再開
千影が目を覚ましたのは、倒れてから四時間後のことだった。
「真香さま! お目覚めになられましたか。ご気分は?」
琴吹に顔を覗き込まれ、彼女は目を見開く。
そこがどこなのか一瞬わからなかったが、徳永の屋敷にあるベッドの上なのだと理解するのにそう時間はかからなかった。
(そうか。倒れたのか)
人さまの前で倒れてしまうとは不覚。
塚田の能力は、その身に流れる血液にこそあると千影は知っている。
今回、不甲斐なくも自分が倒れてしまったのは、能力の源である血液自体が欠乏してしまったからだ。
こればかりは、自分に非があるとは思えない。
これで壱成との関係が壊れるとは思えないが、あとで丁寧に謝罪を入れなくては……。
彼女からすると人に助けられること自体が慣れないことで、「守ってもらう」自分を想像すると、なんだかおかしな気分になる。
「だいぶん、すっきりしました。戻って来て早々にご迷惑をおかけして、申し訳ないです」
千影は妙な気分になったのを振り払うために、馬鹿のひとつ覚えに真香を演じることに戻った。
「いえ。疲れが溜まっていたのでしょう……。ご無理はされないように。こちら、お薬です」
「ありがとうございます」
琴吹は千影が薬を飲んだことを見届けると、退出する。壱成に連絡するためだ。
(真香さまが倒れるなんて、思ってもみなかった。とても健康的な方なのに……。まさか、このお屋敷に来ることがストレスになってしまったのでは)
廊下を歩きながら彼女は考える。
これまでも、婚約者が決まると琴吹がこの屋敷で彼女たちの身の回りのことを世話していた。
その3人の婚約者と比べて真香は壱成との日々の接触は少ないほうだが、能力者ということもあって壱成のほうは負担を感じていないようだった。
一緒に劇を観に行くと聞いた時は、我が耳を疑ったが、ようやく婚約に前向きになってくれたのかと嬉しかった。
そういうわけで、今回の婚約はうまくいくのではないかと琴吹は思っていたのだが、今回の件で実はそうではないのかもしれないという疑問が浮かんだ。
真香には想い人がいるかもしれない。
少し前にハネムーンの行き先で盛り上がったことを思い出した琴吹は、顔を青くした。
自分は壱成に雇われた使用人であるから、彼を中心に物事を考えてしまうのは自然なことではある。でも、結婚という大きな行事には、彼の感情だけではなく、真香の気持ちも大切になることを失念していた。
(わたしは、なんという見落としを……)
これは壱成の将来がかかった一大事だ。
彼の父親である勝之助にも「壱成の子どもを見てから死にたい」と言われているし、琴吹だって同じ気持ちだった。
能力者は寿命が短い。
気がついたときには、もう全てが遅い、なんてことはザラにある。
壱成にはそんな思いをさせたくないし、真香にも大切な時間を無駄に過ごして欲しくない。
琴吹は受話器を手に取り、ハンドルを回した。
「徳永大尉! お屋敷の方からご連絡です」
奇怪な資料と睨み合っていた壱成は顔をあげる。すぐに立ち上がり、受話器を受け取った。
「代わった。俺だ」
『琴吹です。真香さまが先ほど目を覚まされました。今は薬を飲まれて、安静にされていらっしゃいます』
「そうか。わかった。無理はさせないようにしてくれ」
『かしこまりました』
受話器を置いた壱成に視線が集まる。
“無理はさせないように” という言葉に、部下たちが反応したのだ。
榎本も、何があったのか気にならないわけがないが、先ほど怒られてしまっているので、声をかけるのに躊躇する。
珍しく壱成の機嫌が悪いことに加え、屋敷からの連絡について、皆気になっているのに、誰も訊くことができなかった。
「榎本」
「ハイッ」
呼ばれた榎本は、びくりと身体を震わせて姿勢を正す。
「今日の巡回、俺と渡辺抜きでやる。とりあえずは一ヶ月、試しにふたり減らして夜警にあたらせる」
「わかりました」
遠くの席に座っていた渡辺が、驚いた表情をして立ち上がるのが目に入ったが、壱成は気にしなかった。
渡辺の隣にいたひとりが、よかったな、と、背中を叩いている。
壱成は先ほど、偶然にも彼の彼女の誕生日が今日だと耳にしてしまったのである。
まさか徳永壱成がそんな計らいをできると思っていなかった部下たちは、また榎本が何か言ったのだと理解した。
壱成は机に戻ると、また黙々と仕事をこなす。
電話に出る前より少し緊張した空気が緩んだ気がした。
もしかすると今回こそは、婚約がうまく行くのではないのかと、部下たちの間に淡い期待が走る。
(塚田真香と大尉が結婚なんて夢話かと思っていたけれど、脈はありそう? でも、あの大尉だぞ? 日比野でも、何か怪しい反応をしていたし、まだわからないな……)
婚約者の真香に何かあったことを確信している榎本だが、それを気遣うことは壱成にとって不思議なことでもないと思う。
他の仲間たちは、壱成が結婚すれば少しは丸くなるかも……なんて事を考えているのに榎本もその気持ちは痛いほどよくわかるのだが、仕事人間の彼がそう簡単に変わるとは思えない。
ひとしきり考えたあと、榎本も仕事に移る。
自分で提案したことなので、報告書の用意をしておかなくてはならないのだ。
横目にみた壱成は、いつもと変わらない仕事熱心で真面目な大尉だった。
*
目を覚ました千影はもう一度寝ようとしたが、目をつぶっても一向に睡魔はやってこない。睡眠をとって回復することが一番なのだが、寝ようとすればするほど目が冴えてしまい、ふかふかのベッドのうえで、暇をもて余していた。
(照子さんに会いたい)
今日の朝別れたばかりだったが、こんなことをしている暇があれば、照子とゆっくりお茶でもしたい。
こうなると真香のふりをして徳永の屋敷にいるより、正太郎の目はあるものの照子と一緒にいられることのほうが良いと思えてくる。
しかし、それは甘い考えだということも彼女は分かっていた。
芙美子の前では、真香ではなく影が死んだことになっている塚田家では、彼女は真香としていることが求められる。
影の扱いについては、正太郎が手放す気がないので、芙美子の知らないところで相変わらず使われる。
離れに住んでいる者について触れるのは、屋敷のタブーだ。だから影がそこに住んでいることを知っているのは、正太郎と口止めされている使用人だけ。もし、離れに照子と千影が住んでいることが屋敷の周知だとすれば、芙美子の前だけで影を死んだことにするのは難しかっただろうに。
加えて残念なことに、今回の帰省で真香が死んだという事実は、使用人ですら数人しか知らないトップシークレットになっていた。
そんな訳で、塚田の屋敷に帰るとなると、千影は真香と影のふたつを使い分けなくてはならないので負担は大きい。
真香が死んでしまったことで、ここまで苦労が増えるとは思ってもみなかった。
彼女が生きていれば、照子とそれまでのように接することができるのに————
千影はそこでハッとした。
(私は今、何を考えていた?)
呆然として、彼女は起き上がる。
(“それまでみたい” に? 照子さんは今も昔も軟禁状態なのに? 彼女に会えるからって、真香さまが死ぬ前の生活を望んだのか?)
いつのまにか、自分が本当にやらなくてはならない事が変わっていることに気がついた。
長年、正太郎の手の上で転がされ続け、自分は正太郎が照子に対して許されざる生活を強いていることについての怒りが薄れているのではないか?
落ち着いたかと思われた千影の顔色は、悪くなる一方。
(忘れるな。私は照子さんを塚田から解放しなくてはならない。これは、彼女にできる唯一の恩返しなんだから)
千影はタオルケットを握りしめた。
眠れないなら、食事をして体力を回復させるべき。
彼女はベッドからおりて、厨房の方へ向かった。
「風間さん」
「ま、真香さま。いかがされましたか?」
途中で風間を見つけて声をかける。
彼は慌てた様子で目の前までやってきた。
「お腹が空いてしまって……」
「気が利かず、すみません。すぐに用意をします。真香さまはお部屋でお休みください」
風間は心配そうにして、部屋まで送ってくれる。
「何か食べたいものはありますか?」
「そうですね。食欲が湧いてきたので、ご飯をしっかり食べたいです」
「わかりました。胃に優しいよう、野菜をたくさんいれたお粥にしましょう」
「ありがとうございます」
料理人がいたはずだが、きっと今は仕事を終えて休憩に入ったところなのだろう。この口ぶりからして、どうやら風間が作ってくれるらしい。
さすが、青川家に仕えていた執事なだけある。
青川は徳永と親戚関係で、悪霊祓いの一族である。風間はその青川家のお嬢様と結婚している。(お嬢様と執事の恋路に興味があったが、詳しいところまでは調べていない)
奥さまは能力者としての寿命より少し若くして亡くなり、子どもはいなかった。
祓い人と常人が結婚すると、大抵の場合祓い人が先に逝く。残される常人のため、先立つ祓い人は親戚や信頼の置けるものに、後のことを頼む場合がある。
風間の場合もそうで、青川の血を継ぐ妻が壱成に風間のことを頼んだのだ。
自分の死後、どうか彼をひとりにしないでやって欲しい、と。
壱成は彼女の言葉を守り、風間は今こうして彼に仕えている。
「真香さま。また何かお困りのことがありましたら、次はベルを鳴らしてください。すぐに伺いますので」
「わかりました。お手を煩わせてしまいましたね」
「いいえ。そんなことはありませんよ」
部屋につくと風間はドアの前でそう言った。
男性の彼が、千影の部屋に入り彼女とふたりになることを避けていることがわかる。
こういった扱いをされることにも慣れてきたが、少し寂しい気がした。この屋敷の中で、彼女が一番信頼しているのが風間だったりする。
「それでは」
風間は千影が部屋の中に入るのを見送ると、来た道を戻った。
あとから温かいお茶をもった琴吹が部屋を訪れ、そばにいてくれる。
お茶を飲みながら、千影はまた名状しがたい感情が湧いてきて、どうしていいかわからない。
こうして誰かに大事にされることは、彼女にとって歯がゆく、また気分が良いことではなかった。
こういう時、自分は何をすればいいのかわからないのだ。
自分のことは自分でできる。
世話を焼くのは構わないが、その逆は受け入れがたい。
留まる場所を失った浮つく心で、千影は真香として振る舞う。
風間が作ってくれたお粥は偶然にも照子が昔作ってくれたものと同じ味がして、素が出そうになったのは、きっと血が足りないせいだ。




