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公爵夫婦は両想い  作者: 三国司


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13/24

13

 その日、ヴィンセントは仕事が忙しかった。ピチカと休みを合わせるため、昨日は急に仕事を休んでしまったので、その皺寄せが来たのだ。

 自分の屋敷に帰ったのは日付が変わる頃で、ピチカはもう寝ている時間だ。休む前にピチカの顔をひと目見たかったと少しがっかりするが、昼間はシリンとしてピチカと一緒にいたからいいかと考え直す。

 

 シリンに変化している時は、ピチカに変な事をしたり言ったりしてしまってもシリンが嫌われるだけでヴィンセントに影響はない。

 だからシリンでいる時は、ヴィンセントでいる時よりピチカとの距離を詰めてしまったり、必要ない時でも触れてしまったりする。『ヴィンセントが嫌われる』心配がないから、つい普段よりも大胆な行動を取ってしまうのだ。ピチカに触れていたいという思いがそのまま表に出てしまう。

 自分でもいけないと思うし、今日はピチカにも注意をされたので自重しなければと考えたものの、ピチカが「ヴィンセント様以外の男性に触れられたくない」などという、びっくりするほど可愛い発言をするので、結局あまり自重できなかった。

 

「おかえりなさいませ、ヴィンセント様」


 従者と一緒に屋敷に入ると、長くこの家に仕えてくれている白髪の執事が出迎えてくれた。


「アーノルド、帰りが遅い時は先に休んでいていいんだぞ。お前はもう歳なのだから」

「ヴィンセント様、年を取ると長く眠れなくなるのですよ。これくらいの時間に眠って朝は早起きするくらいで、私はちょうどいいのです」

「それならいいが」


 歳をとっても厳しく元気なアーノルドに、少し笑みをこぼす。ピチカと出会ってから笑顔になる事が増えて表情筋が緩んできたのか、ピチカ以外の親しい相手にも自然に笑みを見せる事ができるようになってきた。

 執事もヴィンセントのそんな変化を好ましく思っている様子で唇の端を持ち上げる。

 しかし次には真剣な顔をして、ヴィンセントにこう伝えてくる。


「どうやら上でピチカ様がヴィンセント様のお帰りを待っておられるようです。実は今日、仕事から戻ってこられた時から元気がなかったので、何かあったのかもしれません。話を聞いてさしあげてください」

「……分かった」


 他の使用人たちと同じく、アーノルドもすっかりピチカの事を受け入れ、心を砕いているようだ。

 しかし元気がないとは一体何があったのだろう、と思いつつ、ヴィンセントは足早に階段を上る。

 

「ピチカ」

「ヴィンセント様、おかえりなさいませ……」


 ピチカは侍女のレイラと一緒に、自分やヴィンセントの寝室がある廊下に立っていた。すでに寝巻きに着替えて髪も下ろしている。

 レイラは心配そうにピチカの肩を抱いていたが、ヴィンセントの姿を見ると一礼して廊下から去っていく。

 ヴィンセントは顔を上げたピチカに声をかけた。


「こんな遅くまでどうした?」

「いえ……ヴィンセント様におかえりなさいを言いたくて……」

「それだけのために起きていたのか?」


 それにしては様子が変だ。確かに執事のアーノルドが言うように元気がないように見える。

 

「はい、そうです」

「本当に?」

「はい……」


 しかしヴィンセントが少ししつこく訊いてみても、ピチカは返事をするだけで何も話さない。


「元気がないように見えるが、仕事で何かあったのか?」

「……いいえ、そんな事は……」


 歯切れが悪いのでやはり何かあったのではと疑うが、ピチカは笑顔を作ってこう言った。


「疲れて帰って来られたのに、引き止めてしまってごめんなさい。もうお休みになってください。本当に何でもないんです」

「そうか」

「おやすみなさい、ヴィンセント様!」

「ああ、おやすみ」


 ヴィンセントは他人の心の機微にはかなり疎いが、それでも今のピチカが無理に元気な声を出していた事には気づいた。

 寝室に入ったピチカが扉を閉めると、ヴィンセントは素早く、しかしそっとピチカの寝室に近づき、扉に張り付いて耳を当てた。


「ヴィンセント様……妻とはいえ女性の部屋に聞き耳を立てるのはいかがなものかと思いますが」


 ヴィンセントより十ほど年上の従者が、主人をたしなめるように言う。しかしヴィンセントが「しー」と人差し指を立てると、従者は諦めた。

 扉に耳をぴったりとつけ、ヴィンセントは中の様子をうかがう。

 すると、ピチカが鼻をすすっているようなかすかな音が漏れ聞こえてきた。


(風邪だろうか? 心配だ)


 さすがに病気から身を守る魔術まではピチカにかけていなかったので、どんな病魔も近づけさせないような術を早急に開発しなければと考えた時だった。

 

「……っ」


 寝室から漏れてきた本当に小さなすすり泣きの声が、ヴィンセントの鼓膜を震わせる。

 そのかすかな音に、ヴィンセントの心臓はぎゅっと締め付けられた。


「ピチカ!」


 愛する人が泣いていると気づいた瞬間、ヴィンセントはピチカの寝室の扉を開けていた。


「ヴィンセント様……?」

「ピチカ、どうしたんだ?」


 突然の事に呆然としているピチカにヴィンセントが駆け寄る。近づくと、ピチカの碧い瞳が濡れているのが分かった。目尻には涙が溜まり、今にも溢れそうになっている。


「どうしたんだ?」


 ヴィンセントはもう一度尋ねた。

 ピチカの泣き顔を見ていると心臓が痛み、胸が詰まって息が苦しくなるという自分でもよく分からない症状が出てくる。

 辛い、とはこういう感情なのかもしれない。


「答えてくれ、何があった?」


 原因も分からないままピチカに泣き続けられたら、頭がおかしくなりそうだった。彼女を悲しませているもの、もしくは悲しませている人物を特定して抹殺しなければ気が済まない。

 鬼気迫るヴィンセントの雰囲気に、ピチカは怯えたように一歩下がった。

 しかしそれによってヴィンセントは少し冷静になる。ピチカに怖がられるのは本意ではないからだ。

 なるべく穏やかに話しかける。


「なにか、辛い事があったのか?」


 そっと手を伸ばして頬を撫でると、ピチカはぽろぽろと涙をこぼした。


「うう……。ヴィンセント様……っ」


 そこで顔を上げ、悲しげに濡れた瞳でヴィンセントをじっと見つめると、ピチカは突然こんな事を言う。


「ヴィンセント様、ぎゅってしてください……」


 こちらを上目遣いで見つめてくるピチカはヴィンセントの頭を沸騰させるくらい可愛かったが、残念ながらヴィンセントには彼女が何を求めているのかが分からなかった。

 戸惑いながら呟く。


ぎゅう?」


 牛ってしてください、とは……?

 とヴィンセントが困惑していると、背後から優秀な従者が耳打ちしてきた。


「ピチカ様はヴィンセント様に抱擁してほしいとおっしゃっているのです」


 抱擁?

 意味が分かったら分かったで戸惑う。ピチカを抱きしめるなんて、何もしていないのに唐突にそんなご褒美をもらってもいいのだろうか? 自分が抱きしめたりしたらピチカが怖がらないだろうか? などと迷っていると、ピチカ贔屓のとても優秀な従者が後ろからヴィンセントを押した。


「さっさと抱きしめてあげてください!」


 背中を押された勢いのまま、ヴィンセントは両手を広げてピチカを抱きしめる。

 華奢なピチカの体は、自分の腕の中にすっぽりと収まってしまった。


「ヴィンセント様」


 ピチカはヴィンセントの胸のあたりの服をぎゅっと掴んで、まだ泣いている。けれどヴィンセントの抱擁を嫌がってはいないようだ。

 それを確認すると、少し調子に乗ってヴィンセントはピチカを抱きしめる腕の力を強めた。そして顔をピチカの耳元に近づけて言う。


「ピチカ、いい加減教えてくれないか? どうして泣いている?」


 するとピチカは泣きながらも理由を話してくれた。


「実は、シリンさんの事で少し、悲しい事があったんです。すごく些細な事かもしれませんが、私にとっては悲しくて……」

「シリンの事で? 何があった?」

「シリンさんはとても真面目な方で、私の護衛もいつも一生懸命やってくださるんです。私が怪我をしたりしないよう、細心の注意を払って守ってくださいます。ですが守ってくださる時に、どうしても……何て言うか……ある程度は仕方ない事なのですが……」


 ピチカはシリンの事を悪く言わないようにと気を遣って喋っているようだったが、結局言葉に詰まって、


「ああ、もう!」


 と上手く説明できない自分自身に対して言うと、勢いよく正直な気持ちを暴露し始めた。


「つまりシリンさんがベタベタ触ってくるのが嫌なんです……っ! 悪気はなさそうなんですが、並んで歩いていても距離が近いし、顔も近いし……。それに私の護衛のためとはいえ手を繋がれたりとか、腰を抱かれたりとか、そこまでする必要ある? というところでそういう事をされるの、本当に嫌なんです。だって私はまだヴィンセント様と手を繋いだりしてないのに、先にシリンさんとしてしまうなんて……」


 ピチカはそこでまた瞳をうるうるさせ、ヴィンセントを見つめる。


「今日も、シリンさんは転びそうになった私を抱きとめて助けてくださいました。それは本当に感謝しているのですが、でも私、まだヴィンセント様にも抱きしめてもらった事ないのにと思うと……悲しくなってきてしまって……っ。ヴィンセント様の体温は感じた事がないのに、シリンさんの体温は少し低めなんだって、何度も触れられてもう覚えてしまいましたし……」


 ピチカの言うシリンとは本物のシリンではなく、自分が変化したシリンだと分かっていても、ヴィンセントは本物のシリンに嫉妬しそうになった。

 ここに本物のシリンがいたら、「私のピチィに何をベタベタ触って体温を覚えさせてくれているのだ」と胸ぐらをつかんでしまいそうだ。カッと燃え上がるようなその感情も、ヴィンセントにとっては初めてのものだった。

 しかし悪いのは本物のシリンではない。


(落ち着け)


 ヴィンセントはそう自分に言い聞かせる。ピチカにベタベタ触っていたのは自分だ。

 シリンにそうされる前にヴィンセントに抱きしめられたかった、という素晴らしく可愛い事をまたもや平然と言ってのけるピチカをもう一度『ぎゅっ』としてから、ヴィンセントは少し体を離して彼女を見つめた。

 真実を言えば騙していたのかと嫌われるかもしれない。そう考えると恐ろしかったが、ピチカの涙を止めるために、ヴィンセントは正直にシリンの正体を話す事にした。


「ピチカに言わなくてはならない事がある。お前にベタベタ触るという、その配慮の足りない最低なシリンなのだが…………実は私なのだ」


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