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「――風間っ……!?」

 らしくないほどの緊迫感に満ちた紗羅さんの声で、ばっちりと目が醒めた。

 この人が俺を心配してくれるなんて、それこそ夢でも見てるみたいだけど。

 意識を失っていたのは現実にして数秒ほどか。地面に倒れこむ寸前で踏ん張りが間に合った。

 斬られた額と胸が熱い。まるで焼けた火箸を押し当てられているようだ。ズキズキと痛む傷口から血がどくどくと流れ落ちていく。

 だが、それだけだ。俺はまだ立っている。

「……大、丈夫です」

 いつぞやの白昼夢よりもずっと長い夢を見ていた気がする。その中には二度と思い出したくもない悪夢のような記憶もあった。余計なもん見せやがって……体の内側に沸々(ふつふつ)と怒りの感情がこみあげてくるのを感じた。

 冷たい夜風が傷口を撫でた。俺は腕で顔を乱暴に拭った。痛みが皮膚と脳を突き刺すように刺激する。血はすでに止まっていたが、傷が完全に塞がるにはまだ時間が足りない。しかし、悠長に待っている暇はなかった。

「へえ、けっこうタフなんだ。生身のくせによくやるよ。鞘がないから感覚がズレて思ったよりも伸びなかったか……まあいい、次は確実に仕留める」

鎧神(ヨロイガミ)〟――士堂(しどう)拓真(たくま)

 その姿をはっきりと視界に収め、俺の中でようやく覚悟が決まった。

 お望み通り、ここからは本気で試合とやらに付き合ってやろう。相手は言うに及ばず、俺にもこいつと戦わなくてはならない理由ができていた。

 軽く念じるだけで右手の蛇が顕現する。だがその動きはやや緩慢で、キレがない。

 おい、しゃきっとしろよクソ蛇。たっぷり食って腹いっぱいか? 次はダイエット(・ ・ ・ ・ ・)の時間だぜ。

 ずぶりと蛇の額を突き破って現れた漆黒の角――神剣〝魔断マタチ〟が淡い月光に煌めいた。

「いい目だ。やはり試合はこうでなくちゃな」

 こちらに合わせて鎧武者が再び刀を構え直す。

 八相はっそう――その構えからいかなる技が繰り出されるのか、俺には想像もつかない。そもそも奴の斬撃を受け切る技量も余力もない俺にできるのは、避けることだけだ。

 士堂が鋭いときの声をあげた。

 踏みこみと同時に構えは上段へと変化する。斬り下ろしがくるのは間違いない――この一撃だけは避けきる。

 体力の消耗が動きを鈍らせた。が、それは折り込み済だ。俺は膝のバネで横に跳んだ。

 重い斬撃が虚を斬った。紙一重とまではいかなかったが、この距離とタイミングならいける。俺は一気に距離を詰め、右手を繰り出そうとして、

 刹那――斬り下ろしの途中にあった奴の剣先がピタリと止まった。

「士堂流・神逆刃(かむげきじん)!」

 刃の向きと軌道を急反転させた強烈な斬撃が下から襲いかかった。

 二段階に変化する太刀筋――それは古の剣豪が得意とした〝ツバメ返し〟ではなかったか。


「――――――――ッッ……!!」


 一瞬の攻防は確実に死線を越えた。

 俺は右手の刃ではなく、手のひらをつかって奴の握り手を押さえこんでいた。

 刀身はジャンパーを切り裂いたところでかろうじて止まっていた。冷たい刃の感触ををシャツごしに感じ、遅れて全身に冷や汗がどっと溢れ出す。

 ほんの少しでも遅れていたら、勝負は決していただろう。それくらいギリギリの判断だった。

 すぐ隣で士堂が驚きの声をあげた。

「へぇ……刀で止めようとしてたら絶対に間に合わなかったぜ? すごいよ、あんた」

 達人に褒められるのは悪くなかったが、それはちがう。結果的に佳良となっただけで、俺には最初からこうするしかなかった。

 そう――『この手』で直接奴に『触れる』ことだけが目的だったのだから。

「やっとつかまえた。覚悟はいいか? イカれ野郎」

 そして俺は篭手を握りしめる右手にぎゅっと力をこめた。

「ぐっ……!?」

 同時に士堂の放った前蹴りが鳩尾みぞおちに吸いこまれた。目の前が真っ暗になるほどの激痛――衝撃に吹っ飛ばされ、背中からコンクリートの壁にぶつかり呼吸が止まった。

 げほっ……。超、いてえ……。

 だがこれでいい。確実に手応えはあった。

 痛みに顔をしかめながら立ち上がる。敵の追撃に備えたが、士堂はその場に立ち尽くしたまま不思議そうにこちらと自分の手を交互に見つめていた。

「今のはやわらか……? 触れただけで相手の神経に直接働きかける古武道があるらしいが、まさかあんたってそっち系の流派だったのか?」

 なんか格好いいなそれ。だけど俺のはそんな大層なものじゃない。これはただの悪夢の延長でしかなくて――――


 進化した悪夢の牙(・ ・ ・ ・)だ。


「つッ……!! な、なんだ――うぁっ!?」

 士堂の口から悲鳴じみた声があがった。その右手がまるで別の生き物のようにガクガクと激しく痙攣(けいれん)していた。

 士堂は暴れ回る自身の右手を左手で押さえこむが、痙攣は徐々に激しさを増し、握っていた刀を取り落とすと同時にぴたりと止まった。回転しながら落下する刀が銀光を放ちながら地面に突き刺さった。

 何が起こったのか理解できないのだろう、愕然とした様子の相手に俺は軽く肩をすくめてみせた。

「子供でも知ってると思うけどな。蛇には()がある。噛みつかれたりしたら大変だぜ?」

 ゆっくりと自らの黒く変色した右手の先を差し向ける。

 俺の最悪の〝悪 夢(ナイトメアリー)〟――角の生えた漆黒の蛇が、鮮烈な赤の瞳を爛々(らんらん)とたぎらせながら凶悪な眼光を放っていた。

 宿主である俺を支配することもできず、失った体を再生することすらできない哀れな〝D〟……俺とこいつは肉体の一部が同化しながらも、それぞれが独立した『一個(ワンズ)』として存在する。

 元は八つで一つの神だったこいつは、その極小の生き残りであるたった一匹でしかない。たとえどれほどのエネルギーを俺から奪い取ったところで、こいつが失われた七匹を取り戻すことはできないのだ。

 ゆえに――『一』にして『全』。

 俺から大量の精気を吸い取ることで、こいつはそれを『自覚』し、無駄な部分の再生を『閉じた』。結果としてこいつはただ一匹だけの毒蛇としての存在を確立するに至り、その凝縮された毒は新たな『武器』として開花した。

 俺の知り合いのくそガキはそれを〝魔解(まかい)の牙〟と呼んだ。

〝魔断の神剣〟に合わせたとはいえ、最低のセンスだと思う。

 右手の甲に蛇の上顎が乗っているようなデザインのメアリーにとって、俺の手のひら全体が『口』に他ならない。今俺の指先を突き破って現れた鋭い牙には毒蛇の猛毒線が仕込んである。

 毒は〝D〟に対してのみ絶大な効果を発揮する。たとえ刃物や銃弾を通さない鎧神が相手でも、毒液は装甲を溶かし牙は本体に届いた。宿主に注入された毒は体内に潜む〝D〟を一時的に麻痺させ、異常患部の活動を強制的に停止させる。

 まあ〝D〟相手には非常に凶悪な武器ではあるが、見ての通り有効範囲リーチは極短の上、メアリーが俺から大量の精気を吸い取って腹一杯になった時にだけ発動できるという厳しい制限付きの奥の手でもある。

 先ほどのロッカー内で紗羅さんと密着シチュがあったから使うことができた。逆に、あれがあったからこそ牙でもなんでも使ってエネルギーを無理にでも消耗させないと、メアリーがさらに力を蓄え成長してしまう危険がある。食い過ぎた分はダイエットして吐き出させる――合理的な話だろう?

「ああああぁっ……!!」

 苦しげに呻きながら士堂がついに膝をついた。同時に右腕を覆っていた篭手が分解するように消え失せ、その下にジャージを着た士堂拓真本人の体が現れた。毒が回りきるまで時間差はあるが、その強制的な変化は本体にも耐え難い苦痛となる。

「どうした? まだ試合は終わってないぜ?」

 俺はふらふらと歩いて間合いを詰める。こちらもすでに限界が近い。血を失い過ぎた体はぼろぼろで今にも昏倒しそうだったが、眠るのは全部終わらせてからだ。ああ――そしたら今夜こそ、ばっちりと素敵な夢が見れるだろうさ。

 俺は膝をついたままの士堂に向けて右手の神剣を振り上げた。相手はもうほとんど生身に戻っている。最後に少年の頭を覆っていた兜が消え去り、短髪の頭が現れた。その絶好の的めがけ、右手を振り下ろした。


「面――――ッ!!」


 ……こつっ、という軽い音が辺りに響き渡った。

 数秒の間を置いて、士堂が恐る恐るといった様子で顔をあげた。脂汗(しかん)の浮いた顔は困惑に彩られている。

 横に向けた刃の腹で殴られただけなのだから死ぬわけがない。少しは痛かったかもしれないが、俺の受けた傷ほどじゃないだろう。さっきのは本当に死ぬかと思った。

「なにぼーっとしてやがる。一本とったぞ、試合終了だ」

 士堂は呆然とした顔のまま俺を見上げてこう言った。

「……なぜ殺さない? 情けをかけたつもりか?」

「何言ってんだよ。俺の仕事は最初から〝D〟を捕獲することであって、殺すことじゃないぞ」

 どこぞの銃乱射魔のおねーさんと一緒にしないで欲しい。感染者とはいえ、殺人なんて寝覚めが悪そうなことを俺がするわけがない。ダイエットはこれくらいで充分だろうし、正直、これ以上やる元気は残ってなかった。

 士堂は諦めたようにガクリと肩を落とし深々と項垂うなだれた。

「おれは……負けた、のか……」

 そのままどさりと仰向けに倒れこむ。両手で目を覆っているので表情はよく見えなかったが、口許はなぜか笑っているように見えた。

 紗羅さんが携帯の送話口に指示を飛ばし、間もなくして何台ものパトカーと救急車が建物の前にやって来た。狂った夜の終幕だ。

 にわかに騒々しくなった廃墟の敷地を乾いた夜風が吹き抜けて、新月の訪れが近いことを告げる爪月が夜空にぽっかりと浮かんでいた。


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