失踪
すっかり寒くなって、温かい布団から出るのが億劫になる十一月下旬。
「真香さま。今日も書店に?」
「いいえ。今日は統国大学の図書館にお邪魔しようかと」
「車で行きますか?」
「お願いします」
刺繍か読書で暇をつぶす真香に、壱成は大学の図書館の利用を提案していた。喜んで使っているのだが、屋敷から少し遠いのが難点で、あまり足を運べていない。
服を着込み暖かい格好をして、彼女は琴吹とともに出かけた。
壱成も通っていた統国大学の生徒は男性の比率が高い。皆、国の紋章が入った制服を着こなし、勉学に励んでいる。
千影はそんな中、許可書を見せて校内に入り、図書館で本を読む。
塚田の密偵も、将来有望な卵たちのせいで迂闊に近寄れないので、遠慮なく勉強できるのだ。
熱心に目を通しているのは、専門的な医学書。
塚田にいた時は、学べる内容に制限があった。
それは千影が医学を学んでしまえば、自分で人質を救うことができ、価値がなくなってしまうから。
そんな状況下で塚田の目を盗んで勉強してきた彼女はある程度の知識を習得できていたが、統国大にある専門書には明快で詳しい説明があり、これを学ばない手はなかった。
それと。塚田の血がもつ治癒能力は、外傷には効果が見られるが、病気への作用がいまいちわかっていない。
将来、照子の病を完治させることを目標として、自分の血の研究の資料も漁っていた。
人目を憚らず大量の資料を積み上げて机に向かっている彼女からは執念のようなものが漂い、誰も声をかけることをしない。
照子のように全てを暗記できるわけではないので、それなりの勉強が必要なのだ。
冬になると日が落ちるのが早いため、昼食の時間すら惜しい。
そんな感じで図書館に現れる千影は、学生は「図書館の貴婦人」と呼ばれていたりする。
「あ、今日は来てるんだな。彼女」
「相変わらず、すごい速さで読んでるよな」
「あれ、ちゃんと内容わかってるのか?」
「さぁ? でも、この間彼女に話しかけた医学部のやつは、プライドを木っ端微塵にされたらしいぞ?」
「え。怖。いったい何者なんだ、彼女?」
「知らねーよ。こっちが聞きたい」
コソコソ話している彼らの声は、静寂を金とする図書館では耳障り。
千影はそちらを見ると、口元に人差し指を置いた。
学生たちはその仕草に目を奪われるも、直後には真剣に勉強し始めた彼女に大人しく自分たちもやるべきことに戻るのだった。
「フゥ」
千影は一息つくと、琴吹との約束の時間が迫っていることに気がつく。
慌てて勉強道具をしまい、外に出た。
琴吹が門の前で車を止めて待っている。
「遅れてすみません」
「いえ。外は寒いので、どうぞ中へ」
車に乗り込むと、琴吹と会話をしながら屋敷に帰る。
「そういえば真香さま。この道を進んだところに、昨日開いたばかりのドーナツ屋さんがありますよ。ちょうどいい時間ですし、寄ってみましょうか?」
「是非、お願いします」
頭を使って甘いものが食べたくなっていたので、嬉しい誘いだ。強く頷くと、ミラー越しに琴吹が笑っていた。
「あら。駐車場は店から離れているみたいですね」
「私は先に降りて並んでいますよ。琴吹さんは車を停めて来てください」
「よろしいのですか? では、お店の前で一度車をとめますね」
千影は先に車を降りる。
あまーい匂いが鼻をかすめて、彼女の気分が上がった。
琴吹の運転する車はすぐに発進し、信号を右に曲がっていく。
「真香ちゃん!!」
「え?」
突然名前を呼ばれて、千影は列の最後尾からそちらを見る。そこにいたのは、高級車の窓から顔を出した見覚えのある女性。
「佳苗さん?」
「やっと見つけた!」
「え?」
「お願い、来て!!」
盛岡洋子に誘われたお茶会で知り合った北条佳苗は車を降りると、鬼気迫った表情で千影の元まで来ると、手をガシリと掴んだ。そしてそのまま、車に引きずり込む。
「ど、どうされたのですか?」
「話を聞いて欲しいの!」
それくらいならすぐに終わるか、と油断していた千影。
バタン! と勢いよくドアが閉じれば、運転手がアクセルを踏んだ。
「え?」
千影はこうして、ドーナツ屋から姿を消した。
*
「徳永大尉。琴吹さんからお電話です」
壱成が受話器を取ると、琴吹の慌てた声が聞こえる。
『い、壱成さま。すみません。わたしが目を離したばかりに、真香さまが消えてしまいましたっ』
彼は息を止めた。
「落ち着け。いつ、どこで、目撃者は?」
『三時ごろ、連雀通りのドーナツ屋に寄ろうとしたところ、先に車を降りて並んでいたはずの真香さまがいなくなっていたんです。知り合いらしき女性に呼ばれて車に連れ込まれたとの目撃証言が』
「女?」
『く、詳しいことはわかりませんが、もうすぐ夜になってしまいます。もし知り合いの方で真香さまに危害を加えるつもりがなくても、あ、悪霊がっ』
琴吹の泣きそうな声が、壱成の不安を増長させる。
琴吹の言う通り、彼女が悪霊に喰われたら。
その知り合いの女が操られていて、計画的な犯行だったとしたら。
攫われた先で、危ない目に遭わされでもしたら。
頭の中では嫌な想像しかできない。
「今、どこにいる?」
『真香さまがいなくなったドーナツ屋で電話を借りています』
「わかった。すぐ行く」
受話器をガチャン!と置くと、壱成はデスクに戻って上着を羽織る。
「大尉、どうされました?」
「後は任せた」
「え?」
碌に説明もせず、彼は扉ではなく窓を開けると飛び降りる。
「え、ええ?! 大尉?! 何事ですかーー?!」
榎本の叫びは虚しく、壱成は既に走り出していた。
人目につかない道を選んで疾走し、連雀通りにつけば簡単にそのドーナツ屋は見つかる。
店の前でウロウロしている琴吹に、壱成は走り寄った。
「琴吹」
「い、壱成さま!」
申し訳ございません、と琴吹は何度も謝る。
「そう時間は経っていない。探すぞ」
どこを探せばいいのかもわかっていないのに、壱成は再び走り出す。
後から考えてみると、この時は冷静さを欠いていた。探知ができる能力者も一緒に連れてくればよかったのだと反省する間もなく、彼の前に白い面をつけた男が現れる。
「北条家」
男はそれだけ言うと、姿を消す。
真香についていた護衛だろう。
それが彼女に危険を及ぼす状況か否か、壱成には判断しかねた。とにかく北条家に向かう。
広大な敷地に、頑丈な建物。
北条家はテレパシーが使えるので、心の声が聞こえないように防音がされていることは、知る人ぞ知るつくりである。
「徳永です。ここに塚田真香はいませんか」
門番は事情を理解しているのか、厳つい扉を開けた。
「こちらです」
落ち着いた様子の使用人に、壱成は今がどういう状況なのか理解に苦しんだが、警戒は解かずに案内される。
廊下を進むと、ある一室から興奮した女性の声が聞こえた。
「どうしてよ!!!」
それはこの屋敷の女主人の叫び声。
壱成は足を早め、開いたままの扉の中へ入った。
「治癒能力って、言ったじゃない!! 樹さんを治して! お願いよ!!」
大きなベッドに、静かに横たわる北条樹。
その前で妻の佳苗が塚田真香にしがみついていた。
壱成はそれで全てを理解する。
——北条樹は、もう長くない。
能力者の寿命を迎えたのだ。
こうなると次第に身体の自由が利かなくなり、最期、心臓が止まる。
「……ごめんなさい」
真香が小さく呟いた言葉は、それが治せないということを示していた。
佳苗は絶望した顔で、泣き崩れる。
「うぅ、どうしてっ。どうして、樹さんがこんなに早く死ななきゃいけないのよっ。まだやりたい事も、行きたいところもいっぱいあるのにっ!」
そしてふと、佳苗は壱成の姿を見つけた。
「真香ちゃんにはわからないのよ。徳永くんも祓い人だから、大好きな人に先に逝かれる辛さなんて! ……考えたことがある? 今まで元気にしていた人が突然目の前で倒れて、どこも悪くないのに、余命を聞かされるのよ?! わたしはまだ後何十年も生きるっていうのに! 一体どうやって、この後を生きていけばいいの?!」
悲痛な叫びに、誰も動くことはできない。
「治してよ、治してよ! うぅっ」
佳苗は悲しみに飲まれてどんどん、真香の胸を叩く。
「やめなさい。佳苗」
それを止めたのは夫の樹だった。
だるそうに体を起こし、妻を見据える。
「樹さん!」
佳苗はハッとして彼に駆け寄った。
「彼女に謝りなさい。君も彼女のことを、何もわかってはいないだろう」
樹の言葉は、まるで何もかもわかっているような、慈悲と慈愛に満ちた調べを持っていた。
人の心を聴くことができる能力をもった彼の、寛大な器を感じずにはいられない。
北条樹はそんな人だった。
「真香、さん、でいいのかな? ごめんね。ぼくの妻が酷いことを言った。彼女も決して悪気があって言った訳じゃないんだ。強いて言うならぼくのせいだ。許してくれるかい?」
「許すも、何も……」
千影の顔には、はっきりと困惑の文字が浮かんでいた。
壱成も落ち着いたところで、やっと部屋の奥に入ってくる。
「壱成くんも済まないね。佳苗、何も言わずに真香さんを攫ってきたのかい? 君って人は……」
「ご、ごめんなさい」
「謝るのは、ぼくじゃないでしょう?」
すっかり宥められた佳苗は、シュンとして千影に向き直る。
「ごめんなさい。真香ちゃん。……わたし、ひどいことを、しました」
謝りながら、自分のしたことを自覚して、またじわじわ涙を溜めていく。
「いいんです。私こそ、力になれなくて、ごめんなさい」
そう言う千影の拳には、ギリギリ爪が食い込んでいた。
「本当はおもてなしをしたいところだけれど、今はこんな感じでね……。今日のところは、ここまでにしてもらってもいいかな?」
樹の悲しそうな笑みに壱成と千影は頷いて、豪邸を後にする。
歩いている間、千影は黙り込んでしまい、壱成は声をかけるか悩んだが、しばらくそっとしておくことにした。
門を出ると、風間が車で迎えに来てくれており、ふたりはそれに乗る。
壱成は窓の外を眺めていたが、そっと横目で隣に座る千影を見て、ギョッとする。
彼女は膝の上で拳をつくり、口もぎゅっと結んで、声も出さずに涙を零していた。
初めて泣いているその姿をみて、壱成は胸が締め付けられる思いを味わう。
思わず、千影を抱き寄せた。
彼女は壱成の胸で、ぼろぼろ涙を流す。
「…………照子さんが、死んじゃったら、どうしようぅ」
彼女だって、ずっと不安だった。
照子が死んでしまったら、どうやって生きていけばいいのか、想像もつかない。
それでも寿命を考えると、どうしても照子が先に死んでしまう。
見て見ぬ振りをしてきた現実に、直面させられた出来事だった。
(また、「てるこさん」か……)
壱成は彼女の中で、母親に匹敵するほどの存在だという女性に思いを馳せる。
ふたりの関係はよく知らなかったが、真香がこんなに取り乱した様子になるのは、相当大切な人なのだろう。
子供のように肩を震わせて泣く千影を、壱成は何も言えずに抱きしめることしかできなかった。
「す、すみません」
泣き止んだ千影は、慌てて壱成の胸から顔をあげる。泣いたら気分がスッキリしたが、こんな事をしてしまった自分がよくわからなくなっていた。
「気にするな。でもそうだな。琴吹が心配してるから、何があったか説明はして欲しい」
「そ、そうでした。琴吹さんには大変心配をおかけしたはずです。話だけだと思って、佳苗さんの車に乗ってしまったのです。あ、あれ? 壱成さまはお仕事では……。もしかして、私のせいで?」
「……それも気にするな。とりあえず、無事でよかった」
千影は深く頭を下げる。
「ご迷惑をおかけしました。次からはもっと気をつけます」
「——ああ」
屋敷に着くと、案の定泣きそうな顔をした琴吹に、千影は抱きつかれた。
かなり心配をさせてしまったらしい。
千影は戸惑いつつも、これだけ心配してくれる存在がいることに、心が温かくなるのだった。




