14 巌流島
七巳が僕の耳元で言った言葉は、『ここ、巌流島みたいね』だった。
腕時計を見ると、もうすぐ三時になろうかとしている。
そういえば果たし状には、午後三時に月読峠で待つ、と書いたのだった。
東京の感覚ではまだ真っ昼間という時刻なのに、高い山に囲まれたこの土地では太陽はもうすぐ、その険しい山壁に触れようかとしている。
光が斜めで少し黄色くなっている。
「峠の決闘より、巌流島のほうが雰囲気出るよ」
立ち上がりながら七巳が僕を見つめた。
その眼には武道を嗜むものだけに通じる気合がこもっている。
「いいよ、ここでやろう」
僕もすぐに立ち上がった。
七巳がダウンジャケットを脱ぎ捨てる。
ワインカラーのジャケットがふわっと、まるで脱皮でもするように草の原に舞い落ちた。
さっきまでとは違ってゆっくり黄色くなっていく背景に、まるで映画みたいに思った。
僕も同じように格好良く脱ぎ捨てたかったが、軽いダウンジャケットが風に飛ばされるのはまずい。
僕は彼女のジャケットと一緒にして、楽々浦に預けに行った。
ふふっと七巳が笑う。
「由紀って心配性だね」
だって、飛ばされたら濡れてしまうじゃないか。
「楽々浦くん、立会人お願いね」
七巳にそう言われた楽々浦は戸惑いの表情だ。
「いや、立会人て、何するんだよ」
楽々浦のうろたえるのは初めて見るな。
「勝負が決まったと思ったら、『一本それまで!』って叫べばいいのよ」
「いや、俺ルール知らないし」
「適当でいいわよ。君の主観でね。勝ち負けは私たちでわかるんだけど、万一のための安全装置ってだけだから」
冬の冷たい空気の中、長袖Tシャツ一枚でも、まったく寒さは感じない。
流れてきた雲が太陽を隠したのだろうか、周囲が薄暗くなった。
湖を渡る風が僕と七巳の髪の毛を乱す。
さっきまでは聞こえていた鳥の声とか、波のさざめきもなくなる。
中央の松の木のそばで、僕らは向かい合った。
「勝ったほうが男役ね。由紀、私の女にしてやるわよ」
ふいっと両手を上げて七巳が構えた。
「僕は男なのだ! 男役は渡さないぞ」
身体は女だけど、心は男なのだ。僕も叫んで返す。
「私に勝てるかしらね。私が勝ったら、由紀のパンツは私のものよ」
何を勝手にルールを作ってるんだ、七巳は。
「じゃ、じゃあ、僕が勝ったら、舌を入れてやるからな」
ずっと頭の中に渦巻いていた、ファーストキスの舌入れ問題だった。
僕に言い返された七巳は、一瞬怯んだ表情。
「由紀って、おとなしい顔して案外エッチね」
パンツ脱がせるほうがエッチじゃないのかな?
「や、やっぱり、ファーストキスで舌入れるのは、無しなのかな」
僕が言うと七巳は、プッと吹き出した。
そして、何だ、そっちかとつぶやいた。
気を取り直して構え合う。
身体中が燃え上がるようだった。
眼の前の七巳が、あの時のように金色のオーラを纏う。
熱く流れる戦いの情熱が、僕の身体にはしる。
それは、この一年間彼女を思う恋の情熱とそっくりだった。
武道家にとって、試合と恋愛は、非にして似たるものなのだ。
全身に満ちる愛を、この一年の恋の思いを僕は拳に込めた。
雲が行き過ぎたのか、再び周囲に光が満ちてくる。
そして、気合とともに、僕は大きく一歩を踏み出した。
消えたあいつを追ったら思わぬ冒険になった話 おわり




