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冒険の書  作者: siva5880


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1/53

始まりは突然

――暗い。


 何も見えない。


 聞こえるのは、自分の荒い呼吸だけだった。


「……っ」


 ゆっくりと目を開ける。


 最初に見えたのは、ぼんやりとした天井だった。


 次第に視界が戻ってくる。


 そして――。


「お、起きたか」


 目の前に、一人の男が立っていた。


 レイン。


 冒険者訓練場で教官を務める、熟練の冒険者だ。


 片手には木刀。


 もう片方の腕には訓練用の盾。


 木刀は俺の顔のすぐ横に構えられている。


「……レイン……?」


「大丈夫か? 今のは軽く当てただけなんだが」


「……軽く……?」


 頭がズキッと痛んだ。


 どうやら俺は、訓練中に一発もらったらしい。


 身体を起こそうとすると、レインが盾を下ろして手を差し出してきた。


「無理するな。まず立てるか確認しろ」


「……はい」


 その手を掴む。


 引き起こされながら、俺は周囲を見渡した。


 ここは冒険者訓練施設。


 見慣れた木造の訓練場だった。


 どうして俺は倒れていたんだ?


 何をしていた?


 記憶を辿ろうとした、その時だった。


「今日の訓練はここまでだ」


 レインが木刀を肩に担ぐ。


「最初に比べれば、だいぶ動けるようになったな」


「……本当ですか?」


「ああ。ただし――」


 レインは少しだけ真剣な顔をした。


「実戦では、今みたいに一発食らって倒れたら終わりだ」


 その言葉が妙に胸に残った。


 この時の俺は、まだ知らなかった。


 この何気ない訓練の日々が――


 後に、自分の人生を大きく変えることになるとは。


どうやら俺は、盾の使い方を理解していなかったらしい。


「盾は攻撃を防ぐためだけのものじゃない」


 レインはそう言うと、木刀を構え直した。


「こういう使い方もある」


 次の瞬間。


 レインは盾を前に突き出した。


 ドンッ!


 鈍い音が訓練場に響く。


 盾の縁が、俺の胸元を捉えていた。


「うわっ!」


 思わず後ろによろめく。


「今のが盾打ちだ。相手の体勢を崩すには十分な威力がある」


「盾で……攻撃を?」


「ああ」


 レインは盾を構えたまま続ける。


「防御しながら相手との距離を詰める。そして盾で相手の体勢を崩す。そこから木刀で攻撃する」


 言われてみれば単純なことだった。


 俺は今まで、盾とは敵の攻撃を受け止めるためだけの道具だと思っていた。


 だから攻撃するときは盾を下げ、木刀だけに意識を向けていた。


 しかしレインは違う。


 盾を構えたまま動き、盾そのものを武器として使っている。


「つまり……盾でも攻撃できるってことですか?」


「できる。むしろ盾を使えるようになると、戦い方の幅が一気に広がる」


 レインが盾を軽く叩く。


「防いで終わりじゃない。防いだ瞬間を、こっちの攻撃に繋げるんだ」


 その言葉を聞いて、俺はもう一度自分の盾を見た。


 今までただの防具だと思っていたものが、急に別のものに見えてきた。


「……もう一回、やってみます」


「いい顔になったな」


 レインが笑う。


「じゃあ次は、俺の盾を突破してみろ」


 俺は盾を構え直した。


 今度は、防ぐだけじゃない。


 この盾を――攻撃にも使ってみる。


 俺が盾の扱いを覚えている一方で、少し離れた場所では別の訓練が行われていた。


「……そこだ!」


 ヒュッ!


 放たれた矢が、訓練場の奥に設置された的の中心へ突き刺さる。


「よし!」


 弓を下ろしたのは、俺の親友――グリフだった。


 俺とは違い、グリフは剣も盾も使わない。


 彼が選んだのは、斥候。


 敵の位置を探り、味方より先に戦場を見渡し、遠距離から敵を削る。


 その戦い方の中心にあるのが弓だった。


 遠距離では弓。


 敵との距離が縮まれば、移動しながら弓を撃ち込む。


 そして、どうしても接近戦になった時は――


「来い!」


 グリフは腰から短剣を抜いた。


 相手役の訓練人形へ素早く踏み込み、攻撃をかわす。


 真正面から力でぶつかるのではない。


 一歩横へ。


 さらに一歩。


 相手の死角へ回り込み、短剣を突きつける。


「そこまで!」


 教官の声が響いた。


 グリフは短剣を収める。


「どうだ?」


 こちらに気づいたグリフが笑った。


「俺は盾で殴るより、こっちのほうが性に合ってるよ」


「お前は昔から逃げ足だけは速かったからな」


「それ、褒めてる?」


「たぶん」


 グリフは苦笑した。


 俺たちは戦い方こそ違う。


 俺は剣と盾を使って前に立つ。


 グリフは弓を使って後方や側面から敵を狙い、必要なら短剣で接近戦をこなす。


 だが、不思議と相性は悪くなかった。


 むしろ――


 俺が敵の注意を引きつけ、グリフがその隙を狙う。


 そんな連携が、俺たち二人の基本になっていた。


冒険者訓練所。


 ここは、各国に設置されている冒険者ギルドが運営している施設だ。


 冒険者を目指す者なら、誰でも利用することができる。


 ――ただし、無料ではない。


 剣術、盾術、弓術。


 斥候としての索敵や野外活動。


 魔物との戦い方や、傷を負った際の応急処置。


 それぞれに専門の教官がいて、訓練を受けるにはそれなりの金が必要になる。


 俺たちにとっては決して安い金額ではなかった。


 それでも、ここで学ぶ価値はある。


 なぜなら、この世界は――訓練もせずに冒険者になって、魔物を倒して生きていけるほど甘くないからだ。


 魔物は、こちらが初心者だからといって手加減してくれるわけではない。


 ゴブリン一匹。


 それすら、油断すれば命を奪われる。


 ましてや、森の奥にいる大型の魔物や、群れで襲ってくる魔物ともなれば、素人に勝ち目などない。


「冒険者って、もっと簡単になれるものだと思ってたよ」


 グリフが弓の手入れをしながら呟いた。


「俺もだ」


 俺は盾を見つめる。


 冒険者になれば、魔物を倒して金を稼げる。


 そんな単純なものだと思っていた。


 だが、訓練を受ければ受けるほど分かってくる。


 冒険者という仕事は――命を懸ける仕事なのだ。


 だからこそ、ギルドは訓練所を用意している。


 金を払ってでも、生き残るための技術を身につける。


 それが、この世界で冒険者になるための最初の一歩だった。


この訓練所で教えてくれるのは、戦い方だけじゃない。


 魔物の種類や習性。


 仲間と戦うための陣形。


 森や山で生き残るためのサバイバル術。


 そして――野営。


 火の起こし方、簡単な調理方法、食料や水の確保。


 冒険者として生きていくために必要なことを、一通り叩き込まれる。


 訓練期間は数週間。


 その費用は――銀貨五枚。


「……銀貨五枚か」


 改めて考えると、やっぱり高い。


 俺たち冒険者にとっては、とんでもない大金だ。


 この世界では、銅貨百枚で銀貨一枚。


 そして、銅貨五枚もあれば、それなりの食堂で腹いっぱい飯が食える。


 つまり銀貨一枚で、単純計算なら二十食分。


 銀貨五枚なら――百食分。


「……やっぱり高いな」


 思わず呟く。


「何を今さら」


 隣にいたグリフが笑う。


「でも、百食分の飯と引き換えに、魔物に殺される確率を下げられるんだぜ?」


「そう言われると安く感じるから不思議だな」


「だろ?」


 俺たちは顔を見合わせて笑った。


 銀貨五枚。


 俺たちにとっては大金だ。


 けれど、この数週間で学ぶものを考えれば――払う価値は十分にある。


 野外で火を起こせなければ凍える。


 食料の扱いを間違えれば腹を壊す。


 魔物の習性を知らなければ、待ち伏せされる。


 陣形を知らなければ、仲間同士で足を引っ張る。


 そして、戦い方を知らなければ――死ぬ。


 冒険者になるというのは、剣や弓を持って魔物を倒すだけじゃない。


 生きて帰るために必要な知識を、すべて身につけることなのだ。


新人冒険者の中でも、ひときわ目立つ男がいる。


 ライール。


 とにかくデカい。


 そして――声もデカい。


「おっしゃあああ! もう一回お願いします!!」


 訓練場の端まで響き渡る大声。


「声までデカいんだよ、あいつ……」


 グリフが耳を塞ぐ。


 俺も思わず苦笑した。


 だが、ライールが目立つ理由は、それだけじゃない。


 あいつは新人の中でも、明らかに頭一つ抜けた実力を持っていた。


 つい先日なんて――


「うおおおおっ!」


 訓練中、教官に組みついたライールが、そのまま身体をひねった。


 ドサッ!


 なんと、訓練教官を投げ飛ばしたのだ。


 周囲が一瞬、静まり返った。


「……え?」


 俺もグリフも、目を疑った。


 教官はすぐに立ち上がったものの、さすがに驚いた顔をしている。


「……お前、本当に新人か?」


「はい!」


 ライールは満面の笑みで答えた。


「今日から冒険者になります!」


「いや、そういう意味じゃない……」


 教官が頭を抱える。


 俺はライールを見ながら思った。


 ――本当に、俺たちと同い年なのか?


 体格も違う。


 力も違う。


 何より、あの自信。


 同じ新人冒険者とは思えなかった。


「まあ、あいつが前に立ってくれたら頼もしいけどな」


 グリフが呟く。


「……敵に回したくはないな」


 俺がそう答えると、グリフは苦笑した。


「それには同感だ」


 こうして俺たちは、少しずつ仲間やライバルと出会いながら、冒険者としての第一歩を踏み出していった。


この世界には、魔法も存在する。


 剣や弓だけが冒険者の武器じゃない。


 炎を操り、風を起こし、大地を動かす。


 そして、その中でも特に扱いが難しいのが――魔法だ。


 魔法を使うには才能が必要だ。


 努力だけではどうにもならない部分もある。


 だからこそ――


 魔法の才を持っているだけで、新人冒険者の中ではすでに一歩先を進んでいる。


 そんな新人の一人が、女魔法使いのユナだった。


「……凍れ」


 ユナが静かに手をかざす。


 次の瞬間。


 パキパキッ――!


 地面を這うように氷が広がり、訓練用の標的を一瞬で包み込んだ。


「おお……」


 周囲から驚きの声が上がる。


 ユナが得意とするのは、氷属性の魔法。


 炎や風の魔法を使う新人もいる中で、彼女の氷魔法は明らかに威力が違っていた。


「すげえな……」


 グリフが呟く。


「俺たち、まだ木刀や弓の扱いで苦労してるっていうのに」


「魔法って便利だな」


 俺がそう言うと、ユナがこちらを振り向いた。


「……便利なだけじゃないわ」


「え?」


「魔法だって、使い方を間違えれば自分や仲間を傷つける。魔力だって無限じゃない」


 そう言って、ユナは少し疲れたように息を吐いた。


 なるほど。


 魔法使いも楽なわけじゃないらしい。


 それでも――


 彼女が新人冒険者の中で一歩先を進んでいることは間違いなかった。


 ライールの圧倒的な力。


 グリフの弓と短剣。


 そしてユナの氷魔法。


 俺たちはそれぞれ違った才能と戦い方を持っていた。


一日の訓練を終えた俺たちは、簡単に水浴びを済ませて食堂へ向かった。


 汗と土を流しただけの簡素なものだ。


 身体の疲れは、ほとんど取れていない。


「腹減った……」


 グリフが腹を押さえながら食堂へ入る。


 俺たちの前に並べられた夕食は――


 硬いパン。


 そして、豆の入ったスープ。


「…………」


 俺は黙ってパンを見つめた。


 パンを手で割ろうとすると、なかなか割れない。


「これ、武器になるんじゃないか?」


 グリフがパンを叩きながら言った。


「やめろ。歯が折れるぞ」


 俺は苦笑する。


 スープを一口飲む。


 ……うん。


 豆の味はする。


 ちゃんと腹も満たせる。


 だが――


「これで銀貨五枚……?」


 思わず口に出してしまった。


 訓練費は銀貨五枚。


 決して安くない。


 それなのに、食事は硬いパンと豆のスープ。


「俺、本当に銀貨五枚払ってよかったのかな……」


 グリフが遠い目をする。


「文句言うなよ。食えるだけマシだろ」


 そう言いながらも、グリフは硬いパンを必死に噛んでいる。


 向かいではライールが、


「うまい!」


 と大声でスープをかき込んでいた。


「お前は何でもうまそうに食うな……」


「腹が減ってりゃ何でもうまい!」


 ……確かに。


 そして、その隣ではユナが黙々とスープを飲んでいた。


「ユナは何とも思わないのか?」


「別に」


 ユナは淡々と答えた。


「訓練を受けられて、食事まで出るんだから十分でしょ」


「……まあ、それもそうか」


 俺はもう一度、パンを眺めた。


 確かに豪華ではない。


 でも、今日一日で身体は限界まで鍛えられた。


 腹は減っている。


 そんな状態なら――


「……いただきます」


 俺は硬いパンをスープに浸した。


 少し柔らかくなったところで、口に運ぶ。


「……あ」


 思ったより、うまかった。


 結局その日の夕食は、全員が一言も文句を言わずに平らげた。


 銀貨五枚の価値があるのか。


 その答えが分かるのは――


 もう少し先のことだった。


俺とグリフは同じ部屋だ。


 部屋は簡素で、ベッドが二つと小さな机が一つあるだけ。


 一方、ライールとユナはそれぞれ別の部屋を使っている。


 ベッドに腰を下ろすと、グリフが大きく息を吐いた。


「今日も疲れたな……」


「特に午後の訓練はきつかった」


「明日はもっと厳しくなるらしいぞ」


「……聞かなかったことにしよう」


 二人で笑う。


 しばらく今日の訓練について話していると――


「お前たち」


 部屋の入口から声がした。


 振り返ると、そこにはレインが立っていた。


「まだ起きているのか?」


「はい。少し話をしていて……」


「もう寝ろ」


 レインは腕を組んだ。


「冒険者にとって、眠りは戦うことと同じくらい大事だ」


 疲れが残れば反応が遅れる。


 判断力も落ちる。


 魔物との戦いでは、それが命取りになる。


「鍛えるだけが訓練じゃない。しっかり食って、しっかり眠る。それも冒険者としての基本だ」


「分かりました」


「明日は朝から訓練だ。寝坊するなよ」


 そう言ってレインは部屋を出ていった。


「……レインさん、意外と面倒見いいよな」


 グリフが呟く。


「そうだな」


 俺はベッドに横になる。


「じゃあ、俺たちも寝るか」


「ああ」


 明日もまた、厳しい訓練が待っている。


 俺は目を閉じた。


 今日より少しでも強くなるために――。


 訓練期間も終盤に差しかかると、訓練の内容は大きく変わっていった。


 訓練場の中だけではない。


 実際に外へ出る。


 野営を行い、森を歩き、魔物を探す。


 そして――実戦で戦う。


 もちろん、新人だけで森へ入るわけではない。


 複数人の先輩冒険者が教官として同行する。


 何かあればすぐに助けられる距離を保ちながら、俺たち自身の力で魔物と戦う。


 実戦形式の最終訓練。


 それが、この訓練所の仕上げだった。


 近隣の森に出現する魔物は、特別珍しいものではない。


 ウルフ。


 ゴブリン。


 スライム。


 どれも、この大陸に限らず世界中のあちこちで確認されている、ごく普通の魔物だ。


 強大な竜や、伝説に登場するような怪物が相手というわけじゃない。


 だから――大したことはない。


 最初は、そう思っていた。


 だが、レインは俺たちに何度も言っていた。


「魔物が弱いからといって、死なないわけじゃない」


 人間は弱い。


 それは、冒険者になろうとしている俺たちも同じだ。


 ゴブリンが粗末な棍棒を振り回している。


 たったそれだけでも――まともに頭へ食らえば致命傷になる。


 ウルフの牙も同じだ。


 噛みつかれれば、肉を裂かれる。


 首や腹を噛まれれば、それだけで命を落とすことだってある。


 スライムだって油断できない。


 種類によっては、身体を溶かしたり、武器や防具を傷めたりするものもいる。


「冒険者が死ぬのは、強い魔物と戦った時だけじゃない」


 レインの言葉が頭に残っている。


「油断した時だ」


 俺たちは剣や盾を持っている。


 グリフは弓と短剣を持っている。


 ユナには魔法がある。


 ライールには並外れた力がある。


 それでも――身体そのものは普通の人間だ。


 だからこそ、訓練する。


 敵を知り、仲間と連携し、周囲を警戒する。


 そして、生きて帰る。


 森で行われる最後の実戦訓練は、俺たちにとって初めての本当の戦いになる。


 そこで初めて知ることになる。


 魔物を倒すことよりも――


 魔物に殺されないことのほうが、ずっと難しいということを。


 この屋外活動で、死者が出たことは一度もない。


 少なくとも、俺たちはそう教えられていた。


 だが、過去には大怪我を負った新人もいるらしい。


 だからこそ、誰も油断はしていなかった。


 今回の野外活動に参加しているのは、教官三名と新人冒険者八名。


 俺たちは一定の距離を保ちながら、森の中を進んでいた。


 先頭を進んでいるのは斥候の教官。


 その後ろには、同じく斥候として訓練を受けているグリフ。


 ちなみに、斥候教官の名前は――とても長い。


 俺には正確に覚えられなかった。


 だが、グリフは親しげに、


「ジェイさん」


 と呼んでいる。


「……静かに」


 ジェイさんが足を止めた。


 グリフもすぐに弓を構える。


 俺たちも足を止めた。


「どうしました?」


 ライールが小声で尋ねる。


 ジェイさんは川の方へ視線を向けた。


「この先の川沿いに、ゴブリンが三体いる」


「三体……」


 思わず息を呑む。


 話には聞いていた。


 ゴブリン。


 どこにでもいる、ごく普通の魔物。


 けれど、実際に遭遇するとなると話は違う。


 俺は盾を構え直した。


 グリフは弓に矢をつがえる。


 ユナも杖を握り直した。


 ライールは拳を握る。


 周囲の新人たちにも緊張が走った。


「慌てるな」


 ジェイさんが静かに言う。


「三体なら、こちらのほうが数は多い。だが、数だけで判断するな」


 その言葉に、全員が耳を傾ける。


「ゴブリンが何を持っているか、どこにいるか、周囲に他の個体がいないか。それを確認してから動く」


 グリフが小さく頷いた。


「ジェイさん、俺が先に確認します」


「ああ。頼む」


 グリフが音を立てないように前へ進む。


 俺たちはその場で待つ。


 やがてグリフが戻ってきた。


「確認しました。三体です。川沿いで何か食べています。武器は棍棒が二本と、短い刃物を一本」


「他にいない?」


「今見える範囲では」


 ジェイさんが頷く。


「よし。では――」


 その瞬間、俺の心臓が大きく跳ねた。


 これが、初めての実戦だ。


 訓練用の木刀ではない。


 訓練用の人形でもない。


 あの先にいるのは――本物の魔物だ。


川沿いにいた三体のゴブリン。


 遠目には、それほど大きくは見えない。


 人間よりも背が低い。


 この世界では、ゴブリンは「弱い魔物」に分類されている。


 だが――実際に見ると、その印象は少し違った。


 身体は小さい。


 それなのに、腕や脚は異様なほど筋肉質だった。


 あの身体から、どれほどの力が出るのだろう。


 口元から覗く牙も恐ろしい。


 噛みつかれれば、簡単に肉を食いちぎられそうだ。


「……あれがゴブリン」


 俺は思わず呟いた。


 さらに気になったのは、奴らが身につけている装備だった。


 一体は棍棒。


 もう一体は短剣。


 そして三体目は――盾を持っている。


「……あれ」


 グリフが小声で言った。


「どうした?」


「あの盾……」


 俺も目を凝らす。


 盾には傷がいくつもついていた。


 ゴブリンが自分たちで作ったものには見えない。


「……冒険者の装備じゃないか?」


 ジェイさんが静かに答えた。


「おそらくな」


 背筋に寒気が走る。


 つまり、あのゴブリンたちは――


 誰かから装備を奪ったということだ。


 考えたくはない。


 だが、その可能性を否定することもできない。


 ゴブリンは弱い。


 そう教えられてきた。


 けれど、武器を持てばどうなる?


 盾まで使えば?


 もし冒険者から奪った装備を使いこなしているのだとしたら――


「気を抜くな」


 ジェイさんの声が低く響いた。


「相手はゴブリンだ。だが、ただのゴブリンと思って戦うな」


 俺は盾を握り直した。


 あいつらの体格は、俺たちより小さい。


 だが、それだけで安心できる理由にはならない。


 棍棒で殴られれば骨が折れる。


 短剣で刺されれば死ぬ。


 噛みつかれれば、致命傷になる。


 そして――


 盾を持ったゴブリンは、こちらの攻撃を防ぐことさえできる。


 俺は自分の盾を見た。


 昨日までなら、ただの防具だと思っていた。


 だが今は違う。


 あのゴブリンも、盾を使っている。


 ――ここから先は訓練じゃない。


 俺たちが初めて、本物の魔物と向き合う瞬間だった。


そう。


 始まりは、突然だった。


 ヒュッ――!


 最初に飛んだのは、グリフの矢だった。


 ほとんど同時に、別の方向からも矢が飛ぶ。


 ジェイさんだ。


 二本の矢が、ゴブリンへ向かって一直線に飛んでいく。


「ギャッ!」


 一体のゴブリンが叫び声を上げて倒れた。


 残った二体がこちらに気づく。


 だが、もう遅い。


「行け!」


 ジェイさんの声が響いた。


 俺たちは一斉に動き出した。


 これが――奇襲。


 訓練では教えられなかった。


 いや、正確には教えられていた。


 「敵に気づかれる前に仕留めろ」


 それだけだった。


 正々堂々?


 卑怯?


 そんなものは、この世界では関係ない。


 相手は俺たちを殺そうとしてくる魔物だ。


 ならば、こちらも生き残るために手段を選ばない。


 弱い奴が死ぬ。


 油断した奴が死ぬ。


 それが、この世界だ。


「来るぞ!」


 誰かの声が飛んだ。


 盾を持ったゴブリンが、こちらへ突っ込んでくる。


 小さな身体。


 だが、その脚力は想像以上だった。


 盾を構え、棍棒を振り上げる。


 俺は盾を構えた。


 ――怖い。


 訓練では感じなかった恐怖が、身体の奥から湧き上がってくる。


 あれは木刀じゃない。


 あれは訓練用の武器じゃない。


 当たれば――死ぬ。


 ガンッ!


 ゴブリンの棍棒が盾に叩きつけられた。


 腕が痺れる。


「ぐっ……!」


 想像以上の力だった。


 俺は必死に踏ん張る。


 目の前にいるのは、弱いとされている魔物。


 それでも――


 俺を殺すには十分な力を持っている。


 これが実戦。


 これが冒険者。


 そして、この世界では――


 生き残った者だけが、次の朝を迎えられる。


 ガンッ!


 ゴブリンの棍棒が盾に叩きつけられる。


「ぐっ……!」


 だが、ここで退くわけにはいかない。


 俺は盾を握り直した。


 レインの言葉が頭をよぎる。


 ――盾は防ぐだけじゃない。


「うおおっ!」


 俺は身体ごと盾を突き出した。


 ドンッ!


「ギャッ!」


 盾がゴブリンの身体を弾き飛ばす。


 小さな身体が大きくよろめいた。


 体勢が崩れる。


 その瞬間――


「任せろおおおっ!」


 轟くような声。


 ライールだった。


 両手で巨大な斧を振り上げている。


「うおおおおおっ!」


 ドォンッ!


 振り下ろされた斧が、ゴブリンを一撃で吹き飛ばした。


 あまりの威力に、俺は言葉を失った。


「……」


 ライールは斧を構え直す。


「大丈夫か!」


「あ、ああ……」


 返事をしながらも、俺はライールの斧を見ていた。


 あれは……新人の力なのか?


 訓練中に教官を投げ飛ばした時も思った。


 だが、実際の戦闘で見ると、その力はさらに異常だった。


 俺が盾で作ったほんの一瞬の隙。


 そこへライールが全力の一撃を叩き込む。


 たったそれだけ。


 それだけで、戦いが終わった。


「今の連携、よかったぞ!」


 後ろからレインの声が飛んでくる。


 俺は自分の盾を見つめた。


 昨日までは、ただ攻撃を防ぐための道具だと思っていた。


 だが違う。


 防ぐ。


 弾く。


 相手の体勢を崩す。


 そして――仲間の攻撃へ繋げる。


 俺たちは、今初めてそれを実戦で成功させた。


 けれど――


 まだ一体、残っている。


 俺は盾を構え直した。


 戦いは、終わっていない。


 最後に残ったゴブリンは、仲間の姿を見た。


 地面に倒れた二体の仲間。


 その光景を目にした瞬間、ゴブリンの顔から戦意が消えた。


「ギギッ……!」


 踵を返す。


 そして、森の奥へ向かって走り出した。


「逃げた!」


 グリフが弓を構える。


「待て!」


 そのまま追いかけようとしたグリフの肩を、ジェイさんが掴んだ。


「・・・まだ倒せます!」


「駄目だ」


「でも――」


「深追いするな」


 ジェイさんの声は静かだった。


 グリフが森の奥を見る。


 逃げていくゴブリンの姿は、すでに木々の向こうへ消えかけている。


「周囲を見ろ」


 言われて、俺も辺りを見渡した。


 いつの間にか、森は薄暗くなっていた。


 木々の間から差し込んでいた夕方の光も、もうほとんど残っていない。


「……暗くなってきてる」


「そうだ」


 ジェイさんは頷く。


「今から森の奥へ入れば、俺たちだって迷う。魔物が潜んでいる場所へ、わざわざ自分から入っていく必要はない」


 グリフは悔しそうに弓を下ろした。


「でも、あいつを逃がしたら……」


「逃げた魔物を一匹追うために、八人の新人と教官三人全員を危険に晒すのか?」


「……」


 グリフは何も言えなくなった。


 ジェイさんは森の奥を見つめる。


「冒険者にとって、深追いは禁物だ」


 その言葉が、妙に重く聞こえた。


 敵を倒すことだけが冒険者の仕事じゃない。


 危険を察知して、引く。


 それもまた、生き残るために必要な判断なのだ。


「今日はここまでだ」


 ジェイさんが告げる。


「周囲を確認してから、野営地へ戻るぞ」


 俺たちは頷いた。


 初めての実戦。


 ゴブリン三体。


 そのうち二体を倒し、一体を逃がした。


 勝った――のだと思う。


 けれど、森の奥へ消えていった最後の一体を見ながら、俺は思った。


 もし、あのまま追いかけていたら。


 暗闇の中で、別の魔物に遭遇していたら。


 俺たちの誰かが、死んでいたかもしれない。


 冒険者にとって――


 「戦わない」という選択も、生き残るための戦いなのだ。


 野営地へ戻ると、すでに日が沈みかけていた。


 焚き火の周りでは、教官たちが野営の準備を進めている。


 俺たちも荷物を下ろし、ようやく一息ついた。


 その少し離れた場所で――


「こっちは終わりました」


 しゃがみ込んで作業をしている二人の姿があった。


 教官のマール。


 そしてもう一人は、新人冒険者のアンジェラ。


 みんなからは親しみを込めて「アン」と呼ばれている。


 二人が作業しているのは、俺たちが倒した二体のゴブリンだった。


「アン、そっちを押さえてくれ」


「はい、マールさん」


 二人は手際よくゴブリンの死体を解体していく。


「……解体も訓練に入ってたんだな」


 俺が呟くと、グリフが頷いた。


「魔物を倒したら終わりじゃないからな」


 魔物の身体からは、素材として利用できるものがある。


 皮。


 牙。


 爪。


 魔物によっては、魔石などの貴重な素材が取れる。


 それらをギルドへ持ち帰れば、冒険者にとって大切な収入になる。


「アン、怖くないのか?」


 ライールが尋ねる。


「最初は少し怖かったよ」


 アンはそう答えながらも、手を止めない。


「でも、冒険者になるなら慣れないとね」


 その言葉に、俺は改めて周囲を見渡した。


 昼間まで、俺たちは訓練所で木刀を振っていた。


 そして今は、実際に倒した魔物を前にしている。


 これが冒険者の仕事なのだ。


 戦って。


 倒して。


 素材を回収する。


 それでようやく、今日の仕事が終わる。


 マール教官が立ち上がった。


「よし。二体とも終わりだ」


 アンも立ち上がり、手を洗う。


「お疲れさまでした」


「おう。初めてにしてはよくやった」


 アンは少し照れたように笑った。


 俺たちはそれぞれ違う方法で、この冒険者という仕事を学んでいる。


 剣と盾。


 弓と短剣。


 魔法。


 斧。


 そして――魔物の解体や素材の扱い。


 訓練所で学んできたことが、少しずつ現実のものになり始めていた。


 野外活動にも、少しずつ慣れてきた。


 森の中を歩く。


 平地を歩く。


 足跡を探し、草木の乱れを見つけ、風向きを確認する。


 敵に見つからずに進むための警戒。


 そして、魔物を追跡するための技術。


 戦うだけが野外活動ではない。


 むしろ、戦わずに危険を避けることのほうが重要な場合もある。


「……止まれ」


 先頭を歩いていたジェイさんが手を上げた。


 全員が足を止める。


「何かいる」


 俺たちは身を低くして、前方へ視線を向けた。


 聞こえてきたのは――


「ガルルゥッ!」


「ギギギッ!」


 魔物の叫び声。


 木々の隙間から、その姿が見えた。


 ウルフが複数。


 そして、四体のゴブリン。


 どうやら互いに戦っているようだった。


 ウルフが群れでゴブリンへ飛びかかる。


 ゴブリンは棍棒や短剣を振り回し、必死に応戦している。


「……縄張り争いか」


 ジェイさんが呟いた。


 俺たちは息を潜めて、その戦いを見守った。


 ウルフとゴブリン。


 どちらも、この世界では珍しくない魔物だ。


 だが――魔物同士だからといって、仲が良いわけではない。


 縄張りが重なれば争う。


 食料を奪い合う。


 弱った相手がいれば襲う。


 そこに善悪なんてない。


 ただ、生きるために戦っている。


 ウルフが一体のゴブリンへ噛みつく。


 ゴブリンが悲鳴を上げ、棍棒を振り回す。


 別のゴブリンがウルフへ短剣を突き立てる。


 血が地面へ落ちる。


 俺は思わず息を呑んだ。


「……怖いな」


 グリフが小声で言った。


 ジェイさんが頷く。


「魔物にとっても同じだ。生きるために戦っている」


 ライールがじっと戦場を見つめる。


「じゃあ、あいつらも俺たちと同じってことか?」


「違う」


 ジェイさんは静かに答えた。


「同じなのは、生きようとしていることだけだ」


 ウルフが吠える。


 ゴブリンが叫ぶ。


 どちらも相手を殺そうとしている。


 そこに正義も悪もない。


 ただ――


 食うか、食われるか。


 この世界では、それが当たり前なのだ。


戦いは、しばらく続いた。


 ウルフの群れが一斉に飛びかかり、ゴブリンたちは必死に武器を振り回す。


 だが――


「一体、倒れた」


 グリフが小声で呟いた。


 ウルフが一体、地面に倒れている。


 しかしゴブリン側も無傷ではない。


 棍棒を握る腕から血を流している個体。


 脚を引きずっている個体。


 明らかに動きの鈍くなっている個体もいる。


 どちらも、もう限界に近い。


 そして俺は気づいた。


 ――これは、まさに漁夫の利だ。


 俺たちは今、戦いをしているわけじゃない。


 戦いの「終わり」を待っている。


 ウルフとゴブリン。


 どちらが勝っても、勝った側は傷を負っているだろう。


 そこへ、別の誰かが現れれば――


「……最後に立っていた奴が、全部持っていく」


 俺が呟くと、ジェイさんが静かに頷いた。


「そういうことだ」


 やがて、ウルフの数が減っていく。


 ゴブリンも一体、また一体と倒れていく。


 最後まで立っていたのは――


 傷だらけのゴブリンだった。


 肩で息をしながら、周囲を警戒している。


 勝った。


 だが、無傷ではない。


 むしろ、今なら簡単に倒せそうなくらい弱っている。


 俺たちは黙ってその姿を見つめた


 さっきまで激しく争っていた二種類の魔物。


 そこに勝者も敗者もない。


 ただ、生き残った者だけがいる。


「覚えておけ」


 ジェイさんが言った。


「森では、こういうことがいくらでも起きる」


 俺はその言葉を聞きながら、傷だらけのゴブリンを見つめた。


 ――最後に勝った奴が、全部を手にする。


 それが正しいのか、間違っているのか。


 そんなことを考える余裕すら、この世界にはないのかもしれない。


 生き残った者が、次へ進む。


 ただ、それだけだ。


屋外活動を終え、俺たちは街へ戻った。


 ギルドへ魔物の素材を持ち込む。


 ウルフの牙や毛皮。


 ゴブリンから回収した武器や素材。


 それらを一つずつ査定してもらう。


 すべて買い取ってもらった結果、俺たちの手元に残ったのは――銅貨だった。


 そこからさらに、訓練所の費用として立て替えてもらっていた分が差し引かれる。


 残った金を新人たちで分配する。


 そして俺の手に残ったのは――


 銅貨五枚。


「……五枚」


 掌の上に乗った五枚の銅貨を見つめる。


 たった五枚。


 俺たちは何日も訓練した。


 森を歩き、魔物を探し、実際に命を懸けて戦った。


 怪我をする危険だってあった。


 それで手に入ったのが、銅貨五枚。


 もちろん、今回の活動は訓練の一環だ。


 普段の冒険者なら、もっと多くの魔物を倒し、もっと多くの素材を集めることになる。


 それでも――


「一食分か」


 グリフが俺の手元を覗き込む。


「ちょうど腹いっぱい食えるくらいだな」


「……ああ」


 俺は銅貨を握りしめた。


 冒険者になれば、魔物を倒して金を稼げる。


 そう思っていた。


 だが、現実はそんなに甘くない。


 装備を買う。


 食料を用意する。


 宿を取る。


 怪我をすれば治療費もかかる。


 そして、ギルドへの手数料や、今回のような訓練費用もある。


 命を懸けて働いても、手元に残る金はわずか。


 それでも――


 俺は五枚の銅貨を握りしめた。


 これが、俺たちの最初の報酬だ。


 これが――


 冒険者として生きるということなのだ。


 これが現実だ。


 屋外活動を終えた俺たち新人冒険者は、冒険者訓練所を卒業した。


 数週間。


 剣や盾の扱いを学び、魔物の知識を学び、野営や追跡術を学んだ。


 そして最後には、本物の魔物とも戦った。


 これで、俺たちはもう教官に守られる新人ではない。


 これからは、自分たちの力でこの世界を生き抜かなければならない。


 ――この、残酷な世界を。


 訓練所を出た俺は、背負った荷物を見つめた。


 装備は十分とは言えない。


 金もない。


 冒険者としての経験だって、まだほとんどない。


 それでも、俺たちは歩き出した。


 グリフも隣にいる。


 ライールもいる。


 ユナも、アンも。


 これから先、俺たちは何度も魔物と戦うことになるだろう。


 傷つくこともある。


 仲間を失うことだってあるかもしれない。


 でも――


 俺たちは知らなかった。


 いや。


 正確には、俺とグリフだけは知っていた。


 この世界が、本当はどれほど残酷なのかを。


 あの日。


 すべては突然だった。


 俺たちの故郷である小さな集落が、魔物に襲われた。


 昨日まで普通に暮らしていた場所。


 家があり、畑があり、家族がいた。


 それが、一晩で消えた。


 父も。


 母も。


 友人も。


 知っている人たちも。


 何人もの人間が、魔物に殺された。


 生き残ったのは、ほんの数名だった。


 俺も、その一人。


 グリフも、その一人だった。


 どうして自分たちだけが生き残ったのか。


 今でも分からない。


 ただ一つ分かったことがある。


 あの日、俺たちは思い知らされた。


 この世界では――


 弱い奴に、生き残る資格なんてない。


 魔物は、弱い者から奪う。


力が無ければ、家族も故郷も簡単に失う。


 だから俺たちは、強くならなければならない。


 もう二度と、大切なものを奪われないために。


 故郷を失った俺たちには、帰る場所がない。


 だから――


 自分たちの手で、生きる場所を見つけるしかない。


 冒険者として。


 この世界で。


 そして、これが――


 俺たちの本当の冒険の始まりだった。

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