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玲子ちゃんが不思議そうに目をしばたたかせた。
「どうかした? 急に小さくなっちゃったけど」
「えっと……久しぶりだからなんかおかしいのかな……」
「ここに来てからけっこう経つもんね。もしかしてその間一回も自分でしてなかったの?」
「ええ、まあ……そんな余裕なかったですし」
それは少し違った。暇な時間なんていくらでもあったはずだ。なぜかわからないが、まったく『そういう気分にならなかった』だけで。
玲子ちゃんの手が躊躇なくズボンにつっこまれ、下着の中にまで侵入してきて確認するようにもぞもぞと動いていたが、俺にはその感覚さえほとんどなかった。
「……EDじゃないよね?」
「いや、最初に触られた時はちゃんと感じたんですよ。でも直後に何かを吸い取られたような感じがして、それっきり感覚が希薄になっちゃって……」
「吸い取られた?」
「あくまでそんな感じというか……頭の中は今もやりたくて爆発しそうです」
「……性欲はあるのに、それに付随する体の機能部分だけが突然消えちゃったってこと?」
「えーと、近いような気がします」
ふと何かに気づいたように玲子ちゃんの顔つきが変わった。
「悪いけど、ちょっとどいてもらえるかな? 一郎くんは椅子に座ってていいよ」
その言葉にさっきまでのような甘い響きはなく、玲子ちゃんは手で俺を強引に押しのけると机の上で体を半回転させてうつ伏せになった。上半身を乗り出してディスプレイに顔を近づけ、指が高速でキーを叩き始める。
「今まで一人Hもしてないって言ったよね。勃起自体はすることあったかな?」
「んー……たぶん、なかったと思います」
質問に答えて初めて自分でもおかしいことに気づいた。
考えてみれば異常だ。俺だって人並みに性欲はあるわけで、何かの拍子に突然ムラムラっとくることくらいある――いや、あったはずだ。
さっきだって紗羅さんと長々と濃厚なキスシーンを交わしながら、あの程度の昂奮で済んだことも不思議だった。あれを一種の快楽と認識しながら、俺はほとんど性欲を感じなかったのだから。
徐々に不安が膨れ上がってきたところで、キーボードを操作していた玲子ちゃんの指がぴたと止まった。
「そっかあ、そこは盲点だったなあ。……一郎くん。大変なことがわかっちゃったかも」
急に振り向いた玲子ちゃんが、俺の膝の間にしゃがみこんで体を滑りこませ、興味津々といった目で股間をじぃっと見つめてきた。
「な、何が大変なんですか?」
「ずっと不思議だったんだよ。検査で特別おかしな数値はどこにも見られなかったし、本人の自覚症状もなければ他覚症状もまるでなし。食事の量や頻度が増えたってこともなければ、別の欲求が特別に強まるってこともなかった。ね、おかしいでしょ?」
「えと……おかしいですか?」
「おかしいよ。それならきみの右手の夜刀ノ神――〝悪夢ちゃん〟は、いったい何をエネルギーにしてるのさ?」
おかしいところがないのがおかしい――俺の体には俺以外のモノがいるのに、俺が変わらないはずがないと彼女は言っているのだ。
「実際、他の感染者たちは〝D〟の存在によって極端にエネルギーの消費量が多くなって、なんらかの形でその分を補充する必要があるの。それが魅麻ちゃんにとっては大量の水分摂取であり、七奈ちゃんにとっては食事量の増大にあたる」
思い出した。あの小さな体で異常な量の水を飲んでいた魅麻子。そして、妹の病室で見た尋常じゃない空き皿の数……まさか一回であの量を食ったってことか?
「でもきみは何も変わってない。この差こそが唯一人間のまま〝D〟を『保有』している一郎くんだけの特徴だと思って一応は納得してたんだけど……やっと見つけたよ。この子のエネルギー源」
感染ではなく保有――その違いをこの時の俺はまだ理解していなかった。
けれど彼女の発見したことの重大さについては、すぐに思い知ることになる。
「たしかにねえ。精気とは生気に通じる大きなエネルギーだし、いいところに目をつけたね。若い男の子なら性欲旺盛で当然だから食いっぱぐれもないだろうしさ」
玲子ちゃんは少し楽しそうにパジャマの上から俺の息子をぴんと指ではじく仕草をした。
「まさか……右手の蛇が俺の精気を吸い取ったからこうなったってことですか!?」
「そういうことだろうね。今までもこの子は一郎くんが抱いた性欲に反応して発生した精気を食べちゃってたんだよ。精気が失われれば当然、身体機能としての精巣や男性器の働きも弱まっちゃうから勃起することもなく、性欲自体も治まり一人Hしたいなーって思うこともなかった。逆にその程度の性欲で済んでたから、今まで自覚がなかったんだろうね」
「で、でもさっきは最初の方はちゃんと――」
「さっきはすっごく昂奮して、かなり性欲が高まってたんじゃないかな? 性欲の高まりと精気の量は比例するから、きっといっぺんには食べきれないほどの量だったんだよ。うふふ、そんなに昂奮してくれてたなんて嬉しいなあ。だけど今日はこれでおしまいだね」
なんてこった……。クソ蛇が俺から精気を奪っているのはわかったけど、俺の頭の中は一度抱いた性欲を持て余してる状態だった。おそらく身体とはちがい、すでに刺激してしまった脳の欲求は消えにくいということだろう。なんだよこの生殺しの刑は……!!
玲子ちゃんは不意に表情を真面目に戻し、静かにこう付け加えた。
「この子は存在を保つだけでかなりのエネルギーを必要としているはずだけど、もしも今後継続的に過剰なエネルギーを得ることができたなら、存在以上のことにそれを使うかもしれない。だから、気をつけてね」
いつもにこにこしている彼女の放つシリアスな雰囲気は、それだけに迫力があった。
「存在以上のこと……?」
「すなわち成長――それは失った体の再生かもしれないし、まったく別の進化かもしれない。どれほどのエネルギーが溜まればそれを行えるのかはわからないけど、確実に言えることが一つだけあるよ。この子に精気というエネルギーを過剰に与えることは避けるべきだってこと。一郎くんが一郎くんであり続けるためにも、ね?」
この短い時間でそこまでの考えに至っていたことにも驚いたが、彼女の言葉はそれ以上の衝撃を俺に与えた。俺が他の感染者と違って特別なのは、憑いているやつが弱っていて宿主である俺を支配するほどの力が残っていなかったからで……その前提を覆されかねない言葉に戦慄を禁じ得なかった。
「それじゃ蛇を成長させないために、俺は性欲をもったりエッチもしちゃ駄目ってことですか!?」
「そこまでは言ってないよ。まったくなければないでこの子は別のエネルギーを求めるはずだから、それが命に直接関わるような生命エネルギーだった方が致命的かもしれないよ?」
「うわあああっ! どれくらいが適量でどれくらいがアウトなんですか!?」
「今の段階じゃ想像もつかないって。試しにえっちぃこともっと続けてみる?」
「しませんよっ! したいけど、したいけどぉっ!!」
血の涙を流す勢いで叫ぶ俺。命が懸かってるとわかった以上、そんな気分は恐怖に塗り替えられて消し飛んでしまった。
「あはは。今のは冗談。これが最初で最後になるかもしれないのなんて嫌だし、ちゃんと一郎くんの安全が確保されてから心おきなくしたいもんね。その時はたくさんしよ?」
玲子ちゃんは悪びれた風もなくニヤニヤと笑いながら床に落ちていたストッキングと白衣を身につけた。
駄目とわかっていても悔しさと口惜しさが沸き起こるのを止められない。ああくそ、どうなってんだよちくしょう!
……とまあ、最後の最後で大問題が見つかって、俺の退院は一週間ほど先延ばしになった。
その後の検査でも結局、夜刀ノ神が一度に食べきれないほどの大量の精気が頻繁に発生するのはマズイだろうってことくらいしかわからなかった。普通に過ごしていてたまにムラッとくる程度の昂奮はあった方が望ましいし、今回のように一時的に激しい昂奮があったところで即アウトということもないだろう、と判断されたことには心底ホッとした。
その根拠にもなった玲子ちゃんとの一件は、俺の右手に致命的な悪影響を与えたわけではなかったが――蛇が俺に取り憑いてから初めて大量の精気を吸収したことで、とある変化が起こった。
そう、蛇はほんの少しだけ――『成長』していた。




