3-1
大学を出てマンションの前に帰りついた頃には五時四五分を回っていた。
少し遅くなったなと思って急いでいると、うちのマンションの前に止まっていたハイヤーの運転手が降りてきて、「風間一郎様ですね。お迎えにあがりました」と慇懃に頭を下げた。
よくわからないまま後部座席に座らされ、そのまま隣町の一番栄えた駅の真ん前にあるでっかいホテルに連れて行かれた。
ハイヤーを降りると今度はホテルのボーイが俺を中に招き入れてエレベータに乗せられた。辿り着いた最上階のフレンチレストランの奥まった席で、見知らぬ美女が俺を待ちうけていた。
「待ってたよ、おにいちゃん」
よく見たら七奈だった。大人びた黒のドレス姿で髪をアップにして巻いたり薄く化粧していたのもあって、最初まさかそれが妹だと気づかなかったのだ。
俺は唖然としながらボーイに勧められるままに向かい合った席についた。
「…………」
上品なテーブルクロスの上には銀の燭台のキャンドルがロマンチックに火を灯し、全体的に照明の薄暗い店内でもお互いの顔がよく見えるようになっている。電気の下で見るのとは違う神秘的な光で見る七奈は、妖しいほどに綺麗だった。
「驚いた? えっとね、わたしの親友がここのホテルグループのオーナーの娘で、今日は特別にタダで招待してくれたんだよ。このドレスもその子に借りたの。に、似合うかな……?」
胸元の大きく開いた漆黒のナイトドレスといいキラキラ輝く各種アクセサリーといい、すべて友人に借り受けたものだと思うが、完璧セレブなお嬢様の出で立ちである。
対する俺はジーパンにTシャツ姿だった。なんだこの温度差? 俺以外の客はみんなスーツやドレスを着てるんだけど、ここでドラマの撮影でもしてるのか?
俺が無言だったせいか、七奈は落ちこんだようにしゅんとうつむいてしまった。昼に末原に言われたことをハッと思い出して慌ててフォローを口にした。
「すまん。あんまり綺麗だからびっくりして言葉が出なかった。おまえ本当に七奈か? 俺の妹がこんなに可愛いわけがないから偽物かと思った」
「バ、バカ! 本物ですよーだ。でもありがとう、嬉しいな」
顔を真っ赤にして照れ笑いを浮かべる妹からさっと視線を外し、俺は大きく深呼吸する。それでも落ち着かないので心の中で素数を数えることにした。一……二……サーンッ! すぐにアホになってしまったので諦めた。
そうこうしているうちにワインやら前菜の料理が運ばれてきたので、もうどうにでもなれと思ってとにかく食いまくることにした。やけくそ気味に口に入れたナントカの冷製スモーク仕立てとやらは、目が飛び出るほどうまかった。
ガツガツと食うのに夢中になっていると、七奈が楽しそうに微笑みながら言った。
「おいしいね。一緒に食事ができてよかった」
「たしかにうまいけど……俺はおまえと違って作法とかぜんぜん知らないんだ。ナイフとフォークがなんでこんなにあるのかもわからないし、適当でいいかな?」
「気にしないで。食事は楽しく美味しくいただくことが大切なんだから」
そう言いつつも、しっかりとマナーを身につけているらしい七奈は慣れた様子で優雅に食事を口に運んでいた。俺は乾杯もしてなかったことを思い出し、白ワインの入ったグラスを手に取ると七奈に乾杯と言ってから口を付けた。うまいのかどうかよくわからないがおそらくこれも高級品なんだろうなーと思っていると、七奈も同じものを飲んでいることに気づいた。
「おまえ未成年のくせにこんなの飲んで大丈夫か?」
「フランス料理と一緒に飲むワインは料理の一部なんだから平気だよ」
得意げにそんなことを言いつつも、早くも頬が火照ったように赤くなっている。まあお嬢様がそう言うのならきっとその通りなんだろう。本人も飲み慣れているぽいので心配するほどではないと思い放っておいた。
……が、三〇分後、早くも俺は後悔していた。
「おにいひゃん。なんだかポカポカして、楽しいねえ」
「飲み過ぎだバカ……」
料理に夢中になっていて気づくのが遅れたが、七奈は二杯目のグラスを空けたところで傍目にも酔っ払っていた。
一通り料理のコースは終わり、デザートのティラミスっぽいのを食い終わって満足した俺は少しだけ余裕を取り戻していた。
「まったく……ちょっとおまえのことすげえなって思ったらこれだ」
「なにがすごいの?」
「立派にお嬢様してるんだなって思ってさ。けっこう本気だったんだぜ、俺の妹とは思えないって言葉。もちろんいい意味でな。俺なんて超がつくようなド庶民だから――」
「……いいよ」
ふと妹の顔を見て俺はギクリとした。とろんとした瞳の中に何か、思い詰めたような強い光が宿っていた。
言いようのないものを感じて俺は言葉を飲みこんだ。七奈は少しもどかしそうに、何かを期待するような目で俺を見つめている。な、なんだよその顔……やめろって……。
「妹と思わなくてもいいよ。……わたしもそうするから」
それがどういう意味なのかくらい、いくら末原に鈍感野郎の烙印を押された俺でもわかった。心臓の鼓動が早くなる。まずい……思ったよりも早くその時がきてしまった。
いつの間にか俺たちの間には妙に甘ったるい危険な雰囲気が漂っていた。口の中がカラカラに渇いて、ゴクリと唾を飲みこんだ。それでも渇きは癒えず、グラスの中身を一気に飲み干した。アルコールが喉を焼き理性を押し流すように胃に流れこんでいく。
「親友の弓子が今日ね、レストランの食事だけじゃなくて、ホテルのお部屋も用意してくれてるの。実際に泊まってモニタリングして欲しいんだって。……どうする?」
七奈がハンドバッグから取り出したのはカードキーだった。
「ど、どうするっておまえ、何考えて……」
――もしも七奈ちゃんが早まって告白してきても拒絶なんてしたらダメですよ?
後輩の言葉が脳裏に蘇り、俺は何と言ってよいのかわからなくなる。下手なことを言って傷つけようものなら、七奈が豆腐の角に頭をぶつけかねない。……ってフランス料理に豆腐なんてねえよ! でもナイフとかフォークとかもっと危険そうなものはたくさんあった。
ハッ……もしかして舞台も含め、最初からすべて計算づくの罠だったのか!?
「わたし少し酔っちゃったみたいだから、お部屋で休みたいな。……ダメ?」
焦り困惑する俺の手にそっと白い手のひらが重なった。その破壊力の凄まじさといったらない。とても妹が兄を見るとは思えない潤んだ瞳でじっと見つめられると、俺の中で理性がムンクの叫びみたいになって悲鳴をあげた。
「だ、ダメ……じゃないと思うけどな……たぶん」
「それじゃ行こうよ。あ――」
立ち上がりかけた七奈がぐらりと体勢を崩した。慌てて身を乗り出してその体を支えた。
まるで抱き合うような形になってしまい、間近に白いうなじがあって甘い香水と髪の匂いが鼻腔をくすぐった。抱きとめた腕にやわらかい感触と体温がもろに伝わってきて、正直、かなりくらっときた。大変です、理性ちゃんが息も絶え絶えになってます!
「やっぱり飲み過ぎちゃったかも……」
演技なのか本当なのかわからなかったが、俺はその時点で腹を決めた。
ここはひとまず七奈の言う通りにしよう。具合が悪そうにしている妹を無碍に扱うわけにはいかないし、いざとなったら俺も酔ったことにして寝たフリすれば済む……と思う。
足下が覚束ない感じの七奈にぴったりと寄り添われながら、俺はギクシャクとした足取りでレストランを出た。




