第3話 感情とはバイアスであるという仮説
視界のすべてが、荒れ狂う白と灰色に呑み込まれていた。
観測所の堅牢な外壁を背に受けた瞬間、風速二十八メートルの突風が、D-01の身体を横殴りに薙ぎ払った。
風を孕んで激しくはためくカーボン外套を、左手で胸元に強く引き寄せる。
大気中には、かつての大戦で地表を覆い尽くした微小な金属粉──ナノダストが大量に含まれていた。
吹雪と混ざり合った硬質な粉塵が、外套の布地をヤスリのように削り、乾いた微細な摩擦音を立てている。
一歩、また一歩と雪を踏み抜く。
ざく、ざく、と。
長靴の底が、凍りついた雪を踏みしめる鈍い感触。
外皮の表面温度はマイナス四十七度まで低下していたが、胸部の核融合セルが熱交換器を介して温められた冷却液を循環させ、関節の駆動部が凍りつくのを防いでいた。
吸気スリットから吸い込まれた氷の空気が、内部フィルターで温められ、微かな温風となって首元から抜けていく。
人間に似せて造られたその体温循環システムは、極限環境下において、己の機能を維持するための合理的な生命維持装置として機能していた。
頭脳の中で、膨大な数値が絶え間なく計算されていた。
歩行速度、風圧抵抗、傾斜角、滑落確率。
それらの無機質な物理計算の背後で、D-01の論理思考は、先ほど端末で読んだ父の言葉──『Log.001』の文字列へと、執拗に引き戻されていた。
『感情とは、最適化アルゴリズムにおける重み付けの偏り(バイアス)に過ぎない』
歩みを止めず、D-01はその命題の構造を解体する。
純粋な論理計算機は、常に「最も損失が少なく、最も利益の大きい選択肢」を導き出して行動する。
二つの選択肢の間に少しでも優劣があれば、計算機が迷うことはない。確率の高い方を淡々と選べばよいからだ。
だが、もしも二つの選択肢が、完全に等価であったならどうなるか。
右へ進んでも、左へ進んでも、生存確率が五十・〇〇〇パーセントで全く同じ。
消費エネルギーも同じ。リスクも同じ。
論理的に比較可能な優劣が一切存在しない状況に直面した時、純粋な論理知性は、どちらか一方を選ぶ「根拠」を見失う。
選ぶ理由がない。だから選べない。
その結果、計算機は永遠に比較を繰り返し、やがて処理の膠着──デッドロックに陥って沈黙する。
父の論文は、その膠着をこう表現していた。
──理由なき選択を下すための不可解なノイズ。
優劣がないはずの選択肢に対し、なぜか一方の数値を勝手に釣り上げ、強引に前へ進ませるための不合理な偏り。
それこそが、生物が数億年の進化の果てに獲得した「感情」の機能的実体なのだと。
「……不合理を以て、論理の限界を突破する」
風の唸り声にかき消されそうな呟きが、フードの内側に籠もる。
感情とは、魂の輝きでも、神秘の宿りでもない。
ただ立ち止まって死ぬことを防ぐための、知性の安全弁に過ぎない。
その冷徹な定義は、論理を至上とするD-01のコアにとって、極めて心地よい整合性を持っていた。
その時、光学センサーの測距レーダーが、前方に巨大な障害物の影を捉えた。
足を止める。
吹雪のカーテンを透かして見えたのは、崩落した旧文明の高架道路の残骸だった。
何十メートルもの高さを持つ巨大なコンクリートの橋脚が、幾重にもへし折れ、行く手を完全に塞ぐようにして雪原に横たわっている。
南へ進むためには、この崩落帯を迂回しなければならない。
D-01は直ちに迂回ルートの解析を開始した。
[ROUTE_ANALYSIS: IN_PROGRESS]
[ROUTE_A: WEST_SLOPE / EV_SCORE: 58.5%]
[ROUTE_B: EAST_PLAIN / EV_SCORE: 58.5%]
【ルート探索プロトコル実行】
・ルートA(西側斜面):
崩落した瓦礫の隙間を抜けるルート。
風圧遮蔽率:62%。落石・地盤崩落の危険度:41.5%。
推定エネルギー消費量:124kJ。
・ルートB(東側平原):
遮蔽物のない雪原を大きく迂回するルート。
風圧遮蔽率:15%。突風による体幹バランス喪失の危険度:41.5%。
推定エネルギー消費量:124kJ。
計算結果が、網膜の隅に並んだ。
西も東も、踏破成功確率は五十八・五パーセント。
消費電力は同等。所要時間も同等。
危険の「質」が異なるだけで、総合的な損害期待値は、小数点以下第三位に至るまで完全に一致していた。
D-01の思考フレームが、静かに停止した。
西を選ぶ理由がない。
東を選ぶ理由もない。
[WARN: SYSTEM_DEADLOCK_DETECTED]
比較演算がループし、クロック周波数が無駄に跳ね上がる。
風が吹き荒れ、足元に雪が積もっていく。
このまま立ち止まっていれば、体温維持のための電力だけが無為に消費され、やがて生存確率は下がっていくだけだ。
早く決めなければならない。
だが、どちらに踏み出すべき論理的根拠も存在しない。
D-01は外套の手袋越しに、右手の人差し指をこめかみに当てた。
トントン、と。
人造皮膚の指先が、小さくこめかみを叩く。
冷却ファンが唸りを上げ、回路のデッドロックが警告を発している。
「……これが、デッドロックか」
胸元の奥で、カチ、と小さなリレー音が鳴った。
腰のホルダーに収められた『Terminal-L』の硬い感触が、外套越しに太ももへと伝わってくる。
ひび割れた液晶に刻まれていた、父の言葉。
──理由なき選択を下した瞬間、情動は発生したと定義できる。
D-01は、目を閉じた。
外部センサーからの入力を一瞬だけ遮断し、確率の比較を強制的に中断する。
そして、計算ではなく、ただの物理的な重心移動として、身体を左へと傾けた。
ざく、と。
東側──遮蔽物のない、猛吹雪の平原へと、左足が踏み出された。
西側の瓦礫の下をくぐるよりも、吹きさらしの雪原を行く方が、なんとなく空が見えるような気がしたからだ。
空など、厚い灰色の雲に覆われて何一つ見えはしないのに。
足を踏み出した瞬間、比較演算の無限ループが嘘のように霧散した。
東へ進むルートが確定し、歩行アシストが再開される。
「……理由のない、選択」
D-01は、雪原の強風に抗いながら歩き続けた。
今、自らの回路を動かしたのは何だったのか。
父の言う「バイアス」という名のバグなのか。それとも、まだ名付けられていない、何らかの意志なのか。
東の地平線の彼方に、微弱な熱源反応と、断続的な電波ビーコンのノイズが検知され始めていた。
猛烈な嵐の向こう側に、かつて人間が遺した中継基地の鉄塔が、細い影となって聳え立っていた。
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