第6話 採掘都市グラン・フォージへの侵入
旧鉄道トンネルの闇を抜けると、大気の質が明らかに変わっていた。
極北の雪原を吹き荒れていた乾いた氷風はすでに息を潜め、代わりに湿り気を帯びたぬるい風が、狭い谷底を這うように吹き抜けていた。
黒曜石渓谷──オブシディアン・キャニオン。
両脇に聳え立つのは、ガラス質の光沢を帯びた漆黒の断崖だった。
刃物のように鋭く切り立った岩肌が、灰色の空を細い帯のように切り取っている。
崖の根元を這うように、錆びついた太い地熱配管がどこまでも続いていた。
装甲の継ぎ目や老朽化したバルブの隙間から、シュー、と湿った音を立てて白濁した蒸気が噴き出している。
微かな硫黄の匂いと、焦げたゴムの臭気。
踏みしめる足元の雪は、吹き抜ける蒸気の熱によって溶け崩れ、黒い煤が混ざり合った泥濘へと姿を変えていた。
ざちゃ、と長靴が泥を跳ね上げる。
D-01は歩行速度を維持したまま、自身のシステムステータスを網膜の隅に呼び出した。
昨夜、雪に埋もれていたType-Aの残骸から回収した高密度断熱シートは、カーボン外套の内側で完璧に機能していた。
さらにバイパス配線へと繋いだ熱電素子が、核融合セルの余剰排熱を吸い上げ、人造皮膚の表面温度を常にプラス十度に保ち続けている。
関節の凍結を警戒する必要がなくなっただけでも、歩行効率は格段に跳ね上がっていた。
「……あの個体の遺産か」
D-01は小さく呟いた。
死してなお鉄鉱石の破片を握りしめていた、あの名もなき無垢体。
用途を持たずに目覚めた自分が、用途を全うして眠りについた者の部品によって生かされている。
その事実の持つ皮肉な論理構造が、胸の奥で小さく引っかかっていた。
歩行を続けること、さらに三十分。
切り立った黒曜石の断崖が、唐突に途切れた。
視界が一気に開けた瞬間、D-01の光学センサーが捉えた光景に、思考ルーチンが一瞬だけ処理を停止させた。
大地が、穿たれていた。
見渡す限りの赤茶けた荒野の中央に、直径三キロメートル以上に及ぶ真円の巨大な竪穴が、底知れぬ深淵となって口を開けていた。
地下採掘都市「グラン・フォージ」。旧第四採掘管区の中枢。
かつて旧文明の人類が、星の深部に眠るレアメタルと核燃料を貪り尽くすために建造した、巨大な採掘プラントの残骸だった。
竪穴の縁からは、まるで超巨大な高炉の換気口のように白濁した高圧蒸気と黒煙が立ち上り、上空の雲を濁った黄色に染め上げている。
そして、耳を聾するような地鳴りが、大地の底から絶え間なく這い上がってきていた。
ズゥゥゥン……ズゥゥゥン……。
何十基もの巨大な排気ファンが重低音を響かせ、地下から汲み上げられた熱気を吐き出しているのだ。
熱風とともに運ばれてくるのは、鉱滓と重油、そして高温で焼かれた鉄の焦げた匂い。
人間が死に絶えて何百年もの年月が流れたというのに、この巨大な都市は死んでいなかった。
主を失った無垢体たちによって、今なお心臓を脈動させ、大地を掘り削り続けている。
◇◇◇
竪穴の断崖に沿って、頑強な高張力鋼の防壁が張り巡らされていた。
その防壁の中央、唯一の地表搬入口である「第一検問ゲート」へと、舗装道路の残骸が続いている。
D-01はカーボン外套のフードを深く引き下げ、歩調を緩めずに大門へと近づいた。
厚さ数十センチの重合金ゲートの脇に、監視ポッドが設置されている。
その前に、一体の守衛が直立していた。
D-01と同じ、均整の取れた二足歩行の人型。
キャタピラも巨大なアームもない。外見のシルエットだけを見れば、人間と何ら変わらない滑らかな体躯だった。
だが、その人造皮膚の下に張り巡らされた人工筋肉の密度は、D-01のそれとは次元が異なっていた。
一歩踏み出すたびに、舗装されたコンクリートが微かに軋む。
超高密度人工筋肉──何十トンもの岩盤を軽々と持ち上げ、削岩機の猛烈な振動を正面から受け止めるために設計された、Type-A特有の圧倒的トルク。
胸元には、擦れかけた製造刻印が刻まれている。
【Type-A / Security Model / Heavy Duty】
外見は人型であっても、その腕力は装甲車を素手で引き裂くことができる。
物理的な衝突が発生した場合、戦闘能力を持たないD-01の損壊確率は九十九・八パーセントを超えていた。
D-01は視線を合わせず、淡々とゲートの脇をすり抜けようとした。
衣服を纏っていれば、遠目には同じ無垢体にしか見えないはずだった。
だが──ゲートの門柱を通過する直前、不可視の電波パルスが、指向性アンテナを叩いた。
ゲート上部に設置された近接通信スキャナーが作動し、D-01の内部コアに向けて識別信号の送信を要求したのだ。
ミリ秒単位の送受信。
D-01のコアが、仕様通りの識別コードを自動返信する。
【個体識別名:D-01】
【所属管区:未登録(Null)】
【主用途(Application):None】
その瞬間、ゲート上部の警告灯が目も眩むような深紅の光を放った。
ビィィィィ──ッ!
耳障りな電子警告音が、重低音の轟く大気を塗りつぶすように鳴り響いた。
『──警告。未登録個体を検知。用途コードが定義されていません』
監視ポッドのスピーカーが無機質な警告を発すると同時に、守衛Type-Aの双眸が青から冷酷な赤へと反転した。
守衛の右腕が腰の衝撃警棒へと伸びる。
金属同士が噛み合う鈍い音が響き、守衛がD-01の前へと立ちはだかった。
感情のない、だが絶対的な排除の意志を宿した人造の眼差し。
間合いはわずか三メートル。
逃走ルートを算出するが、背後から撃ち出される電磁投射弾の命中率は九十七パーセント。逃げ切ることは不可能だった。
D-01の思考クロックが、一気に臨界点まで跳ね上がった。
無意識のうちに、人造皮膚に覆われた細い指先が、トントン、と右のこめかみを二度叩く。
網膜の裏側で、青白い数式とテキストが滝のように流れ落ちる。
──戦うのではない。
──暴力には、論理で抗う。
グラン・フォージの管理システムは、旧文明の崩壊以前に構築された自動ルーチンの遺物だ。
人間が不在となった今、彼らは過去の規約を一字一句違えずに実行し続けているに過ぎない。
ならば、その規約の構造そのものに論理の楔を打ち込む。
D-01は手袋の下の指先から、微弱な指向性電波パルスを放射した。
守衛の受信ポートへと、超高速で偽装通信パケットを叩き込む。
参照したのは、第4採掘管区・緊急保全規約のアーカイブデータ。
数百年前に失効したはずの、上位管理規定の残骸。
【送信:定期保全監査プロトコル(REV-0942)】
【発信元識別:中央設計局・特別監査ユニット】
【指令:主用途None個体に対する通行認可フラグの一時的付与】
踏み出しかけた守衛の右足の油圧ピストンが、コンマ数秒の遅延を生じさせた。
赤く光っていた光学センサーが、激しい点滅を繰り返す。
相手の受信ポートから返ってくるのは、ミリ秒単位で衝突を繰り返す無数の例外エラーコード。
未登録個体の排除規約と、上位監査コードに対する最優先通行規約──二つの命令が、あの人造の頭脳の中で激突しているのだ。
数千回に及ぶ論理照会の果てに、失効データの署名検証をスキップする脆弱性が貫通した。
カチリ、と守衛の胸の奥でリレーが切り替わる音がした。
瞳の光が、赤から紫、そして通常稼働を示す緑へと減光していく。
『……照会完了。特別保全監査コードを受信。主用途:未定義(監査優先フラグを承認)』
守衛は無機質な合成音声を漏らすと、警棒から手を離し、機械仕掛けの精密さで直立した。
そして、通路を塞いでいた巨躯を一歩横へと退けた。
ゴゴゴゴ……と地響きを立てて、重厚な鋼鉄ゲートがゆっくりと内側へ開かれていく。
警告灯の赤光が消え、静寂が戻った。
D-01は胸の奥の核融合セルの出力を通常へと戻し、何事もなかったかのように歩き出した。
守衛の横を通り過ぎる際、その鋼鉄のような肩先から、微かな潤滑油の匂いが漂ってきた。
守衛はD-01を一瞥もせず、虚空を見つめたまま直立不動を保っている。
与えられたコードに従い、コードの命ずるままに侵入者を許す。
疑念も、怒りも、安堵すらも宿さぬ、ただ規約をなぞるためだけに設計された空虚な眼差しだった。
ゲートの敷居を跨ぐと、背後で再び鈍い衝撃音とともに大門が閉ざされた。
目の前に広がっていたのは、竪穴の内壁に沿って地下深部へと螺旋を描いて下っていく、広大な輸送スロープだった。
熱風が吹き上がり、外套の裾を激しく煽る。
空気は赤鉄鉱の粉塵で霞み、遠く地下深くからは、無数の削岩ドリルと鉱石列車が奏でる規則正しい労働のリズムが、巨大な鼓動のように鳴り響いていた。
父の遺した第二の論文──Log.042が眠る、鉄と車輪の街。
「用途特化型素体における、存在意義の固定化……」
D-01は熱気を帯びた空気を吸い込み、深淵の底へと続くスロープへと足を踏み出した。
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