序
本作には食人表現と残虐な表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。
1
先輩がまだ人間だった頃の、とある夏の日のこと。悪夢の始まりとなったあの樹海、そして終止符を打ったはずの樹洞の前で、私たちは再会した。
真夏の風が腐りかけの落ち葉を舞い上げる。緑が生い茂る枝々の隙間からちらちらと降り注ぐ陽光に照らされ、陰に隠れていた先輩の顔が露わになる。淀んだ眼。脂ぎった肌。三重はあろうぶよぶよとたるんだ顎。たっぷり贅肉を纏った首。過去の姿は見る影もない。
きつい臭いを放っているのが先輩なのか、ひらひらと舞い落ちる腐葉なのかは分からない。もしかするとそのどっちもなのかもしれない。
私はただ一言、先輩の返事は待たず、極めて一方的に約束を押し付け、先輩を後にした。とても身勝手で無責任な約束を。
思えばそのせいで、終結したはずの惨劇がまた蘇ろうとしているのだが、しかし、その時の私にはもう、不可抗力と言ってもいいくらいに、それしか方法がなかった。
言い訳に聞こえるかもしれないが、もしもあの時あの約束をせず、むしろ先輩と永遠のお別れをすることで、人間社会に戻るなんて道を進んでいたのなら、ヒトグイは全国中に広がっていたに違いない。それこそ人間として最も避けたい事態のはずだ。
だからこそ、私は言ったのだ。
「あなたが人間でなくなった暁には、いつでもいい、私を喰って欲しい」と。
2
人間を喰うからヒトグイ。
名前の中に「ヒト」とあり、姿かたちは人そのものであるが、決して人ではない。目があり口があり四肢があり、言葉を発し、私たちと同じようにコミュニケーションが取れたとしても、なんなら人間と見分けがつかなくとも、それは断じて人ではない。むしろ、絶対に人間と呼んではいけない。
現代社会はそれを許していない。
だから私たちも「ヒトグイ」を人間扱いしない。害獣と同じように扱う。それも、詳細がまるで不明な新種の害獣だ。見つけ次第生け捕りにし、それが無理ならなるべく傷をつけないように殺す。
その後は給食当番みたいな恰好をした研究者に引き渡す。彼らは同じく真っ白な実験室という名の虐待室で、生きているヒトグイに限り、よく分からないカラフルな薬を血管に流し込んだり、麻酔抜きで脳みそをいじくったり、共食いを強制したり、(これは噂だが)その様子を金持ちに配信したり、それはもうとにかくスプラッターな実験をするという。で、三十分もせずにヒトグイは大体死ぬので、後は全員バラバラに切り刻んでさらに隅から隅まで研究し尽くし、原形が分からなくなるくらい解剖する。そしてもう使えなくなったら焼却炉に放り込む。ヒトグイの灰まで感染予防で葬るとか。
人間と認めていないからできる所業である。逆に、ここまでしないといけない様な存在ということでもある。そして私たちの仕事はヒトグイを捕まえることである。その拷問実験へと送り込むことでもある。
春の樹海。樹々は緑が生い茂り、地面では花々が狂い咲き、その隙間を虫がわらわら蠢いている。以前R18指定のホラー映画で見たことがある。猟奇殺人鬼が遺体処理に使っていた種類の虫だ。世間的には忌避されるような虫。人間の天敵とは言えないが、結果的に人間の天敵と同じことをしている。
私の前には樹海の中でも一段と大きな樹、根元に大きな樹洞のある巨木が根を張っている。とにかくでかい。多分頂上まで登るにはヘリコプター必須じゃないだろうか。人間が生まれる前からある、と言われても信じられるほど神秘的で、壮観だ。
そして巨木は今、人間の死を見下ろしている。仰向けに倒れた、骨と顔だけの女性。首を折られたのか、顔は樹の方、向こう側を向いている。辛うじて容姿を判別できるため女性だと分かるが、もし顔面をぐちゃぐちゃにされていたら、いや、虫にたかられているから既に若干ぐちゃってはいるのだが、とにかく、もしそうだったら、性別なんて全く判別できなかっただろう。
なにせ、首元からつま先にかけて綺麗に皮膚と肉が開かれ、そしてまた隅々に至るまで、綺麗に食われているのだから。頭付きのさんまを喰うときの人間も、確かこんな風にしていたと思う。頭だけ残し、中身は骨以外綺麗に食いつくす。女性の遺体を覗き込むと、僅かに右目がはみ出ているのが分かった。さんまを食べる人の中には目玉とかを好む人もいるらしいが、この女性を襲ったヒトグイ好まなかったらしい。
「おい」
先輩がようやく声を発した。息を荒くし、肩も上下させている。温かくはあるが、まだ夏ではないのに、もう白いTシャツが汗でぐっしょり濡れている。
普通男が汗びっしょりだなんて、まず「キモイ臭い嫌だ」以外の何ものでもないのだが、先輩の場合は違う。まず顔が良いし、加えて汗によってシャツが透過されて胸筋や腹筋、そのスタイルの良さが際立つことで、さらに緑豊かな背景も相まって、何だかエロティックな画になるのだ。走って来たせいで顔がやや上気しているのも、そういう雰囲気を醸し出す一因となっているのだろう。
「………っ!」
数分前、先輩は女性の遺体を発見し、それ以来ずっと言葉を失っていた。その間、真っ赤な顔からやや血の気が引いていたが、今となってはまた赤く、そしてこんどは濁った赤色に染まった。目尻がつり上がっている。
右手のほうでガサゴソ物音がしたかと思うと、間髪入れずにそちらの方へと飛び掛かった。
私に「無事か」の一言もかけることはなく。それくらい信頼してくれているということかもしれないが、逆に全く信用しておらず、意図的に無視しようとしたのかもしれない。だがどちらであろうとも、先輩が犯人のヒトグイに並々ならぬ憎しみ、いや正義感というのか、を抱いているのは確かだろう。
別に今の所、ヒトグイとの間に何かがあったわけでもなかろうに。
私は再び女性へと目を落とす。じっと見つめる。虫の鳴き声と、遺体を食い散らかす虫の租借音だけが静かに、人間にとっては不快に響いている。
手を伸ばす。虫による解体がわずかながらに進んだ顔、その目を、人差し指と親指でつまむ。そして、引き抜く。
ブシュッツ、とまだ新鮮な血が黒い穴から噴き出た。目玉はと言うと、脳と繋がっている筋が引きちぎれ、それらを覆うコラーゲン? みたいな触感のトロトロしたものが露出した。幸い虫はまだついていない。周りに人の気配もないし、多分先輩もあんまり遺体の状態を覚えてはいないだろう。何もためらうことはない。
そういうわけで、私は目玉を喰らった。
次回は「破」になります。




