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4話 のの子

 見渡す限りの自然が、これほどまでに苛烈で残酷に見えるだなんて想像すらしていなかった。

 商人が行き交う街道から外れ、騎馬での移動を始めてから数刻。人里の安寧を脱ぎ捨てた先にあるカノア草原は、剥き出しの生存本能が支配する生命の楽園だった。

 

 今日の訓練の目的は、この辺りに縄張りを持つ巨大猪――エレファントボアの討伐。

 三メートルを超す巨躯に、鋭利な牙と岩をも砕く突進力を備えた草原の暴君。太く硬質な毛は生半可な攻撃など通すわけも無く、弱者を擦り潰す武器となっていた。

 私、秋来のの子はそんな暴君にこれから挑まなければならない。

 

 だけど……その獲物に辿り着く前に、私の心はすでに悲鳴を上げていた。

 

「躊躇うな! 怯えを削ぎ落とせ!」

 

 背後から容赦なく浴びせられる、第一騎士団長サーテスの叱責。彼の声は、吹き抜ける風よりも鋭く私の背中を打つ。溢れそうになる涙を必死に堪え、重い鉄剣を振るった。

 

 私は今、三匹のゴブリンと僅かな間合いを維持しながら対峙している。

 茶褐色のナニかで汚れた肌、非対称に揺れる濁った黄色い瞳。鼻を突く饐えた獣のような悪臭。

 アニメで見たそれとは違う、私に死を強要する殺意を前に、呼吸は浅く乱れ、震えが止まらない。

 

「ガァッ!」

 

 真ん中の一匹が私へとただ真っ直ぐき駆け錆びた短剣を振り下ろす。私はそれを無骨な盾で弾き飛ばし、突きを繰り出した。

 ロングソードの剣先がゴブリンの腹部を貫通する。ぐちゃりとした、命を奪う濡れた感触。

 剣を引き抜き、今度こそはと無心で首を刎ねようとして……仕損じる。

 それでも致命だったのか崩れ落ちる躯。

 

 団長は「死にたく無ければ慣れろ」と言い、私に連戦を強いる。目標の猪に辿り着くまでに遭遇するゴブリンは、私に勇者としての「覚悟」を植え付けるための生贄でしかない。

 

 気を抜いた一瞬、視界から消えていたゴブリンが錆びた剣を振り回しながら襲いかかってくる。

 剣撃を避ける為に無様な格好で地面を転がり躱す。

 ガラ空きとなった背後から心臓部をひと思いに突き刺す。背骨に当たり剣先が逸れる感覚と肉を断つ感触。

 酷く耳にこびりつく断末魔の叫びと剣から伝わる痙攣が私の心を削っていく。

 何度となく経験することで慣れることもなく、ただ悪化する。トドメを刺す瞬間にあの叫びを思い出して体が強張る。

 

(嫌だ……もう嫌だ……)

 

 目の前のモンスターを殺すことへの恐怖。そして何より、そんな光景に、命の重さを無視することに慣れてしまう自分が、たまらなく怖かった。

 

「……あ、はぁ……っ……はぁ……」

 

 最後の一匹が口から赤い泡を吹き動かなくなるのを見届けると、私は吐き気に耐えるために口に手を当て、膝から崩れそうになるのを必死に堪えた。剣を握る掌は汗で滑り、指先は小刻みに震え、唇や舌も痺れてる。

 

 周囲では、精鋭揃いの騎士たちが手際よくゴブリンの死体から魔石を抉り出し、血を拭っていた。彼らにとって、これは作業であり、日常なのかもしれない。

 

「五分休め。休んだらすぐ移動するぞ」

 

 団長の号令が下る。

 私は崩れるようにその場に座り込み、血と脂で汚れた鉄の凶器を、震える手で何度も雑草に擦りつけた。口はカラカラに乾いているけど、今は水を飲むことすら体が拒絶している。一刻も早く、しつこくこびりついた鉄臭い血糊を落としたかった。

 

 拭う手を止め、握りしめていた剣を置く。

 少し目を瞑ることで乱れた呼吸が整い、心なしか気分も落ち着いてきた。 

 そして、私の弱い心は、余裕が出来るとすぐに不安という名の毒に支配され始めてしまう。

 役に立たなきゃ。そう思うほど思考にモヤがかかり、氷水の中を踠いているような錯覚に襲われる。

 気付かないうちに、指先からは感覚が消え失せていた。

 

「……だめ。みんなのために頑張るって決めたんだから」

 

 小声ながらも口に出すことで自分に気合を入れ、立ち上がろうとした時だった。

 

 草原を突風が走る。

 それと同時に、今まで感じた事のない本能的な恐怖に体が震え出す。背筋を這い上がる寒気が、肺の空気を凍りつかせた。

 

「……ッ、総員、構えろ!」

 

 声からも伝わるサーテス団長の焦り。精鋭のはずの騎士たちが、統制を失ったノイズのように武器を抜く。

 

 最も恐怖を感じる方角に視線を向けると――陽炎の立つ草原の真ん中に、一人の男が立っていた。

 

 影のように真っ黒な外套を纏い、人間と同じ形をしていながら、明らかに異質な存在感。

 その黒い輪郭は、ふわりと散歩するかのようにゆっくりと、こちらへ歩き出す。

 

 それだけで、彼の背後にあったカノア草原が、墨を零したように黒く腐り落ちていく。

 観劇さながらの静寂は、彼がこの悪意に満ちた夜の舞台の主役であると、残酷に知らしめていた。

 

 

 そして、私たちを一切歯牙にも掛けない動きで歩み、数メートルの距離を残した所で立ち止まる。

 私は呼吸を忘れてしまう程の重圧にただ耐えるしか出来なかった。

 

「――なかなか来ないから、こちらから出向いてしまったではないか、か弱き勇者よ」

 低くハッキリと聞こえる声。

 浅黒い肌に真っ黒な髪をした男だった。

 貴族のような装いだが、弧を描く不気味な口元と、赤く光る眼。

 人間じゃない……? 小さい頃、パパと一緒にみた怖い映画に出てきた悪魔を思い出した。

 

「魔族……それも、かなり上位の……何故此処に!」

 

 サーテス団長の声が辺りに響く。

 私は()()と一緒に水が地面に撒かれる音を聞き、周囲を見渡して――胃からの逆流を堪えきれず、地面に膝をついて吐き出した。


 さっきまで魔石を回収していた騎士たちが、誰一人として細切れにされ原型を留めていなかった。みんな崩れ落ちる音だけしか残せず、絶叫を上げる時間さえ奪われた。

 

 誰よりも強い団長さえも、私が情け無く蹲っていた僅かな時間を稼いだ結果、左の肩から先を失い、倒れている。

 

 私もすぐみんなの後を追う未来しか残されて無い。

 

 

「ふむ、これが今回の勇者か。他の家畜と大して変わらぬのだな」

 

 魔族が、ゆっくりと歩み寄る。

 

 逃げなきゃ。そう思うのに、足は震え、膝から下の感覚が消失している。

 

「ふむ、大切に育てられたが故、闘争心すら持ち合わせていない。実に良い。これほどまでに無力な個体が『希望』だとは、いよいよ我らの悲願が叶うのも近いな」

 

 男は止まり、細長い指が私を狙いを定めるかのうに腕を持ち上げる。

 魔族から放たれる圧倒的な魔力が、物理的な圧力に代わり、体を縛りつける

 

(……死にたく無い……パパ、ママ、覇音さん……!)

 

 私は、大好きな家族と、出会って間もない友達の名前を心の中で呼んでいた。


 止めどなく溢れる涙が視界を覆い、私は死を覚悟して……目を閉じる。

 血の気が引き、そのまま意識が遠のきかけた――その瞬間。


 ――大気を引き裂く、咆哮にも似た爆音が響き……何かが地面に墜落した衝撃波で私は意識を手放した。

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