逃亡
初投稿です。よろしくお願いします。
この人が欲しいのは私じゃない。勇者である娘なのだと。
そう気付いた時には何もかもが遅かった。
目の前にいたのは、母ではない何かだった。
母の顔をした魔物か、悪魔か。
見るのもおぞましい姿だった。
焦点の合わない瞳が蠢き、薄く開いた唇が時折小刻みに動く。
憎悪と怒りを混ぜたような魔力で満たされた部屋。
鋭い殺意が私の肌を容赦なく突き刺した。
私が幼い頃は違った。いつから変わったのか。
あの頃の、凛々しい、淑女として誇り高く持つお母様。
怖くとも冷静に叱責するお母様。
その方はどこにもいない。
母を変えてしまったのは、私だ。
伝説の勇者と同じ白銀の髪を持ちながらも。
お母様の期待に応えられなかったせいで。
簡単な魔法ですら、まともに使えないのだ。
魔法は怖い。呪文を唱える声が震える。
もう一度。そう何度も思って失敗してきた。
お母様の鋭い蛇みたいな瞳が私を縛り付けて逃がさない。
『…り、っあ』
詠唱するたびに身体が焼けるように熱くなる。
胸の奥から熱が込み上げてくる。これは魔力か。
誰かに煽られているみたいに、言うことを聞かない。
いつも。沸騰したお湯に蓋をして、冷めるのを待つみたいに。やり過ごす。
期待に応えられるように、迷惑にならないように、頑張るから。
どうか元のお母様に戻って。
「初歩の魔法よ?! どうして詠唱さえ出来ないの…!」
お母様の銀のネックレスが不気味に揺れた。それに共鳴するように熱も昂る。
火の粉が舞って、部屋の端を焦がした。
「貴女は子爵令嬢である前に、次の勇者である自覚を持ちなさい。
この世界を救えるのは貴女だけなの!」
違う。
私は勇者じゃない。そんな器じゃない。
他でもない私が一番分かっている。
「…っ」
頭皮にビリッと痛みが走る。
母の手には無造作に私の髪が握られている。
視界いっぱいに自分の銀色が揺らめく。
「銀髪は勇者の証よ、私の想いを女神様がお認めなさったの!」
母は私のことなど見ていなかった。
瞳に映っていたのは、銀髪で勇者な娘だけ。
私じゃない。
「私は…! 私は奪われたの、女ってだけで! 環境があるあんたと違って!」
母が怒っている。私が出来ないから怒っている。
部屋のあちこちが燃えて、焦げ臭かった。
「失敗作でもない! 女神様がくれたプレゼントなのよ!」
今度は口角を上げて私の肩を揺さぶる。その場から一歩も動けなかった。
怒って。笑って。分からない。どうしたらいいか分からない。
こんなことになるなんて。
どうして、私は生まれてしまったのか。
一筋の涙が頬をつたった。
理性の欠片もなく、怒り続ける母が酷く哀れだった。
「…お母様」
ボソボソとした声。喉が詰まって苦しい。必死に声をひねり出す。
嗚咽が混じる。泣かない。泣いてなんかいない。
「…私、…っ、勇者じゃ、ありません」
くぐもったはずの声が、頭に響くようにはっきりと。
感情を強く揺さぶられるような、この声。
私の声なのに、まるで違う。自分でさえ、引き込まれる声。
黙った。荒れ狂った魔力が一瞬止まった。
——バチン
視界が傾く。目の奥がチカチカして何も見えない。
床に叩き付けられた衝撃が全身に走る。息が出来ない。頬が焼けるように熱い。
怖い。殺される。このままでは死んでしまう。
煮詰まった熱い魔力が殺気と共に、私を突き刺してくる。
「エリーシアは完璧なの! じゃなきゃ、シリウスが私を愛すことなんて…!
こんなに耐えてきたのに…どうして、帰って来ないの!!」
ブツブツと不気味に呟いている。聞いている暇なんてない。
逃げなきゃ。何処かに。今すぐ。
さっきまで消えたいと思っていたのに、まだ私の本能は生きたいらしい。
死ねない。まだ、死にたくない。こんな私だけど、生きていたい。
震える足で立ち上がる。無様でも何でもいい。
もう既に、ずっと情けないんだから。
扉を目指して、全力疾走だ。
ドアノブに手をかける。
開けると、まばゆい光が空色の瞳に入り込む。
あまりの煌めきに眩暈がするほど。
それでも、足は止まらない。恐怖が前へと突き動かす。
行く宛もない。自分の屋敷なのに、ここが何処かさえも分からない。
でも、あの場に留まるよりはずっと良い。
目の前に広がる長い廊下。走って、走って。走って。逃げる。
背後で何かが爆ぜる音が響いた気がした。
でも、振り返る余裕なんてない。
体力も、精神も、ギリギリで前に走ることしか出来ない。
「…っ」
足がもつれて、転びかける。それでも、止まれない。
嫌だ。痛いのも怖いのも。もう耐えられない。
視界の端に曲がり角が見えた。
「曲がったら、少し、休もう」
気が緩んだのがいけなかった。
曲がった先に何かがあるなんて思いもしなかった。
硬い、大きい、誰か。ぶつかった衝撃で一歩、二歩とよろめく。
メイドの服でも、執事の服でもない、上質な衣服。
嫌味がなく落ち着いた上品な香水が、鼻孔を掠める。
「貴女は…」
低く、何処か戸惑うような声。正面の男が青の頭を掻いた。
青の髪、フォレスティー子爵家の証。
つまり、私の血縁者。
直系なら父、姉、兄の三人。
だけど、こんな筋肉の塊はきっと一人だけだ。服さえも食い破りそう。
「白銀の髪…空色の瞳…、貴女はエリーシア、か?」
彼も私と同じように姿を見たことがなかったのだろう。
訝しみながらも、不安そうな視線が送られる。
「…」
『父』は冷酷で残酷な人だと母は言っていた。
私の髪が家系の青髪でない為に、忌み嫌っていると。
だから、屋敷での味方は母だけだと。
不用意に自室から出ることさえ、憚れたというのに。
「傷だらけだ、痣もある。一体何があったんだ…?」
指摘されて痛みが戻ってくる。立っているのも辛いくらいだ。
それでも立ち続けて、確かめなくてはならない。今後の未来のためにも。
「…貴方はエリーシアのことを嫌っていますか?」
白銀だから。青じゃないから。それなのに、優秀じゃないから。
一瞬黙ったかと思うと、眉を下げてしゃがみ込む。視線の高さが初めて合った。
「私が帰ってこないばかりに、こんな勘違いをさせていたのか」
その声は、想像していた何倍も優しく、やわらかい。
「私は騎士団長として、王都に滞在することが多い。今も先程帰って来たばかりだ。だが、断じて娘を嫌っている訳ではないよ」
優しい声がボヤけて頭の中に入ってくる。
彼は私が知っている『父』ではなかった。
話が違う。信じていいのか。少し俯いてスカートの裾をギュッと掴む。
「私はシリウス、貴女の父だ。病がちだからと、たまに戻って来ても会わせて貰えなかった。本当に久しぶりだな」
感極まって、目に涙を浮かべる彼。本来なら、感動的な親子の再会なのかもしれない。
だが、病がちという話が引っかかった。
「…病がちって私が…? 誰から聞いたんですか?」
一瞬の静寂が生まれる。彼は固まった口をゆっくり開いた。
「…ティアナから、聞いたんだ」
ティアナ、お母様の名前だ。彼の目が一瞬、鋭くなった気がした。
「…私、ほとんど体調崩したことありません」
彼の笑みが遠き、一瞬で冷たいものに変わる。
ひやりと背筋に汗が伝った。
彼は、怖い人なのだろうか。
「その話、詳しく聞かせてくれないか? 手当でもしながら」
差し出された手に少し、躊躇する。
もう二度と、痛い目には合いたくない。
そっと、指先が触れ合う。
温かい感触が広がる。
「…!」
引き下がる手を父の武骨な手が掴んだ。
力強い腕が抱き上げた。
父親だからなのか、抱き上げられるのは悪くなかった。
緊張の糸が切れて睡魔が襲う。
私と父の間には、何かズレがある。まだ分からないけれど。
一つだけ分かるのは。
その中心にいるのが、お母様であること。
これからのエリーシアを見守って貰えたら幸いです。




