第1話 教室の片隅で
六年二組の教室。
どこか落ち着かない空気の休み時間。
高学年になり、子どもらしい無邪気さと思春期の気配が少しずつ混ざりはじめていた。
笑い声も、冷たい視線も、誰かの噂話も、静かにうねるように日常を形づくっていた。
窓側の後ろの席に座っていた佐山由奈は、静かで清楚な印象の女の子だった。
肩までの黒髪、丁寧な服の着こなし、落ち着いた受け答え。
派手ではないが、黒目がちな瞳が印象的で、表情の奥には好奇心が宿っている。
由奈は、誰かに媚びるでも、目立とうとするでもなく、ただ淡々と毎日を過ごしていた。
成績は常に上位、運動も平均以上。
気が利いて親切なので、先生からは目をかけられ、男子からも自然と好意の視線を向けられる存在。
彼女は、両親と弟、そして隣家の祖父母と暮らしていた。
共働きの両親がいない時間に世話をしてくれる祖母は温和で気の利く人で、その姿を見て育った由奈は子どもながらに「相手の気持ちを考える」ことを身につけていた。
そのためか、周りの子よりも少し大人びた視点を持っていた。
それが、女子の中心グループからすれば――どこか“気に障る”存在でもあった。
「なんか、由奈って、“ちゃんとしてる”よね〜」
「男子とばっか話してて、ちょっとね」
「先生からも贔屓されてるし」
そんな言葉が、無意識のうちに彼女の周りに落ちていく。
五年生の途中から、そんな感じが続いていた。
そんな教室の中で、由奈が唯一“素”で話せたのが――小藤桂花だった。
桂花は見るからにおとなしそうな印象を与える子だった。
少し暗そうに思われるタイプ。
けれど、教室の隅から人の様子を観察するその目は鋭く、実は誰よりもクラスの人間模様を冷静に見ていた。
特定のジャンルの小説やゲームが好きで、放課後は弟や幼なじみと遊ぶことも多い。
由奈はそんな桂花を見て、「これが本当の桂花なんだよね」と思っていた。
桂花は由奈に家庭の事情を少し打ち明けてくれた。
普段から、父親の機嫌をうかがいながら過ごしている――
由奈にとって、それは信じがたいことだったが、その環境が桂花の人間観察や慎重さの根っこになっていると思うと、なんとなく納得がいった。
五年生の班分けでたまたま隣同士になったことがきっかけで二人に自然と会話が生まれ、気づけば休み時間や放課後を一緒に過ごすようになっていた。
二人の距離は少しずつ、確かに近づいていった。
***
由奈と桂花は教室の隅で、中心にいる女子たちのグループからの標的に向けられる攻撃的な口調や視線に神経を研ぎ澄ませていた。
お互いにしか聞こえない声で密かに話した。
「……あの子たち、今わざと聞こえるように言ったね」
「気づいた?」
「うん。よくやってくるよね」
小学校の教室はたまにやけに狭く感じるときがあった。
――それは、クラスの中心にいる女子たちのグループが一斉に自分に視線を向けた時だった。
中心にいる女子たちは、誰かが「気に入らない空気を作る」と感じると、すぐに場の秩序を正すように視線や言葉で標的を囲んだ。
由奈は最初は怖くて教室から立ち去りたい気分に駆られた。
けれど、動けばそれがまた彼女たちの話題になる気がして、結局、身動きが取れなかった。
由奈は自分が彼女たちの輪の外にいることをある時からなんとなく理解していた。
気づいたらそうなっていた感じもする。
外されかけていたころは“気のせいだ”と言い聞かせていたかもしれない。
――そして、この状態が終わる日は到底やってこないだろう。
このクラスは六年生も同じままだ。
そう思うと、絶望しかないように思われた。
学校に行きたくない――
そんなことを言ったら家族は心配する。
家族に心配をかけることは、よくないこと、家族を悲しませること、期待を裏切ること。
そう思って家で口に出せず本当に苦しかった。
でも――桂花がいてくれた。
「体育館の裏、行かない?」
ある日の休み時間に、そう言われて由奈は顔を上げた。
(この教室から出られる)
由奈はほっとした表情で頷いた。
木漏れ日が落ちる体育館裏のコンクリートに腰を下ろし、二人で自由に話したり好きなことを書いたノートを見せ合ったりした。
それに、誰もいない体育館裏では外の世界が見えた。
道路を走る車や小道を歩く人たち。
――学校ではない世界を感じられた。
由奈も桂花も自然と表情が緩んだ。
***
由奈とよく話すようになったときには、桂花は既に他人の攻撃から身を守る術をつけていた。
ある日、桂花が言った。
「由奈もあの子たちが何か言いそうなとき、だいたい分かるでしょ?」
由奈は桂花を見て頷いた。
桂花は続けた。
「そういうときは先に身構えておけばあんまり刺さらないよ」
「わかった」
そのときから由奈は桂花に言われたことを意識するようになった。
あるとき、由奈は女子たちが自分に視線を送りながら何かを話していると気づいた。
(あ、何か攻撃、来る)
とっさにそう思った。
その直後、自分の名前が囁かれて笑いが漏れたのが聞こえた。
(やっぱり来た……。嫌だったけど……刺さる感じは少し軽めだったかも)
由奈は隣にいた桂花に囁いた。
「やっぱり言ってきた」
「でしょ。でも、構えておくと少しショックが小さくなるでしょ」
「うん」
「あと、声出して笑うと目立つから気をつけた方がいいよ。あの子たち、そういうの気にしてこそこそ言ってくるから」
「そうだよね……」
由奈は頷いた。
(……でも、桂花はずっとこんなふうにしてきたのかな……)
(最初は桂花が言ったこと、一緒に気をつけてるだけでもなかなか大変だなって思ったけど)
(桂花は、ずっとこんなにたくさんのことを気にしながら生きてきたのかな……。
いつも投げかけられた視線や言葉の意味にすぐに気づいて、身構えたりその場を離れたり)
(私はこれまでこんなふうに考えて生活したことはなかった。
けど、桂花は学校でも家でもこうなのかな……)
そこまで思って、由奈は桂花に少し身を寄せた。
***
由奈と桂花は昼休みや放課後を小学校の図書室で過ごすこともあった。
ここには、由奈と桂花を攻撃する子たちはあまり来なかったし、先生や司書さんの目もあった。
図書室は、教室では気を張って息を潜めていた二人が肩の力を抜ける場所だった。
桂花と築いたその静かな時間は、由奈にとって小さな避難所のように感じられた。




