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「ピチカに言わなくてはならない事がある。お前にベタベタ触るという、その配慮の足りない最低なシリンなのだが…………実は私なのだ」
ヴィンセントは叱られる前の犬のように眉を垂れて言う。
ピチカは意味がわからなかったようで、「え?」と聞き返してきた。
「私はピチカの事が心配だったのだ。森にはどんな危険があるか分からないからな。それに幼なじみだった男が兵士になっていて偶然再会したと言うから、そちらも不安だった」
ヴィンセントが言うと、ピチカは意外そうに目を見開いた。ヴィンセントでも嫉妬したり不安になったりするのかと驚いているらしい。
「それで、シリンに姿を変えてピチカの護衛をする事にしたのだ」
「魔術を使って姿を変えていたという事ですか? シリンさんは……実際にいらっしゃる方なんですよね? 高等魔術なので私は習得しようとした事もありませんが、確か変身術は変身する対象の髪や血が必要なはずですし、実在する人物でないと……」
「ああ、実在する私の部下だ」
「どうしてわざわざ別人になりすましてまで……。ヴィンセント様のままで来てくださったら……あ、でもそれだと私は、お忙しいヴィンセント様に護衛なんてさせるのは悪いと思って断っていたかもしれません」
ピチカの言葉にヴィンセントは頷いてから続けた。
「そう、遠慮されると思ったからな。それに仕事場にまでついて行って鬱陶しがられたくなかった」
「そんな! ヴィンセント様を私が鬱陶しがる事なんてありません!」
ピチカはそう言い切ってから、ハッと目を丸くした。
「え、でもそれじゃあ……あのシリンさんがヴィンセント様という事は、私はシリンさんと手を繋いだり、シリンさんに抱きしめられたりしたわけじゃなく、ヴィンセント様と手を繋ぎ、ヴィンセント様に抱きしめられたという事ですか?」
「そうだ。本当に済まない。別人になるとつい気が緩んでしまって、馴れ馴れしく触れてしまった。だが悪気はなかったんだ。ピチカが泣くほど嫌がっているとは考えていなかった」
ヴィンセントは反省し、暗い声で言った。
「済まない……」
しかしピチカはホッとしたように笑って返事をする。
「いいんです。シリンさんの正体がヴィンセント様だと分かって安心しました。私が初めて手を繋いだ相手も、抱きしめられた相手も、実はヴィンセント様だったんですね!」
「それは嫌じゃないのか? 私に触れられるのは……」
「もちろんです! ヴィンセント様がシリンさんだったのなら、今日私が言った言葉も聞いておられたでしょう? 私はヴィンセント様の事がとても好きなんです。だから……触れられるのは全然嫌じゃありません」
ピチカは恥ずかしそうに言うと、頬を赤く染めた。なんて可愛い反応なのだろう。可愛すぎて死にそうだ。
ヴィンセントは一見するといつも通りの無表情だったが、内心ではピチカの可愛さによって絶命しかけていた。
何とか声を絞り出して言う。
「ピチカは……そういう事に慣れていないようだったから、私が触れるのも嫌かと思っていた。結婚してピチカがこの屋敷にやってきた日の夜、緊張して失神しそうになっていただろう?」
「わ、忘れてください、その事は……」
ピチカは慌てて言うが、ヴィンセントはその夜の事はよく覚えていた。
夫婦になったからには子作りをしなければならない、という義務的な認識でヴィンセントはピチカを寝室に招き入れたが、一方で、その時すでにピチカに惹かれ始めていたヴィンセントは、ちゃんと愛を込めてピチカと一緒の夜を過ごすつもりだった。
いつもより入浴時間を長く取ったし、歯も念入りに磨いたし、使用人に頼んで部屋に香を焚いてもらったり、花を飾ってもらってみたりもした。ヴィンセントにしてはかなり気を遣って準備を整え、二人で初めての夜を迎えられる事を何気に楽しみにしていたのだ。
けれどピチカがとても緊張して人形のように固まって動けなくなってしまったので、別々の寝室で寝る事にした。無理に事を進めて嫌われたくなかったから。
そしてピチカのその緊張ぶりはヴィンセントの記憶に深く刻みつけられ、彼女とは一夜を共にするどころか、手を繋げるまでにもかなり長い時間が必要かもしれないと覚悟する事になったのだ。
ピチカは恥ずかしがってうつむきながら、弁解するように言う。
「確かに私はそういう事に不慣れで、すぐに緊張してしまいます。でも、好きな人に触れられるのが嫌なわけありません。それに少しずつ触れ合わなければ、いつまで経っても緊張してしまうと思うのです。だから……」
ピチカはそこでちらりとヴィンセントを見上げると、顔を真っ赤にして、ぎこちなくヴィンセントに体を預けた。
「こうやって、たまに……くっついたり、したい……です」
その時。
パァァと頭上に光が降り注いできた気がして、ヴィンセントは自分は天に召されるのかと思った。
(危ない)
ピチカが殺人的に可愛いので本当に殺されそうになった。
魂が体から抜け出ないようにヴィンセントは正気を保つ。
そして自分の胸に頬を寄せ、控えめにくっついているピチカをそっと抱きしめると、ヴィンセントはちらっと後ろを見た。いつの間にか優秀な従者はいなくなっていて、部屋の扉も閉めてくれている。本当に優秀だ。
さらに次にはピチカのベッドを見る。ここから五歩ほど歩けば着く距離だが、ピチカをどうやってそこまで連れて行くべきかと考えた。
お姫様抱っこして連れて行こうか、キスしながら連れて行こうかで迷う。ピチカはどちらの方が好きだろうか。
……やっぱりお姫様抱っこしながらキスもしつつ連れて行こう。
と、ヴィンセントがそう決めて、それを実行しようとした時だった。
ピチカが明るい笑顔を見せながら、ヴィンセントから離れた。
「ありがとうございます、ヴィンセント様。私、とっても幸せです。これからもこうやって、抱擁したり手を繋いだりという事を、少しずつやっていってもいいですか?」
ピチカの純粋な笑顔を見て、ヴィンセントは冷や汗をかいた。
そして再び心の中でこう呟く。
(危ない)
ピチカは最初から『少しずつ』と言っていたのに、一人で先走るところだった。ベッドに連れ込もうとしていた事を悟られなくてよかったと内心焦りつつ、表にはそれを一切出さずに余裕のある表情で言う。
「もちろんだ。少しずつ進んでいこう」
「ありがとうございます、ヴィンセント様! 今日はお仕事でお疲れのところをごめんなさい。もうお部屋に戻ってお休みになってください」
「ああ、話せてよかった」
「おやすみなさーい!」と明るく言うピチカに背を向け、ヴィンセントはとぼとぼと自室に戻ったのだった。




