第31話-A 高校1年生 ~あの時みたいに~
濡れた服の不快感が、ようやく薄れてきた。
由奈は、本を読むふりをして視線を落としたまま、呼吸を整えていた。
胸の奥は落ち着いてきたが、右隣にいる健斗の気配がまだ大きいままだ。
すると――
「由奈」
小声で呼ばれて心臓が跳ねた。
由奈が顔を上げると、桂花が顔を覗き込んでくる。
「由奈、トイレ行こうよ」
「あ、うん」
由奈が頷くと、桂花は立ち上がり、由奈の手を引く。
書棚の奥にあるトイレに入り、洗面の鏡の前に二人で立つ。
桂花がニヤニヤしながら言った。
「ねぇ、あんたたち、なんなの? 面白すぎるよ」
由奈は鏡を見るふりをしながら答える。
「え、なんのこと?」
桂花は由奈をじっと見た。
「さっき、高野、由奈になんて言った?」
「別になにも……」
「二人でなんか、こそこそ言ってたじゃん」
「たいしたことじゃないよ。ただの雑談」
「それにしては、由奈、なんか様子おかしかったよ」
「気のせいだよ」
「うそ。高野、由奈に『かわいい』って言ってたし」
由奈の表情が固まった。
「……やっぱり聞こえてたんだ」
「ほら!」
桂花は楽しそうだ。
由奈は反対側に顔を向けた。
それを見て桂花は苦笑したような顔になる。
「高野ってさ、由奈と話したそうだよね」
「そう?」
「さっきカフェで由奈と言い合いしてるの、楽しそうだったし、今も話しかけてたしさ」
「まぁ……そういう子じゃん、もともと。昔からテキトーなこと言い合ってさ」
「渡瀬さんと話してた時と比べたら、高野、100倍楽しそうだけどね」
由奈は吹き出した。
「あはは。100倍って、そこまで?
莉乃ちゃんには、緊張してたんじゃない?」
「えー、あれ、緊張してたって言う?
高野、『困ってた』って言ってたし。
なのに、由奈にはかわいいって」
少しの沈黙。
由奈は、手を洗いながら言った。
「だから、なにも言われてないって」
「しかと聞いたよ、この耳で。
しかも高野、あれ、結構、真剣だったってば」
「……ああいうの、深い意味はないんじゃないかな」
桂花は少し呆れたような顔で由奈を見た。
「高野って、昔からモテてたけど、誰にでも『かわいい』とか言って回るタイプじゃなかったよね?」
「……きっと、そういうこと言うようになったんだよ。男子って、あんなもんでしょ。
ほら、戻ろう」
由奈はトイレの扉を開けた。
二人は席に向かって歩き始めた。
「もう、由奈、頑固だなぁ」
「別に私は……」
――そのときだった。
「……あれ?」
桂花が立ち止まり、書棚のある一角を見つめた。
「なにか……光ってる?」
由奈も目を向ける。
蛍光灯の反射とは違う、柔らかく揺れる光が、本棚の隙間から微かに漏れている。
「えっ?」
「……あそこって……」
「なんの本があるんだっけ?」
顔を見合わせる二人。
「こっちに来た時には気づかなかったな」
「ちょっと……見てみる?」
二人で光の方へ、そろそろと向かう。
すると――
一番奥の書棚、下段にある本が光を放っている。
「これが……」
――呼ばれているような、懐かしいような、気配。
胸の奥が、ふいにざわついた。
雨の匂い。
静かな部屋。
誰かと並んで、低い棚を覗き込んでいた視界。
(……この感じ)
自然と、小六の頃の図書室でのことを思い出した。
桂花が呟いた。
「これって……あの時みたい」
「……私も思ってた」
桂花がはっとして、小声なのに叫ぶように言った。
「ちょっと、あの二人も呼んでくる!
由奈は光が消えちゃわないかどうか見張ってて」
そう言って桂花が閲覧室の方へ足早に向かった。
残された由奈は本を見つめていた。
淡く優しい光。
(あの時は、すぐに光らなくなっちゃったけど……)
やがて、桂花が男子二人と戻ってきた。
「よかった、まだ光ってた」
桂花が深く息を吐きながら由奈の隣に並んだ。
男子二人も息を飲み、同じ方を見た。
「これって、あの時も見た……」
健斗の声に三人は頷いた。
――あの時も、この四人だった。
四人で覗き込むと、揺れるような柔らかい光が、いくぶんか強くなった気がした。




