女は、強く言った。
「同じ年齢。同じ地域。同程度の出生時健康状態。同程度の知能関連遺伝的潜在性を持つと推定される子供同士を比較しても、家庭養育児と社会養育児の間には、最大で30ポイント規模の学力差が残ったのです」
篠原議員は、原稿を一枚めくった。
「これは、家庭で育った子供たちの能力が低かったという意味ではありません。むしろ逆です。能力があっても、その能力が発達する環境が家庭内に残されていなかったということです」
彼女の声は、ここで少し静かになった。
「子供は、知能だけで育つのではありません。睡眠、栄養、会話、注意、感情応答、学習計画、身体活動、対人経験、失敗への支援、好奇心への応答。そのすべてが必要です。しかし、端末化した家庭では、それらが断片化していました」
スライドに、家庭養育児の典型的な一日の調査結果が表示された。
親子の連続会話:平均二分一八秒
親の端末注視頻度:一時間あたり三一回
子供の個人端末接続時間:一日七・四時間
家庭内共同活動時間:一日九分
親の発達記録確認時間:一日二二分
子供本人への直接応答時間:一日六分
「親は、子供のために端末を見ていました。子供の発達記録を確認し、学校からの通知を読み、制度申請を行い、教育情報を探していました」
篠原議員は、言葉を区切った。
「しかし、その間、子供本人の顔を見ていなかった」
議場が、静まり返った。
「これは親の罪でしょうか」
彼女は、ゆっくり問いかけた。
「私は、そうは思いません。親たちは追い込まれていました。仕事に追われ、生活費に追われ、制度に追われ、情報に追われ、教育競争に追われていました。問題は、親の人格ではありません」
彼女は、声を強くした。
「家庭という小さな単位に、現代の発達環境を維持するだけの情報処理能力が、もはや残されていなかったのです!」
与党席から拍手が起こった。篠原議員は、拍手を待たずに続けた。
「一方で、この環境から早く脱出できた層がありました」
スライドが切り替わる。
出生直後高度養育コーチング利用率
上位1%所得層:98.2%
上位5%所得層:56.8%
中位所得層:4.9%
下位所得層:0.2%
神経接続型チップ早期導入率
上位一%所得層:70.5%
中位所得層:5.2%
下位所得層:0.1%未満
「富裕層です」
篠原議員は、短く言った。
「富裕層は、出生直後から専属の発達コーチをつけています。睡眠、栄養、言語刺激、運動、感情反応、学習計画を専門家が管理しました。さらに、一定の年齢に達すると、安全性の高い神経接続型チップを導入し、旧来型スマートフォンから離脱しました」
反対席がざわついた。
「つまり、富裕層の子供たちは、端末依存から自由になったのではありません。端末を身体外の依存対象としてではなく、身体化された認知補助として使える環境を買ったのです」
篠原議員は、そこで一度だけ視線を落とした。
「かつてスマートフォンは、誰にでも情報へのアクセスを与える道具だと言われました。しかし、二十一世紀中頃には逆のものになりました。普通の家庭の子供たちは、画面に注意を奪われ続ける。一方で、富裕層の子供たちは、チップとコーチングによって、ネットワークを依存対象ではなく能力拡張として使うことができる」
彼女は、議場を見回した。
「これは、格差です。単なる所得格差ではありません。注意力の格差です。会話の格差です。認知環境の格差です。出生直後から始まる、見えない階級差です」
スライドに、さらに別の資料が出た。
新人就業時初任給中央値
家庭養育・高度支援なし:年収500万円
社会養育制度出身:年収2500万円
富裕層高度コーチング+早期チップ導入:年収3500万円
家庭養育・高度支援なしとの差
社会養育制度出身:約5倍
富裕層高度コーチング+早期チップ導入:約7倍
「この差は、教育段階だけにとどまりません。就業段階においても確認されています」
篠原議員は、資料を読み上げた。
「同じ新卒採用市場に入った時点で、家庭養育で高度支援を受けられなかった若者と、出生直後から高度コーチングと神経接続型チップを利用した富裕層の若者の間には、初任給中央値で約7倍の差が確認されました」
議場が大きくざわついた。
「7倍です」
篠原議員は繰り返した。
「これは努力の差でしょうか?本人の人格の差でしょうか?違います。出生直後から与えられた環境の差です」
彼女は、さらに続けた。
「なお、ゆりかごによる社会養育制度出身者と、富裕層高度コーチング層の間にも、統計的に有意な所得差は確認されています。しかし、その差は家庭養育によるものに比べれば相対的に小さいです。さらに追加分析によれば、その差の多くは、親の社会的ネットワークによる採用時の紹介経路、企業側のシグナリング効果によって説明されると推定されています」
篠原議員は、そこで声を落とした。
「つまり、発達環境そのものにおいて、社会養育制度はすでに富裕層の高度養育に相当する成果をかなりの程度まで達成しています。一方で、残る差は、親のブランドとコネクションによるものです」
一拍。
「では、私たちは何をすべきなのでしょうか?」
彼女は、正面を向いた。
「富裕層だけが、スマートフォン依存から自由になり、専門的発達環境を買い、神経接続技術を安全に導入し、出生直後から注意力と認知環境を守られる社会を続けるのでしょうか?」
声が強くなる。
「中位以下の家庭の子供たちは、親も子も端末に注意を奪われ、会話を失い、学力を失い、就業時点で7倍の所得差を背負わされる。それを、家庭の自由と呼ぶのでしょうか?」
議場は静かだった。
「私は、断固としてこの格差に反対します」
篠原議員は、はっきりと言った。
「これは自由や努力の結果ではありません。出生格差です」
与党席から、拍手が起きた。篠原議員の力強い演説に、心を揺さぶられたのか泣き出しながら応援する議員も見られる。
「スマートフォン規制だけで解決できる時代は、すでに終わりました。家庭支援アプリを増やして解決できる時代も終わりました。親への通知を増やせば増やすほど、親は画面を見る。子供の学習アプリを改善すれば改善するほど、子供は画面を見る。家庭を支援するための情報環境そのものが、家庭内の会話と注意を破壊していくのです!」
篠原議員は、ゆっくりと言った。
「私たちは、制度的に敗北したのです」
議場がざわつく。
「スマートフォン依存に対して、家庭単位で戦い、我々はすでに敗北しました。個々の親の努力にも、学校の指導にも、端末利用規制にも、企業の自主規制にも、限界がありました。企業側でさえ、もはや完全には止められないのです。競争市場の中で、注意を奪わないサービスは生き残れず、依存性の低い設計は、より依存性の高い設計に置き換えられていったのです」
彼女は、少し間を置いた。
「だからこそ、子供の発達環境を、家庭内の端末環境から切り離す必要があります」
篠原議員の声は、ここで演説全体の核心に戻った。
「社会養育制度とは、単に親の負担を軽減する制度ではありません。単に虐待を防ぐ制度でもありません。単に出生率を回復する制度でもありません」
彼女は、言葉を区切った。
「子供の注意力を、学習環境を、そして将来を守るのです!」
与党席から、今度は大きな拍手が起こった。
「そして、今ここで強調しておきます!」
篠原議員は、拍手が収まる前に続けた。
「これは、親を責める政策ではありません。
スマートフォンを見てしまった親を罰する政策ではありません。
疲れ切った仕事帰りに、子供の話に十分に応答できなかった親を断罪する政策ではありません」
彼女は、少しだけ声を柔らかくした。
「そのような親たちこそ、社会が支えなければならない人々です」
一拍。
「しかし、親を支えることと、子供の発達環境を家庭に委ね続けることは、同じではありません」
篠原議員は、再び正面を向いた。
「子供は、親の疲労に付き合うために生まれてくるのではありません。
子供は、親の端末通知の合間に育つべき存在ではありません。
子供は、親の所得によって、スマートフォン依存から脱出できるかどうかを決められるべき存在ではありません」
議場の空気が、重くなる。
「すべての子供に、端末依存から保護された発達環境を。
すべての子供に、専門家によって設計された会話と学習の時間を。
すべての子供に、富裕層だけが買ってきた認知環境を、公共制度として保障するのです!」
彼女は、ここで一度だけ深く息を吸い、話の方向を変えた。
「2060年代に導入されたゆりかご支援選択制度は、当初、育児困難家庭や、病気、貧困、予期しない妊娠、キャリア継続を希望する出生提供者を支える制度として始まりました」
篠原議員は、今度はゆりかご支援選択制度に触れた。
「しかし、その後の二十年で明らかになったことがあります。社会養育を受けた子供たちは、平均して、健康状態、栄養状態、学習到達度、社会適応、精神疾患の早期発見率において、安定した結果を示しました」
議場の大型スライドには、青いグラフが並んでいた。
「これは、親の努力が足りなかったという意味ではありません」
彼女はすぐに付け加えた。
「専門機関が、専門的な設備と人員とデータに基づいて子供を支援すれば、個人の家庭だけでは到達しにくい素晴らしい環境を用意できる、ということです」
「ここで、議論は一つの転換点を迎えました」
篠原議員は続けた。
「社会養育は、もはや例外的な救済制度にとどまるべきなのか。それとも、すべての出生児に保障されるべき標準的な発達環境なのか」
議場の一部で、端末を操作する音が増えた。
「本法案は、この問いに対して明確に答えるものです。子供の権利保障は、親の申請能力や、家庭の判断や、地域ごとの支援格差に左右されてはなりません。社会養育を必要とする子供だけが、社会養育を受けるのではありません。すべての出生児が、最初から社会全体による発達保障を受けるべきなのです」
ここでまた、拍手が起きた。
「反対される方々は言います。子供を家庭から離すのはあまりにも急進的だと。親と子の関係には、国家が踏み込むべきではないと」
篠原議員は、原稿を一枚めくった。
「その懸念に、私たちは誠実に向き合わなければなりません。制度は透明でなければならない。社会養育施設は監査を受けなければならない。出生提供者への説明、心理的支援、短期接触支援、記録閲覧制度は整備されなければならない。発達支援区分についても、本人の権利救済手続きと再審査制度が不可欠です」
彼女は、反対派の懸念を一つずつ拾った。その言い方は、攻撃的ではなかった。むしろ、よく準備された答弁だった。
「しかし、それでもなお、私は申し上げます」
篠原議員は、視線を上げた。
「家庭養育を続ける自由を守る、という言葉は、一見すると個人の自由を守る言葉に聞こえます」
少し間を置く。
「しかし、その自由を行使できるのは大人です。その結果を引き受けるのは、子供です」
議場が静まった。
「大人が、自分の価値観で子供を育てたい。大人が、自分の手元に子供を置いておきたい。大人が、自分の信じる教育を与えたい。大人が、家庭の中で子供と暮らしたい」
篠原議員の声は、さらに低くなった。
「その願いが、すべて悪だと言っているのではありません。しかし、私たちは問わなければなりません。それは子供の権利なのでしょうか?それとも、大人の独善的な願望なのでしょうか?」
議場の一部から、低いざわめきが起こった。
「子供は、親の人生の延長ではありません。子供は、親の寂しさを埋める存在ではありません。子供は、親の思想を受け継ぐための器ではありません。子供は、親の老後を支えるための資源ではありません」
篠原議員は、そこで一度だけ言葉を切った。
「子供は、独立した権利主体です」
その瞬間、与党席から大きな拍手が起こった。議長が制止するまで、拍手はしばらく続いた。
篠原議員は、拍手が収まるのを待ってから続けた。
「本法案が定めるのは、まさにこの一点です。出生した子供は、出生した瞬間から、独立した権利主体として、社会全体による発達保障を受ける。その権利は、親の所得、親の知識、親の精神状態、親の思想、親の生活環境によって制限されてはならない」
彼女は、手元の原稿を閉じた。
ここから先は、あらかじめ用意された文章ではないようにも見えた。
「この法案に対して、不安を抱く方がいることを、私は知っています。特に、いま家庭で子供を育てている方々にとって、この法案が冷たく見えることも、理解しています」
篠原議員の声は、少し静かになった。
「朝起きたとき、そばに子供がいる。泣いたら抱き上げる。食事を用意する。眠るまで隣にいる。そうした日々の中に、かけがえのない意味を見いだしてきた方々がいることを、私は否定しません」
篠原議員は少し息を吸い力強く、こう言った。
「しかし、政治が守るべきものは、大人にとってのかけがえのなさだけではありません!」
篠原議員は、素早く続けた。
「声を上げられない出生児の権利です。まだ自分の不利益を説明できない子供の発達です。自分がどの家庭に生まれたのかを選べなかった子供たちの未来です」
彼女は、議場を見回した。
「私たちは、家庭の温かさという言葉の下で、見えない場所に押し込められてきた子供たちを、これ以上見過ごしてはなりません。私たちは、親の努力という言葉の下で、親にも子にも過大な負担を押しつけてきた社会構造を、これ以上続けてはなりません」
もう一度、拍手が起こった。今度もかなり大きかった。
「本法案は、完璧な制度ではありません。いかなる制度も、完璧ではありません。だからこそ、監査制度、異議申立制度、施設評価制度、出生提供者への心理的支援、本人への記録開示制度を整備し続ける必要があります」
篠原議員は、最後の部分に入っていた。
「しかし、制度が完璧でないことは、子供の権利保障を先送りする理由にはなりません」
彼女は、はっきりと言った。
「子供は、待ってはくれません。出生直後から、発達は始まります。栄養も、刺激も、情緒の安定も、睡眠も、安全も、すべてが時間とともに積み重なります。人生の最初の環境を、偶然と善意だけに委ねる時代は、もう終わらせなければなりません」
議場の空気が、少し張り詰めた。篠原議員は、最後に正面を向いた。
「これは、家族を禁止する法律ではありません」
彼女は、もう一度その言葉を使った。
「これは、子供の未来を、出生環境という偶然から解放する法律です」
一拍。
「子供は、親の人生の一部ではありません。子供は、次世代の市民です。そして、次世代の市民の発達を保障する責任は、家庭だけにではなく、社会全体にあります」
篠原議員は、軽く頭を下げた。
「以上の理由から、私は、次世代権利保障基本法案ならびに出生児社会養育移行法案に賛成いたします」
演壇を降りると、与党席から今までのどの拍手よりも大きな拍手が起き、マイクの録音機が自動的に録音ボリュームを下げたのが分かる。
一部の議員は立ち上がっていた。反対席では、腕を組んだまま動かない者もいた。端末に何かを書き込んでいる者もいる。議場全体が熱狂していたわけではない。ただ、この演説が、ひとつの時代の公式な言葉として記録されたことだけは、映像からでも分かった。
画面は、議長席へ切り替わった。
「討論は終局いたしました。これより採決に入ります」
映像はそこで一度、停止された。
この演説の後、次世代権利保障基本法案および出生児社会養育移行法案は採決に付され、衆議院を通過した。後世において、この二法は俗に「家族禁止法」と総称されることになる。




