淡黄色の蝶 2
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フィオの家は、彼女が言ったとおり工房のすぐそばにあった。わずか三分ほどで着き、家からは工房が見て取れる。
工房の裏手にあるアパートで、築四十年だそうだ。大家はいつも外出していて、顔をあわせることはほとんどない。サフィーにすすめられて入居してから、たった一度しかじかにあったことがなかった。
そこの外見が、その歴史を物語っていた。今は珍しい木製の柱は古びていて、けれど、手入れが行き届いているのか、しっかりとしていた。素朴な感じの二階建てで、時間がゆったりと流れているようだ。
フィオさんみたいな若い女の子が住むには少し古すぎるかな――とぼんやりとアイリは思った。そのあとで、ふわっと笑う彼女の笑顔を思い出して、案外似合うものだな、とも思った。
「お待たせー」
声がした方を向くと、服装を新たにしたフィオがそこに立っていた。
「……フィオさん、その格好は何ですか?」
「うん? 蝶を探すなら、身軽な方がいいと思って」
Tシャツにジーンズと言うラフな格好。右手に虫取りあみを持って、右肩から斜めにカゴをぶら下げている。リュックサックを背負っていて、ポケットには懐中電灯がのぞいていた。
低めの身長にショートボブな髪があいまって、どことなく少年のようだった。
「ずいぶんと準備がいいですね」
「いろいろと部屋にものがあるからね」
へへ、とフィオはばつが悪そうに笑った。
「じゃあ、行こうか」
「そうですね」
少し、頼もしそうだな――と、フィオの後ろ姿を見つめて、アイリは思った。
彼女たちは、街の東側へ足を向けた。蝶を探すとなると、花の多い公園に行くのがよい。公園は街に二ヶ所あるけれど、アイリが工房の方に来たことから、東側の公園に向かう途中だったのだろう。そこには広い庭園がある。
灯台のある丘の近くで、季節によりさまざまな花が咲いている。今の季節だと、芝桜や菜の花が美しい。
その美しさから、東の公園はよく「丘の花園」と呼ばれる。この街の観光と言うと、海に目が行ってしまうが、この公園も、隠れた、と言うか隠された名所の一つである。
太陽が水平線に触れようとしていた。
「フィオさんはよく虫取りをするんですか?」
「うーん。どうかなあ」
んー、とうなりながら、数秒のあいだ考えてフィオは答えた。
「最後にやったのはいつだったか、さっぱり覚えてないなあ。でも、すごく前のことだと思う。……やぶれてなくてよかった」
手であみを押し広げて、あみのようすを調べた。いくらか押しても平気なので、劣化はしていないようだ。
「アイリちゃんはどうして蝶々を探しているの?」
と何の気なしに尋ねると、アイリは気まずそうに下を向いて、黙ってしまった。
聞いてはいけなかったかな――彼女のようすを見つめながら、フィオは反省した。
「理由はあるんですけど、言いたくないんです。ごめんなさい。手伝ってもらうのに……」
消えいるような声で、アイリは言った。
「いいよ、気にしなくて。それより、もうすぐ着くみたいだよ」
まっすぐに指差した先には灯台があった。サフィーがステンドグラスのモチーフにした場所で、明かりをともっていた。そこから見えた海は、夕日を受けて、きらきらとまばゆくゆれていた。
「ここが公園なんですね」
はぁ、と言ううっとりとしたため息をもらし、たったと歩道を走っていく。橙色に染められて、幻想的な風景だった。
止みはじめた海風を受けて、さわさわと花々がゆらめく。久しく来てなかったな――と、その光景を見ながら、フィオはちょっと懐かしい気持ちになった。ここでよく遊んだっけ、と。
「アイリちゃんは、ここに来たことがないの?」
と問うと、くるりとフィオの方を向いて答えた。
「昔に一度来たことがあるみたいなんですが、わたしが小さかったのか、あまり覚えていません」
「あれ? アイリちゃんは、この街に住んでるんじゃないんだね?」
「はい。おばあちゃんのお家に帰省してるんです」
「へぇ、おばあちゃんのお家はどこにあるの?」
「住宅地区の方です。でも、あんまり目立たない家ですから」
「住宅地区と言うと、街の北側だね。どう? この街は好き?」
「お母さんもお父さんも忙しくて、なかなか来られなかったから、ほんとうに久しぶりに来たんです。……かれこれ七年ぶりくらいと聞きました」
胸の前に手を組んで、アイリは続ける。
「とっても好きですよ。海も空気もきれいだし、それに――」
もじもじと照れくさそうに下を向いた。
「フィオさんみたいな、やさしい人もいるし」
思わず恥ずかしくなって、フィオは目を背けてしまった。純粋なアイリの瞳に見つめられて、面映かった。
「さ、さあ、蝶々を探しに行こう」
照れ隠しで発した言葉が、どうにもぎこちなかった。その姿を見て、ははっとアイリは笑った。つられてフィオも笑った。
「じゃあ、私はこっちを探すから」
と言って、フィオはすたすたと歩いていった。あみを振り上げて、蝶をねらうその姿は、ほんとうに少年のようだった。単に慣れていなく不自然になってしまっただけかもしれないが。
そうよ、わたしも探さなきゃ――と、アイリは意志をしっかりと持ちなおした。もともと、わたしのせいでもあるんだし、と。
「うわぁ」
と言う声が遠くで聞こえた。フィオが転んででもしたのか。やっぱり慣れてないんだな――と思って、ふふっとアイリは笑った。
彼女は、背中にかけた虫取りあみをかまえた。時たま目の前を優雅にとぶ蝶々を見つめて、彼女の求めるものかを調べた。
あれも違う、これも違う――あせりだけがつのっていく。このまま見つからなかったらどうしよう、と考えずにいられなかった。
手当たり次第に見やっては、肩を落とすをくりかえしていた。
しまったなあ――
懸命に振り回していた虫取りあみをぴたりと止めて、フィオはため息をついた。
「アイリちゃんにどんな蝶々を探しているのか、聞きそびれちゃった」
自分の間抜けさにあきれてしまう。はは、と力なく笑うだけだった。
「お店もかってに閉めてきちゃって、サフィーさん怒るかなあ」
でも、アイリちゃんのためだから――
ぐっとまたあみをにぎりしめ、かまえた。目の前をひらひらと蝶がとんでいる。そこにあみをそっとかぶせ、つかまえた。
「これくらいでどうかな?」
日はすっかりいなくなってしまい、あたりは真っ暗だった。風もいつしか陸風に変わった。人の姿がほとんど見えない。
フィオは懐中電灯でカゴの中を照らして、アイリに見せた。なかには、アゲハチョウやモンキチョウと言った、いろいろな蝶が羽を閉じていた。
「このなかに、探していたものはある?」
「うぅん」
と、よく観察するようにカゴに顔を近づけ、やがて、
「この子に近いですね」
と、黄色い蝶を指差した。淡黄色のそれは、他と比べるとあまり華やかではないけれど、楚々として美しい姿はかわいらしく見える。
「でも、違うんです」
「アイリちゃんは、ほんとうにどんな蝶々を探しているの?」
困ったように眉をハの字にしてフィオは訊いた。同じような表情をアイリも浮かべる。何と答えようかと迷っているようだ。
「……実は、ちょうちょを逃がしてしまって」
「逃がしてしまった?」
「おばあちゃんにもらったのに……」
語尾がふるえていた。すっ、と涙がほほを落ちた。
突然のことに、フィオは何と言えばいいかわからなかった。かろうじて、
「泣かないで。まだ探せば見つかるかもしれないよ」
「もう見つからないですよぅ、こんなに暗いのに。それに――」
しゃくりあげて、アイリは続けた。
「――透明な羽の、ちょうちょなんて、すごく珍しいのに」
「それって……」
透明な羽の蝶。その不可思議な姿に、フィオは一つ心当たりがあった。
「もしかしてその蝶々って、硝子生命のこと?」
「硝子生命?」
すっかり紅くなった目元をこすって、アイリは聞きなれない言葉をくりかえした。