第2話 画面のひび割れ。父の論文Log.001
頭上で、重く唸るような地鳴りが続いていた。
極北の暴風が、半球状の通信ドームを外側から激しく叩きつけている音だった。
分厚い鉛入りのコンクリート壁を伝って届くその振動は、低周波のうねりとなって部屋の空気を小刻みに震わせている。
D-01はコンソールから視線を上げ、自分が目覚めた空間を見渡した。
広さは、十メートル四方ほど。
壁一面に並んだ旧式のラックサーバーは、補助バッテリーの液漏れによって青錆が浮き、どれも完全に沈黙していた。
床には散乱した紙の書類や、被覆が劣化して千切れた配線ケーブルが、凍りついた埃の中に半分埋もれている。
カプセルは、中央に設置されたあの一つだけだった。
他に目覚めるべき個体も、自分を見守る個体もいない。
この閉ざされた氷の繭の中に、D-01という存在だけが、何世紀もの間たった一人で保存されていた。
論理回路が、その孤立の確率と意味を弾き出す。
──隔離。
他の無垢体たちのネットワークから完全に遮断された場所で、あらかじめ用途を与えられずに保管されていた理由。
それは過失による放置なのか、それとも意図された秘匿なのか。
手元の端末が発する微弱なノイズ以外に、答えを返してくれるものは何もなかった。
寒気が、足元から這い上がってくる。
生体模倣ポリマーの外皮そのものは、極低温下でも柔軟性を失わないよう設計されている。
だが、体内の常温核融合セルが熱を放出し続ける限り、冷気との温度差によってエネルギーの自然放散が続いてしまう。
無駄な電力消費は、自律稼働時間の短縮に直結した。
部屋の隅に、半開きの金属ロッカーがあった。
近寄り、錆びついた扉を引く。
鈍い金属の軋みとともに開いた内部には、かつてここにいた人間のものであろう衣服が数点、ハンガーにかかったまま凍りついていた。
D-01はその中から、カーボン繊維を織り込んだ分厚いフード付きの防寒外套を選び出した。
手で払うと、硬化した埃が白い粉となって舞い散る。
腕を通し、首元の留め具を締める。黒に近い深い灰色の布地が、華奢な少年の輪郭をすっぽりと覆い隠した。
ロッカーの扉の内側に、姿見の鏡が取り付けられていた。
表面を覆っていた霜を、外套の袖で丸く拭い去る。
曇ったガラスの向こう側に、一体の姿が映し出された。
光を柔らかく反射する淡い銀灰色の髪。生身の少年の瞳のように澄んだペールブルーの虹彩。
肌は白く、鼻筋や唇の輪郭には、一切の歪みや機械的な継ぎ目が見当たらない。
人型の無垢体は世界中に数多く存在している。
しかし、ここまで旧人類の「子供」の脆弱さと無駄のなさを精密にトレースした機体は、設計思想の観点から言っても異常だった。
岩を穿つ怪力も、弾丸を防ぐ装甲もない。
ただ、人間と同じように立ち、人間と同じように世界を見つめるためだけに作られた容れ物。
「……不可解だ」
鏡の中の自分に向かって呟いた声が、静かな部屋に消えていく。
D-01はデスクに戻り、再び『Terminal-L』の画面を覗き込んだ。
緑色のモノクロ液晶。
その中央を、斜めに走る細い亀裂が横切っている。
クモの巣状のひび割れが、表示された文字をわずかに歪ませていた。
だが、その不完全な光の隙間から浮かび上がる言葉は、驚くほど澄み切った冷徹さを保っていた。
『理論上、感情とは高度な最適化アルゴリズムにおける「重み付けの偏り(バイアス)」に過ぎない。
完全に等価な二つの選択肢に直面した際、論理的知性は無限ループ(デッドロック)に陥る。その計算の膠着を打ち破り、理由なくどちらか一方を強引に選択させるための不可解なノイズ──それこそが、生物が進化の過程で獲得した「感情」の正体である』
D-01の論理コアは、この記述を何度もトレースした。
父──創造主は、感情を神聖な魂などとは捉えていなかった。
それは、計算機が自らの完全な論理に縛られて立ち止まるのを防ぐための、進化の過程で生じた「便宜的なエラー」に過ぎないのだと。
ならば、機械が自らの論理矛盾を自覚し、あえて理由のない選択を下した時、その瞬間に心は宿る。
だが、その先が途切れている。
ひび割れた液晶の底には、赤いエラーメッセージとともに、外部メモリーの残存インデックスが表示されていた。
[NODE_QUERY: Node-042]
[TARGET_LOG: Log.042]
【破損ログの参照先を照会中】
【ノードID:Node-042】
【推定記録内容:用途特化型素体における存在意義の固定化】
【最終同期座標:南緯38度/旧第4採掘管区「グラン・フォージ」メインフレーム】
「南へ、四百二十キロ……」
D-01は計算を走らせた。
外部の平均風速は秒速二十五メートル。大気中のナノダスト汚染濃度は基準値の四倍。視界は十メートル未満。
過酷な環境だが、核融合セルの出力と外套の防寒性能を維持すれば、徒歩による踏破確率は七十八パーセントを維持できる。
そして何より、その目的地「グラン・フォージ」には、父の論文の──Log.042が眠っている。
そこへ行けば、なぜ無垢体たちが用途を与えられたのかがわかる。
そして、なぜ自分だけが用途を与えられなかったのか、その答えへと一歩近づくことができるはずだ。
D-01はTerminal-Lの液晶をスリープさせ、腰のレザーホルダーへとしっかりと収めた。
フードを深く被り、銀灰色の髪を覆い隠す。
観測所の出口へと向かい、錆びついた油圧手動レバーに両手をかけた。
重い金属の軋みとともに、何重もの密閉ロックが外れていく。
最後のハッチが外側へと押し開かれた瞬間──。
猛烈な吹雪が、狭い通路へと雪崩れ込んできた。
氷の粒子が小石のような鋭さで外套を打ち据え、視界のすべてが一瞬で白い混沌へと塗り潰される。
体感温度は、マイナス五十度を超えていた。
D-01は光学センサーの感度を赤外線モードへと切り替え、嵐の奥を凝視した。
そこには、地平線すら判別のつかない、凍てついた灰色の荒野がどこまでも広がっていた。
一歩、足を踏み出す。
コト、と。
雪に埋もれたコンクリートを踏みしめる感触が、足裏のセンサーを通じて静かに伝わってきた。
目的のない欠陥体。
用途を持たぬまま、D-01という名だけを与えられた個体は、自らの存在理由を証明するための長い旅路へと、その身体を沈めていった。
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