そしてまた始まる
前回の冒険から数日。
俺たちは冒険者ギルドの一角に集まり、机の上に並べられた報酬を眺めていた。
魔物から手に入れた素材や収集品。そして、装飾の施された装備品。
それらを売却して得た金額は――銀貨三枚と銅貨八十八枚。
さらに、複数の魔物の討伐依頼を達成したことで、銀貨二枚と銅貨五十枚の報酬を受け取った。
「……思ったよりあるな」
誰かが呟いた。
確かに、俺たちがこれまで手にしてきた金額と比べれば、かなりの大金だ。
ただし、そのまま全部を使えるわけではない。
訓練場から借りていた金を返さなければならない。
冒険者になるために必要だった訓練や装備。
その費用の一部を借りていたのだ。
今回の報酬から借金の返済分を差し引き、残った金を五人で分ける。
そして、一人ずつ手元に残った金を確認した。
「……これなら、少しくらい装備を新しくしてもいいんじゃないか?」
俺は手のひらに乗せた硬貨を眺めながら言った。
今まで使ってきた装備は、決して悪いものではない。
訓練場を出る時に用意したものを、そのまま使い続けている。
けれど、実際に魔物と戦ってみると分かる。
剣は傷が増え、盾にもいくつか目立つ傷ができている。
鎧だって、何度か魔物の攻撃を受けたせいで補修した箇所が増えていた。
「俺は賛成だな」
仲間の一人が頷く。
「命を預ける物なんだから、ケチるところじゃない」
「でも、全部買い替えるほどの余裕はないだろ」
「それはそうだな」
俺たちは顔を見合わせる。
今回の冒険で稼いだ金は、確かに以前より多い。
だが、これで裕福になったわけではない。
食事をすれば金は減る。
宿に泊まれば、また減る。
怪我をすれば治療費も必要になる。
そして、次の冒険に必要な道具を揃えるためにも金がいる。
冒険者にとって、金は稼いだら終わりではない。
次の冒険へ進むために、また使わなければならないのだ。
「じゃあ、今日は装備を見に行こう」
俺はそう言って立ち上がった。
まずは自分たちに何が必要なのか。
それを確かめるところから始める。
少しだけ良い剣。
丈夫な盾。
傷んだ鎧の修理。
消耗した道具の補充。
そして、もし余裕があるなら――。
今まで買えなかった物にも手を伸ばしてみたい。
俺たちはそれぞれの財布を確かめながら、ギルドを後にした。
前回の冒険で、少しだけ分かったことがある。
魔物を倒せば金になる。
素材を持ち帰れば、それも金になる。
そして、その金があれば、自分たちの力を少しずつ高めることができる。
まだまだ俺たちは駆け出しだ。
強いわけでもない。
特別な力があるわけでもない。
それでも、一歩ずつ進んでいくしかない。
新しい装備を手に入れたら、次の依頼へ。
次の依頼を達成したら、さらにその先へ。
そうやって少しずつ、自分たちの冒険を積み重ねていく。
「さて……次はどんな依頼を受けるかな」
街の通りを歩きながら、俺はそんなことを考えていた。
前回の冒険は終わった。
けれど――。
俺たちの冒険は、まだ始まったばかりだった。
ここ、プラムの街は、グローサ大陸の内側に位置している。
大陸の中心部に近いこの辺りは、比較的穏やかな土地が広がっていた。
街の周囲にはなだらかな平地が続き、少し離れれば木々の生い茂る森林が姿を現す。
さらにその奥へ進めば、森は次第に深くなっていく。
木々は高く、日の光は届きにくくなり、足元には苔や草が広がる。
そして、街から遠ざかれば遠ざかるほど、森はその姿を変えていく。
浅い森では見かけなかった凶暴な魔物。
巨大な獣。
人の気配を待ち伏せる知恵を持った魔物。
さらに深い場所では、熟練した冒険者でさえ慎重な判断を求められる。
森の奥深くは、もはや新人冒険者が気軽に足を踏み入れられる場所ではない。
一方、プラムの街から東へ向かえば、景色はまた違ったものになる。
どこまでも続く平地。
その先には、いくつもの低い山々が連なっている。
森とは生息する魔物の種類も大きく異なり、岩場や草原を好む魔物が多い。
もちろん危険がないわけではない。
しかし、東側の山々に生息する魔物は、深い森に棲む魔物と比べれば比較的弱いとされている。
そのため、駆け出しの冒険者が経験を積む場所としても利用されていた。
平地。
森林。
そして、その先に広がる深い森。
東には低い山々。
様々な環境が、それほど遠くない場所に存在している。
冒険者にとって、これほど恵まれた土地はそう多くない。
弱い魔物から始めて、少しずつ遠くへ進む。
力がつけば森林へ。
さらに経験を積めば、その奥へ。
そして、違う環境で戦いたくなれば東の山々へ向かうこともできる。
プラムの街は、冒険者が成長していくための場所として、非常に恵まれた環境にあった。
――少なくとも、俺たちはそう思っていた。
この街を拠点にしている限り、まだまだ冒険する場所には困らない。
装備を新調することを決めた俺たちは、街の鍛冶屋をいくつか見て回っていた。
けれど、なかなか思うような物が見つからない。
剣や盾は置いてある。
弓や槍もある。
しかし、どれも冒険者向けというよりは、日常の仕事で使うための道具に近かった。
そんな時、ふと以前のことを思い出した。
酒場で出会った、あの熟練冒険者の言葉だ。
『装備を新しくするなら、ラッカムまで行ってみるといい』
確か、そんな話をしていた。
ラッカム。
プラムの街から東へ進んだ先にある街だ。
なぜラッカムなのか。
その理由が、今になって少し分かった気がした。
プラムの街周辺にいる魔物は、比較的弱い。
街の近くにある平地や浅い森では、駆け出しの冒険者でも戦える魔物が多い。
それは冒険者にとって、とても恵まれた環境だ。
けれど――。
鍛冶屋から見れば、事情は違うのかもしれない。
危険な魔物が少なければ、冒険者が命を預けるような頑丈な武器や防具を求める人も、それほど多くはない。
だからなのだろう。
プラムの街で売られている物は、農作業や日常生活で使う道具が多かった。
剣。
盾。
弓。
槍。
もちろん扱っている店もある。
だが、冒険者として本格的に使うことを考えると、少し物足りない。
「……ラッカムに行ってみるか」
俺がそう言うと、仲間たちも顔を上げた。
「ラッカム?」
「ああ。以前、酒場で会った冒険者が言っていたんだ。装備を新しくするなら、ラッカムがいいって」
「そういえば、そんな話をしていたな」
仲間も思い出したように頷く。
ラッカムはプラムの街から東へ進んだ場所にある。
その辺りまで行けば、平地だけではなく低い山々も増えてくる。
生息している魔物も変わってくる。
冒険者が必要とする装備も、当然変わってくるのだろう。
「だったら、そこで買った方がいいかもな」
「少し遠いけど……」
「どうせ次の冒険に出るなら、行ってみてもいいんじゃないか?」
俺たちは顔を見合わせた。
確かに、プラムの街で無理に装備を揃える必要はない。
せっかく稼いだ金だ。
中途半端な物を買って後悔するより、自分たちに合った物を探した方がいい。
「よし、決まりだな」
俺は頷いた。
次の目的地は――ラッカム。
ラッカムへ向かうことを決めた俺たちは、さっそく冒険者ギルドへ向かった。
目的は一つ。
ラッカムまでの移動手段と、できればその道中で受けられる依頼を探すことだ。
ギルドの依頼掲示板には、今日も様々な依頼書が並んでいた。
その中で目に留まったのが、ラッカムまでの護衛依頼だった。
「結構あるな」
掲示板を眺めながら、俺は呟いた。
ラッカムはプラムからそれなりに距離がある。
商人が商品を運ぶためには、どうしても街道を通らなければならない。
だから護衛を必要とする商人も少なくないらしい。
ただし――。
「……Dランク以上か」
依頼書のいくつかには、必要な冒険者ランクが記されていた。
Dランク。
俺たちはまだFランクだ。
当然、条件を満たしていない。
「やっぱり、まだ俺たちじゃ受けられない依頼も多いな」
「仕方ないだろ。まだ駆け出しなんだから」
仲間の言葉に、俺も頷いた。
すると、その時だった。
「あの……護衛依頼を探しているんですか?」
後ろから声をかけられた。
振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。
大きな荷物を抱え、少し緊張した様子でこちらを見ている。
「はい。私、ラッカムまで行く予定なんです」
「ラッカムに?」
「はい」
少女は小さく頷いた。
「私、ネネっていいます。駆け出しの商人です」
商人。
そう聞いて、俺たちは顔を見合わせた。
「護衛を探しているんですか?」
「はい。でも……」
ネネは少し困ったような表情を浮かべた。
「なかなか条件に合う冒険者さんが見つからなくて……」
俺たちは依頼書を見る。
そこには、必要ランクについての厳しい条件は書かれていなかった。
「俺たちはFランクだけど、それでもいいのか?」
俺が尋ねると、ネネは驚いたように目を丸くした。
そして――。
「もちろんです!」
思った以上に元気な声が返ってきた。
「むしろ、来てくださるなら大歓迎です!」
「……大歓迎?」
「はい!」
ネネは嬉しそうに頷いた。
「私はまだ駆け出しの商人なので、そんなに大きな護衛費は払えません。だから、高いランクの冒険者さんにはお願いしづらくて……」
なるほど。
確かに、商人としても駆け出しなら、使える金には限りがある。
「それに、Fランクでも魔物を倒せないわけじゃないですよね?」
「まあ……それはそうだけど」
「だったら、お願いします!」
ネネは深々と頭を下げた。
「ラッカムまで、一緒に行ってください!」
俺たちは再び顔を見合わせた。
Fランク。
まだ駆け出しの俺たちを、喜んで迎えてくれる商人。
しかも目的地は、俺たちが装備を新調しようとしていたラッカムだ。
「……悪くないな」
俺が呟くと、仲間たちも頷いた。
「うん」
「ちょうどラッカムに行きたかったしな」
「決まりじゃないか?」
こうして俺たちは、駆け出し商人ネネの護衛として、ラッカムへ向かうことになった。
ただ装備を買いに行くだけだったはずの旅。
それが思いがけず、次の冒険へと繋がっていくことになる。
ラッカムへ向かう出発の日。
俺たちは、街の外へ続く門の前でネネを待っていた。
すると、少し遅れてネネがやってきた。
その荷車には、いくつもの木箱や麻袋が積まれている。
「……結構積んでるな」
思わず声が漏れた。
「はい!」
ネネは嬉しそうに荷物を確認している。
「これ、全部ラッカムに持っていくのか?」
「そうですよ」
ネネが一つの木箱を開ける。
中には、プラムの街で作られた保存食や加工品、乾燥させた果物などが入っていた。
「プラムの街の特産品です」
「特産品?」
「はい。プラムでは普通に手に入るものでも、ラッカムでは少し値段が上がるんです」
なるほど。
同じ大陸にある街でも、手に入る物や値段には違いがある。
プラムで安く仕入れて、ラッカムで売る。
そして、ラッカムで手に入れた物を今度はプラムで売る。
「それが……交易ってやつか」
「そうです!」
ネネは胸を張った。
「私はまだ駆け出しなので、お店を持っているわけじゃありません。だから、まずはこうやって商品を仕入れて、別の街で売るところから始めているんです」
「商人って、みんなこうなのか?」
「商人にも色々いますよ」
ネネは荷物を積みながら説明してくれた。
大きな商会を持つ商人。
自分の店を構える商人。
珍しい商品を専門に扱う商人。
そして、ネネのように街から街へ商品を運び、その価格差で利益を得る商人。
商人と一言で言っても、その形は様々らしい。
「特に駆け出しの商人は、元手が少ないですからね」
ネネは少し苦笑した。
「いきなり大きなお店を持つなんて、とても無理です。だから最初は交易から始める人が多いんですよ」
「なるほどな……」
俺は荷車に積まれた商品を見る。
一つ一つは、それほど高価な物には見えない。
けれど、それを大量に仕入れて別の街へ運び、少し高く売る。
その差額を少しずつ積み重ねていく。
冒険者が魔物を倒して稼ぐのとは、まったく違う金の稼ぎ方だった。
「じゃあ、今回もこれをラッカムで売るんだな?」
「はい!」
ネネは笑顔で頷いた。
「うまく売れれば、次の商品をもっとたくさん仕入れられます。それを繰り返して、いつか自分のお店を持つのが私の夢なんです」
そう言って、ネネは荷車を見つめる。
積まれているのは、決して高価な宝石でも貴金属でもない。
保存食や加工品、乾燥させた果物。
どれも日常で使われるような物ばかりだ。
それでもネネにとっては、自分の夢へ繋がる大切な商品なのだろう。
「……俺たちも負けてられないな」
「え?」
「いや、なんでもない」
俺たちにも目標がある。
まずは装備を整えること。
そして、もっと強くなること。
そのために冒険を続ける。
ネネは商人として。
俺たちは冒険者として。
目的は違っても、向かっている先にはどこか似たものがあるのかもしれない。
「それじゃあ、出発しましょう!」
ネネの声が響いた。
荷車がゆっくりと動き始める。
プラムの街を出て、東へ。
俺たちは新しい街、ラッカムを目指して歩き始めた。
装備を新調するための旅。
そして、ネネにとっては商人としての大切な交易。
こうして俺たちは、初めてプラムの街を離れることになった。
魔物。
それは、人間に害をなす生き物の総称だ。
獣のような姿をしたもの。
人の姿に近いもの。
森や山に棲み、人間の生活圏へ入り込んでくるもの。
俺たち冒険者にとって、魔物は常に警戒すべき存在だった。
街の外へ出れば、いつどこで遭遇するか分からない。
だからこそ、武器を持ち、仲間と行動する。
それが冒険者というものだ。
――だが。
この世界で、人間に害を与える存在が魔物だけというわけではない。
魔物とは違う。
人間でありながら、人間を襲う者たちもいる。
盗賊。
街道を行く商人や旅人を狙い、金や商品を奪う者たち。
魔物ならば、倒せば終わる。
だが、盗賊は違う。
相手もまた、人間なのだ。
武器を持ち、知恵を使い、こちらの弱点を狙ってくる。
街道を歩く俺たちにとって、それは魔物とは別の意味で厄介な相手だった。
「……盗賊も出るんですか?」
ネネが不安そうに尋ねる。
「可能性はある」
俺は街道の先へ目を向けた。
今のところ、何も見えない。
穏やかな風が草原を吹き抜け、荷車の車輪が一定の音を立てている。
平和な旅に見える。
けれど、街の外に出た以上、安全だとは言い切れない。
魔物だけではない。
人間にも気をつけなければならない。
冒険者になってから、俺たちは少しずつそれを理解し始めていた。
この世界は、街の中にいる時ほど安全ではない。
だからこそ、俺たちは武器を携えている。
だからこそ、ネネは護衛を雇った。
「まあ、そう簡単には出会わないですよ」
仲間がそう言って笑った。
「そうだといいけどな」
俺も笑って返す。
しかし、手は自然と剣の柄へ伸びていた。
魔物。
盗賊。
そして、まだ俺たちが知らない危険。
プラムの街を離れれば離れるほど、世界は少しずつその姿を変えていく。
この世界は、残酷だ。
プラムの街を出て、しばらく平地を歩いた。
穏やかな風が吹き、遠くには低い山々が見え始めている。
街の周辺とは少しずつ景色が変わってきた。
道の脇には草が減り、足元には拳よりも大きな石がいくつも転がっている。
荷車の車輪が石を踏むたび、ガタッ、ガタッと音を立てた。
「もうすぐ山に入るのかな」
ネネが前方を見ながら呟く。
「ああ。ラッカムまでは、もう少しだ」
そう答えた、その時だった。
先頭を歩いていたグリフが、突然足を止めた。
「……止まれ」
低い声だった。
俺たちは反射的に足を止める。
「どうした?」
グリフは答えなかった。
ただ、前方をじっと見つめている。
その手はすでに武器へ伸びていた。
俺もグリフの視線の先を見る。
少し先。
街道の脇に、何かが転がっていた。
「……あれは?」
近づいていくにつれて、その正体が分かってくる。
壊れた馬車だった。
荷台は大きく破損し、車輪の一つは外れている。
積まれていたであろう荷物は周囲に散乱していた。
そして――。
地面には、黒ずんだ赤い跡が残っている。
血だ。
「……っ」
ネネが息を呑んだ。
誰かが襲われた。
それだけは、見れば分かった。
グリフは慎重に周囲を見回している。
前。
左右。
そして、俺たちが歩いてきた後方。
その目に、いつもの穏やかさはなかった。
真剣な眼差し。
警戒心をむき出しにした表情。
「グリフ……」
俺が声をかける。
グリフはしばらく黙っていた。
そして、静かに口を開いた。
「……盗賊の仕業だ」
その言葉が、妙に重く響いた。
「分かるのか?」
「ああ」
グリフは壊れた馬車を見ながら答えた。
「魔物に襲われたなら、もっと荒らされているはずだ。それに、この壊れ方は……」
グリフは地面に残された跡を確認する。
「人間同士の争いでできたものに見える」
誰も口を開かなかった。
さっきまで聞こえていた荷車の音さえ、今は妙に大きく感じる。
俺は剣の柄を握った。
魔物なら、まだ分かる。
魔物は人間を襲う生き物だ。
だから俺たちは武器を持っている。
だが――。
同じ人間が、金や物のために他人を襲う。
それが盗賊だ。
「……ここを通るのか?」
仲間が尋ねる。
グリフは壊れた馬車の向こうを見つめた。
「この先を通らなきゃ、ラッカムには行けない」
そう言ってから、グリフは少し間を置いた。
「だからこそ、警戒する」
ネネの顔が強張っている。
俺たちは無言で武器を確認した。
ラッカムへ向かうだけの、簡単な護衛依頼。
そう思っていた。
けれど、街道に残された血痕が教えてくれた。
街の外は、決して安全ではない。
魔物だけが、この世界の脅威ではない。
――やはり、来た。
グリフは壊れた馬車から視線を外すと、街道の先へ目を向けた。
「……いる」
その声は小さかった。
俺たちは息を潜める。
街道を少し進んだ先。
川沿いに広がる林の手前に、いくつかの人影が見えた。
五人。
男たちは街道から少し外れた場所に陣を取り、何かを待っているようだった。
「盗賊……?」
ネネが小さく呟く。
グリフが頷く。
「ああ。間違いない」
まだ、こちらには気づいていない。
五人の盗賊は周囲を警戒しながら、街道を行き交う者を待ち伏せしているようだった。
その近くには――。
人が倒れていた。
「……あれは」
俺は言葉を失った。
男の遺体だった。
すでに動かない。
まるで物のように、地面へ横たわったまま放置されている。
誰かが助けようとした形跡もない。
ただ、その場に残されている。
ネネが口元を手で覆った。
「……ひどい」
震える声だった。
俺も目を逸らしたくなった。
けれど、逸らしてはいけない気がした。
これは現実だ。
さっきまで俺たちが話していた「盗賊」という言葉。
その結果が、目の前にある。
グリフは静かに手を上げた。
全員に止まるよう合図する。
そして、低い声で言った。
「まだ、俺たちには気づいていない」
五人の盗賊。
こちらは四人。俺とグリフ、アン、ネネだ。
ネネは駆け出しの商人で、冒険者ではない。戦う力はない。
つまり、実質的に戦えるのは三人。
だが、相手は人を襲うことに慣れている可能性がある。
俺たちは冒険者として魔物と戦ってきた。
それでも、人間を相手にするのは初めてだった。
俺は剣の柄を握りしめる。
手のひらに汗が滲んだ。
「……どうする?」
仲間が小さな声で尋ねた。
グリフは盗賊たちを見つめたまま答えなかった。
川の流れる音だけが聞こえる。
林の葉が風に揺れる。
そして、その向こうには五人の盗賊。
彼らはまだ、こちらに気づいていない。
――今なら、こちらが先に動ける。
そう。
奇襲だ。
俺たちは、盗賊を相手にすることを決めた。
人間だからといって、容赦するつもりはなかった。
いや――。
もしかすると、すでに盗賊を「人間」として見ていなかったのかもしれない。
目の前にいるのは、何の罪もない人間を襲い、命を奪い、そのまま放置する者たちだ。
少なくとも、俺たちにとってはそうだった。
グリフが静かに弓を構える。
矢を番える。
引き絞る。
その動作には、一切の迷いがなかった。
次の瞬間――。
ヒュッ!
矢が風を切った。
盗賊の一人が、こちらを振り向く。
だが、遅い。
矢は男の頭部へ突き刺さり、その身体が崩れ落ちた。
「な――」
残った盗賊たちが声を上げる。
だが、グリフはすでに次の矢を番えていた。
ヒュッ!
再び矢が放たれる。
盗賊たちに混乱が広がった。
「敵だ!」
「どこから――!」
叫び声が上がる。
俺は剣を抜いた。
こちらは四人。
俺とグリフ、そしてアン。
ネネは戦えない。
対して、盗賊は五人。
まともに正面からぶつかれば、こちらが不利だ。
だからこそ、奇襲だった。
最初の一撃で相手の人数を減らす。
混乱している隙に距離を詰める。
それしかない。
「行くぞ!」
俺は盾を構えて走り出した。
アンも後に続く。
グリフはその場に留まり、次の獲物へ狙いを定めている。
盗賊たちはようやく武器を手に取った。
だが、すでに陣形は崩れている。
俺は走りながら、もう一度だけ相手の人数を確認した。
四人。
最初の一人をグリフが倒した。
それでも、まだこちらより一人多い。
だから、油断はできない。
俺は盾を握り直した。
ここからが本当の戦いだ。
魔物ではない。
初めて戦う、人間の敵。
それでも――。
俺は足を止めなかった。
「ああ……そうだ」
その瞬間だった。
身体の奥から、あの感覚が蘇った。
周囲の時間だけが、ゆっくりと流れていく。
風に揺れる草。
舞い上がる砂埃。
盗賊の動き。
すべてが、まるで手に取るように見えた。
――この感覚だ。
以前、魔物と戦った時にも感じたもの。
極限まで集中した時だけ訪れる、不思議な感覚。
俺は迷わなかった。
一人の盗賊へ向かって駆ける。
正面からではない。
盗賊の左横へ飛び込む。
「なっ――!」
盗賊がこちらに気づき、武器を振り向けようとする。
だが、その動きよりも早く――。
俺は盾を突き出した。
盗賊の視界を遮るように盾を構え、俺自身の姿をその死角へ隠す。
――今だ。
盾の陰から剣を突き出す。
狙ったのは、首元。
確かな手応え。
盗賊の身体が大きく揺らぐ。
俺はすぐに距離を取った。
荒い息が漏れる。
さっきまでゆっくりに見えていた世界が、元の速さへ戻っていく。
周囲から怒号が聞こえた。
金属がぶつかる音。
グリフの放つ矢。
アンの叫び声。
すべてが一気に押し寄せてくる。
俺は剣を握ったまま、目の前の敵を見つめた。
――俺は今、人間を斬った。
その事実が、遅れて胸に突き刺さった。
けれど、立ち止まることはできない。
まだ戦いは終わっていない。
仲間を守るために。
そして、生きて帰るために。
俺は再び盾を構えた。
盗賊たちは、何が起きたのか理解できていなかった。
ほんの一瞬。
それだけだった。
仲間と話していたはずだった。
いつものように獲物を待っていた。
それなのに――。
気がつけば、一人が倒れている。
そして、もう一人も。
「な、なんだ……?」
「おい……嘘だろ……?」
盗賊たちの声が震える。
さっきまで隣で楽しそうに話していた仲間が、すでに動かない。
呼びかけても返事はない。
その現実を目の前に突きつけられ、盗賊たちの心は大きく乱れていた。
当然だった。
人を襲うことに慣れていたとしても、自分たちが突然襲われる側になった時、その恐怖は別物だ。
「逃げろ!」
誰かが叫んだ。
だが、どこへ逃げればいい。
目の前には俺たち。
背後には川。
そして周囲には林。
判断すらまともにできなくなっていた。
完全なパニック状態だった。
グリフはそんな盗賊たちを冷静に見つめていた。
弓を構える。
矢を番える。
そして――放つ。
ヒュッ!
動揺していた盗賊には、その矢を避ける余裕などなかった。
矢が命中する。
「ぐっ……!」
男の身体が大きく揺れ、そのまま地面へ倒れ込んだ。
動かない。
俺はその光景を見つめた。
さっきまで、五人いた。
それが今では、戦える者はわずかになっている。
ほんの数瞬前まで、彼らは自分たちが襲う側だった。
けれど今は違う。
狩る側と狩られる側が、完全に逆転していた。
――これが現実だ。
冒険者になれば、魔物と戦う。
傷つくこともある。
命を落とすこともある。
そして時には、人間とも戦うことになる。
俺は剣を握り直した。
胸の奥に、重いものが残っている。
けれど、ここで立ち止まるわけにはいかなかった。
すでに、勝敗は決していた。
残った盗賊は二人。
そのうち一人は、アンが投げた毒の玉をまともに受けていた。
「う……ぐ……」
男は苦しそうに地面へ膝をつく。
アンが使った毒がどれほど強いものなのか、俺には分からない。
ただ、男の様子を見れば、もはやまともに戦える状態ではないことだけは分かった。
そして、もう一人の盗賊は――。
「……参った」
手にしていた武器を地面へ落とした。
「俺は降参する。だから……もうやめてくれ」
その声には、先ほどまでの余裕はなかった。
俺は剣を構えたまま、男を見つめる。
罠かもしれない。
最後まで油断はできない。
グリフも弓を下ろさない。
「武器から離れろ」
俺が言うと、盗賊はゆっくりと両手を上げた。
「分かった……」
俺たちは慎重に距離を詰める。
そして、荷物を固定するために用意していたロープを取り出した。
両手を後ろに回させ、かなり強めに縛る。
さらに足元も簡単には動けないよう固定した。
「これでいい」
グリフが最後にロープを確認する。
盗賊は地面に座ったまま、抵抗する気力もないようだった。
俺は周囲を見渡す。
戦いは終わった。
さっきまで騒がしかった場所が、嘘のように静かになっている。
川の流れる音だけが聞こえる。
俺は剣を鞘へ戻した。
初めての人間との戦い。
勝った。
けれど、胸の中に残ったのは喜びではなかった。
ただ――重かった。
これが、冒険者として生きるということなのか。
俺はそう思いながら、倒れた盗賊たちへ視線を向けた。
そこに、罪悪感などなかった。
少なくとも、俺には。
弱い者が奪われ、強い者が奪う。
ただ、それだけのことだ。
この世界は、いつだってそうだった。
魔物に襲われる者がいる。
盗賊に襲われる者もいる。
そして、力を持つ者が生き残る。
俺は倒れ、動かなくなった盗賊を見つめた。
不思議と、胸は痛まなかった。
――これが現実だ。
俺とグリフが生まれ育った故郷も、そうだった。
強い者が弱い者から奪う。
奪われた者は、さらに弱い者から何かを奪おうとする。
そんなことが、当たり前のように繰り返されていた。
「……」
俺はしばらく黙っていた。
目の前の光景を見ているはずなのに、いつの間にか視界には別の景色が浮かんでいた。
少し昔の記憶。
まだ俺が冒険者になる前のこと。
グリフと一緒に過ごしていた、あの故郷。
あそこでも、世界は決して優しくなかった。
弱ければ奪われる。
力がなければ、何も守れない。
だから俺たちは、生きるために強くなるしかなかった。
剣を握った理由も。
盾を持った理由も。
冒険者になった理由も。
結局は、同じなのかもしれない。
――奪われないために。
俺は静かに息を吐いた。
そして、隣に立つグリフを見る。
グリフもまた、何も言わずに倒れた盗賊を見ていた。
その横顔を見ていると、きっと同じことを思い出しているのだろうと思った。
俺たちの故郷。
あの頃の記憶。
そして――。
今よりずっと弱かった、俺たち自身のことを。
そこから先、ラッカムまでの道中で、俺たちはほとんど会話をしなかった。
誰かが口を開くこともなかった。
ネネでさえ、荷車を引きながら黙っている。
俺も何も話さなかった。
別に、何かを感じていたわけではない。
恐怖でもない。
罪悪感でもない。
悲しみでもない。
ただ、静かだった。
――いや。
本当に何も感じていなかったのだろうか。
きっと違う。
俺たちはそれぞれ、何かを考えていた。
初めて人間を相手にしたこと。
目の前で人が倒れたこと。
そして、自分の手で人間を傷つけたこと。
誰も口にはしない。
けれど、誰も忘れてはいない。
街道を歩く。
荷車の車輪が、石を踏む音だけが響く。
遠くに見えていた低い山々が、少しずつ近づいてくる。
俺は前を向いたまま歩き続けた。
隣を歩くグリフも、何も言わない。
アンも同じだった。
ネネは時折、後ろを振り返る。
それでも、何も言わない。
たった一度の戦い。
それだけで、俺たちの中に何かが残った。
それが何なのか、今の俺には分からない。
ただ――。
あの日、ラッカムへ向かう街道を歩きながら。
俺たちはそれぞれ、初めて経験した「人間との戦い」について考えていたのだと思う。
誰も、それを言葉にはしなかった。
だから俺たちは、ただ黙って歩き続けた。
そうしている間に、俺たちはラッカムの街へ到着した。
街の門をくぐった時、ようやく張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
まず俺たちは、拘束していた盗賊の一人を衛兵へ引き渡した。
衛兵たちは街道で起きたことを聞くと、盗賊を引き取ってくれた。
ただ――。
もう一人の盗賊は、ラッカムへ辿り着くことができなかった。
アンの毒を受けた盗賊は、道中で息を引き取った。
俺たちはそのことを、特に口にしなかった。
そして冒険者ギルドへ向かい、依頼の完了を報告する。
「護衛依頼、達成ですね」
受付嬢が依頼書を確認する。
ネネも隣で頷いた。
「はい。無事にラッカムまで連れてきてもらいました」
こうして、俺たちの初めての護衛依頼は終わった。
報酬を受け取り、ネネとはここで一度別れることになった。
「私はしばらくラッカムに滞在する予定です」
「そうなのか?」
「はい。持ってきた商品を売らないといけませんから。それに、帰りの商品も探さないと」
ネネはそう言って笑った。
駆け出しの商人にとって、ここからが本番なのだろう。
プラムで仕入れた商品を売り、その金でラッカムの商品を仕入れる。
そして、また別の街へ運ぶ。
それを繰り返して、少しずつ商人として成長していく。
「じゃあ、またどこかで」
俺が言うと、ネネは笑顔で頷いた。
「はい! 皆さんも気をつけてくださいね」
俺たちはネネと別れた。
そして、ラッカムの街を見渡す。
プラムとは違う景色。
違う人々。
そして、違う空気。
ここまで来た目的は一つ。
装備を新しくすること。
俺は腰の剣と手にした盾を見る。
傷だらけになった武器と防具。
ここから先の冒険に備えて、俺たちは新しい装備を探す。
ラッカムでの新しい生活が、始まろうとしていた。




