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 意識が揺蕩(たゆた)う。


 仰向けで横たわる身体が微かに揺すられる感覚と共に、カラカラと音が聞こえる。

 ぼくは、ストレッチャーで運ばれている?


 上から心配そうな母の顔が此方を覗き込んできた。見覚えのある情景に、これは腹膜炎の手術の時の夢だと気付いた。


 あの時とは違って腹が捩れるような激痛は無い。


 ふわふわと頼りない感覚と思考は夢だからだろうか。五感が鈍い。


 母が離れるのと入れ替わりにストレッチャーを押す看護師が顔を覗かせて此方を励まそうと口を開く。


「すぐ済みますから、大人しくしていてください」


 こんな事、言っていただろうか? もっと、子供であったぼくを安心させるような言葉だったような。


 看護師の顔がぶれる。


 ――あれ? 女性の看護師さんじゃなかったっけ。


 手術室に運び込まれる。あの時をなぞるように身体は動かない。


 此方の様子を確かめた執刀医がニヤリと口角を吊り上げて笑っている。


 笑っている?


 服を軽く引っ張られ、裾から胸の方へと切れ込みが入れられていく。


 確かあの時は手術前に前開きの患者着に着替えさせられていた筈。


 何か、変だ。


 身を捩ろうとしたが、やはり身体は動かない。


 縦に裂かれた服を左右に避け、剥き出しになった鳩尾から臍までをツゥ、と何かがなぞっていく。


 また、腹を開かれるのか。


 ――嫌だ、止めろ。


 鳩尾にヒタリと冷たい金属が当てられる。


 ――止めてくれ。


 指先一つぼくの意志では動いてくれない。抵抗、出来ない。


 ――嫌だっ怖い、怖い!


 腹の上をスッと冷たさが滑っていく。


 ――ああ、ああ、嘘だ、切られ……。


 ピタッと臍より上で刃物が止まった。

 数秒の沈黙の後、カチャリと金属を置く音が響く。


「ふむ。あちらを先にすべきでしたね」


 そう言い残して、ぼくを恐怖と絶望に突き落とした気配があっさり離れていく。

 沁みるような静寂が周囲に降りた。


 ぼくは、助かったのだろうか。それとも今ぼくの腹は、外気に中身を曝しているのだろうか。

 何も分からない。何も、見えない。


 目の前に広がる黒を認識した瞬間、急速に意識が暗闇へと引っ張られるのを感じた。

 抗う事も叶わずに無我の沼に引きずり込まれていく。


 ――そういえば、あの執刀医はどんな顔だった?


 そう浮かんだのを最後に、意識がふつりと途絶えた。




―――




 ―――――ん! ―――い、――くん!


 何か聴こえる。悲痛の色を帯びた音が。

 揺れる。意識が。自我を取り戻していく。


「――(けん)くん!」


 今度ははっきりと耳に入った。ぼくの名前を呼んでいる。


「起きてよ乾くん! お願いっ」


 身体を大きく揺さぶられてやっと完全に覚醒した。異様に重い目蓋を眉間に力を入れて抉じ開ける。


「――美加……?」

「っ乾くん!?」


 パッと此方を向いた白い光が、全く覚悟をしていなかった網膜に直に触れた。脳内まで白く染められて、咄嗟に目を腕で庇う。


「うっ」

「あ、あ、乾くん、良かった……生きてる」


 触れていた温かな手が身体の上をズルズルと滑り落ちていく。何となく離れ難くて、我知らずその手を追って掴んでいた。


 ――ああ、自分はちゃんと生きてる。


 手から伝わる美加の体温によって、恐怖で凍った心臓が溶けて行く。それで漸くアレは夢だったのだと実感出来た。


 視力が回復したのを感じ、掴んだ手の先を覗く。

 美加は左手を自分に掴まれ、光を放つスマートフォンを握る右手の甲で目元を擦りながら自分が寝そべる台の脇でへたり込んでいた。


「よ、よかった。……う、んっよかった、けんくん……ふっ」

 

 切実さが滲む声音で啜り泣く彼女を見て、どれだけの心労を掛けてしまったのかと罪悪感が湧き上がる。

 彼女をきちんと安心させるべく、声を掛ける為に身を起こした。


「美、――っ?」


 ピリッと腹に痛みが走り、視線を下に向ける。見えた光景に、息を飲んだ。

 首元まで縦に避けたTシャツ、薄闇の中に剥き出しの腹部。そして、鳩尾から臍まで(・・・・・・・)真っ直ぐに走った線(・・・・・・・・・)。その線を指先でなぞるとぬるりと滑った。

 背筋がゾッと冷える。心臓を冷たい手で撫でられたようだ。

 切れているのは皮膚の表面だけだったが、紛れもなく鋭利な刃物で付けられた傷だった。

 アレはただの夢ではなかったのだ。


 自身の血が付いた、微かに震える指先を拳に握り込む。恐怖は完全に振り返していた。

 

 ――此処に居たら不味い。


 そう直感して、美加の手をぎゅっと握った。素早く台から降りると頭が痛んで一瞬フラついたが、意識してしっかり立てば問題は無い。


「美加。逃げよう、今すぐ」

「……え?」


 繋いだ手を引き上げて無理矢理彼女を立たせる。

 そしてもう片方の手で彼女のスマートフォンを引ったくった。


「あっ!?」

「走れ!」


 恐怖に支配された自分には、戸惑う美加を気遣う余裕は何処にも無い。

 彼女を引き摺るようにして部屋から走り出て、一度振り返る。閉まっていく扉の上には、「手術中」のランプが赤く点灯していた。

 一樹の声が甦る。


 ――院内ではぐれたツレを探しまわってたら手術室の手術中ってランプが点いてた。そして中からツレの尋常じゃない悲鳴が聞こえて――


 自分は、噂の通りになる所だったのだ。そう思い至って恐怖が加速した。


 美加から奪ったスマートフォンで廊下を照らしながら走る、走る。

 手術室から正面玄関までの経路は最初に確認していたので頭に入っている。幸い、いつの間にか防火戸は元の位置に戻っているようで道を遮られる事は無かった。


 これまでの苦労を嘲笑うかのように容易く総合受付のカウンター前まで辿り着いた。此処まで来ても安堵は出来ない。まだ逃げ切れていない。

 侵入するのに使った職員用の通用口から病院の外へと飛び出す。自分達を、全身に注がれる満月の視線が出迎えた。


「ま、待ってっ……」


 息も絶え絶えに美加が声を上げた。だがそれを無視してひた走る。

 分かっている。彼女の言いたい事は分かっているのだ。


 ――ごめん、ごめん真凛。自分は翔英の言葉を信じる。だからごめん。


 城戸内病院の敷地の境目を示すフロアゲートの隙間を擦り抜ける。街灯に照らされて漸く少しだけ安心感を得られたが、走る速度は落とさない。

 行きは五人で歩いて十五分かかった道程を二人で走る。駅までの大通りから一本逸れたその通りには、真夜中だからか誰一人居なかった。




 マンションの自室前まで漕ぎ着けた時にはもう限界を越えていて、肺と脇腹は痛み、足はガクガクと震えていた。

 もたつきながらも扉の鍵を開け、中に雪崩れ込んで直ぐに鍵を閉める。疲労で立っていられず二人してワンルームの玄関に倒れ込んだ。


 こんな長距離を、それも誰かを引っ張りながら全力疾走し続けたのは初めてだった。運動をしない自分にそれを可能にしたのは火事場の馬鹿力か何かか。

 酸素が足りなくて兎に角苦しい。全身が心臓になったかのようにドクドクと煩い。


 ――ああ、でもこれは生きてる音だ。自分は――僕と美加は助かったんだ。


 電気を点ける間も無く倒れ込んだ玄関は薄暗い。

 だが倒れ込んだ時に投げ出したスマートフォンの光と、出掛けに消し忘れたらしきトイレから漏れる明かりで周囲は十分見えている。あの真っ暗闇の院内と比べて断然ましだった。

 徐々に息が整ってきたので身を起こして肩を壁に預ける。隣で美加も身体を起こしたのを視界の端で確認して、未だに繋いだままの手にきゅっと力を込める。


「美加。美加は自分の事を足手纏いって言ったけど、違う」


 これまでは口下手だからと言い訳していたが、上手く言えなくても良い、これだけは彼女に伝えなければ。

 ゆっくりと手探りで言葉を紡いでいく。


「僕は、美加が居なかったら、きっと冷静でいられなかった」


 自分の気持ちをこんな風に言葉にするのは初めてだ。照れ臭くて彼女の方を見られない。


「僕が守らなきゃと思ったから、行動出来た。美加が一緒じゃなかったら、僕はあの吹き抜けで死んでる」


 翔英の底無しの闇にも思えた眼窩を覗いてしまった時点で僕はまともに動けなくなっていた。逃げ出せたのは、美加が悲鳴を上げたからだ。

 一樹の時も、彼を殴り倒す決意が出来たのは美加を救う為だと思えばこそだった。僕一人では捕まってそこで終わりだっただろう。


「手術室でも。美加が見付けて、起こしてくれたから助かった」


 彼女が揺り起こしてくれなければ、あの夢を最期に僕が目覚める事は無かっただろう。


「ありがとう、美加。僕が生きてるのは、美加のお陰」


 一呼吸置く。


「それで、その。これからも、僕は美加と一緒に居たい」


 これできちんと伝わっただろうか。まだ言葉足らずなのかもしれないが、僕にはこれ以上何と言えば良いのか分からない。

 彼女の表情も窺えないまま、緊張しながら返事を待った。


「乾くんごめんなさい……」


 期待を裏切る美加の返事に思わず彼女の顔を見る。彼女は申し訳なさを全面に出した表情をしていた。


「あの、私、病院に忘れ物したみたい……」


 予想外の言葉に一瞬虚を突かれた。

 しかし、理解した瞬間急速に嫌な予感が喉元に迫り上がってくる。

 握り締めた彼女の手はひんやりと冷たい。


「忘れ、物……?」

「うん。これなんだけど」


 僕と繋いでいない右手がゆっくりとブラウスの裾を(まく)ろうと動く。

 彼女の紺色のスカートが、広範囲に黒く変色している。


 ――嘘だ、見たくない、知りたくない!


 願い虚しく、僕の目の前に彼女の肌が晒される。見てしまった事実に絶望のどん底に突き落とされた。

 彼女は下腹部に入った傷口に指を掛けて広げ、繋いだ僕の手をそこに導く。


「ねえ乾くん。私の子宮(・・)、一緒に探してくれるでしょう?」


 為されるが儘に手を突き込まされた柔らかくて生暖かい奈落からは、グチュリと音が響いた。









ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。これにて完結です。

今回、元凶はチラリズムにとどめて大部分を仲間内だけでわーぎゃーさせる方針で書いてみたのですが、如何でしたでしょうか?

作者はホラーが怖くない質なんでちゃんと怖く書けてるのかめっちゃ不安だす……

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