2
数ヶ月ぶりに大学を訪れ、とりあえず午前の二教科に出席してみたものの、内容は両方とも先週に行った期末試験の答案返却と解答の解説だった。テストを受けてさえいない俺が理解できるようなものではなく、仕方なくほとんど寝て過ごした。見よ、これぞダメ学生の鑑だ。
寝て起きてを繰り返すとすぐに昼休みの時間になった。昼飯は七奈の作ってくれた弁当があるので学食の一番目立たない隅の席で食うことにした。
給湯器で無料の緑茶だけ用意して弁当を広げる。お、今日のおかずは唐揚げとポテトサラダとキノコの炒め物か。七奈のやつ最近料理のレパートリーが増えてきたので弁当の蓋を開けるのがちょっと楽しみになっていた。
唐揚げに箸を伸ばしたところで、隣で奇声が上がった。
「――きょええええッっ! 風間先輩、それ愛妻弁当っすか!? ちょべりおーッ!?」
後輩の末原むつみが学食のトレイを手に驚愕の顔で立ち尽くしていた。
「よお末原。……なんだよその一昔前の流行語っぽいのは?」
「超ベリー驚いたです」
「語呂わるっ!」
別の意味で頭が悪い日本語だ。いつも思うのだけど、こいつの頭の中はどうなってんだろうか。
「そんなことより! それってやっぱり愛妻弁当なのです? い、いつの間に……ひどい、今期始まって初めて逢った日に先を越されてるなんて……」
「愛妻っつーか、愛妹弁当だな」
「……? アイマイミー?」
「欧米かっ!」
「マイアミ~マイアハ~♪」
「欧米の一発屋!?」
「うわーん! どういうことだか説明してくださいよぉっ!」
人に立て続けにツッコミを入れさせておいて衆人環視の中びーびー泣きだすうるさい後輩である。
とりあえず向かいの席に座らせて妹のことを大ざっぱに説明してやると、末原はあっさりと納得したようだった。
「先輩って妹さんいたのですか。高校二年生とか超若いですね。いいなー、あたし一人っ子ですけど、もしもお兄ちゃんがいたら毎日チューして手繋いで歩きたいのです」
「そうゆー妄言吐く奴はだいたい一人っ子って相場が決まってんだよ。もしくは自分にはいない方の兄弟姉妹に憧れてるかのどっちかだ」
実際に兄弟がいる奴でそんな血迷ったことを言ってる奴など見たことがない。
ふっと思いついて俺は箸を止めた。最近の妹の奇妙な言動について末原に相談してみるのはどうだろうか。こんなんでも一応女だし、俺にはわからないことが少しはわかるかもしれない。
「そういや末原、ちょっと聞いて欲しいんだけど――」
俺は最近あった七奈の二つの奇行と、たまに妙によそよそしい態度があったりすることに加えて今朝のデート発言についてをかいつまんで説明した。
黙って話を聞いていた末原の表情はめまぐるしく変化していたが、最後の方になると俺を見る目がなんというか、露骨に見下した感じになっていた。
「前々から先輩って鈍感だと思ってましたけど……まさかここまでとは思わなかったのです」
ヤレヤレとわざとらしく肩をすくめる嫌な後輩。
「うるせーな。何かわかったのか? なら早く教えろよ」
すると末原は俺の目をじっと覗きこむように見ながら、高らかにこう断言した。
「そんなの、恋に決まってるじゃないですか!」
コイ……?
俺は思わず箸でつまんでいた唐揚げを取り落としてしまった。
「な、なんでそうなるんだよ! 兄妹で恋愛とかおまえの妄想だから!」
「そう思いこんでるから、先輩は七奈ちゃんのことがわからなかったんじゃないですか? あたしに相談してきたのは先輩の方ですよ?」
う……。なんか納得いかないけど、とにかく最後まで話を聞いてみることにした。
末原はしたり顔で話し始めた。まるでそっち方面は得意分野ですと言わんばかりである。
「そりゃ兄妹で恋愛なんて~って思ってるのはあっちだって同じだと思いますけど、それ以上に恋愛にも異性にも興味津々なお年頃なのです。一六、七っていったら思春期真っ盛りじゃないですか。異性に興味がない方が異常ですって」
それはまあ、たしかにそうかもしれない。俺たちの頃はまだまだガキだったが、女子だとまた違うだろうから単純な比較はできないし、彼女もちの野郎よりも、彼氏もちの女の方が圧倒的に多かった記憶がある。つまり女子の方が恋愛に積極的ということだろう。
「自宅ではネットも自由に使えるから、手軽に色んな情報がどんどん入ってきて想像力をさらに刺激するわけです。でも七奈ちゃんてずっと女子校なんですよね? 男の人が周りにいない環境で、きっと耐性もないと思うんです」
「まあ、そうだろうな」
「そこに先輩っていう『安心できる異性』が身近にいたことは、彼女にとってものすごく都合がよかったのですよ。異性のことをもっと知りたいってきもちは、必ずしも恋愛感情だけとは限らないのです。たとえばそうですねえ……『キスってどんな感じだろう?』って興味をもって、いけないことだと思いつつもお兄ちゃんが眠ってる部屋にそっと忍びこんでみたりとか?」
「!?」
「たとえば『男の人の体ってどうなってるのかな?』って思って、でも見せてって言うわけにもいかないから悶々と想像を膨らませながら洗濯物の下着をぼーっと見つめたりして?」
「!? !? !?」
こ、こいつ……エスパーだったのか?
恋とか言い出した時から信用するつもりはなかったのに、今の例え話や心理描写はかなり生々しくリアルに感じられた。まるで七奈の頭の中を覗いて見てきたことを話しているようだ。
末原はこちらの反応に満足した様子でにんまりといやらしく笑った。
「初めはそんな感じで純粋な興味を身近な存在に求めてただけなんですけど、隠れてこそこそするのってやっぱりドキドキするじゃないですか。そのドキドキがかなりの曲者なのです。よく『吊り橋効果』っていいますけど、七奈ちゃんもそれに近い感じで、興味から始めた行為に伴うドキドキが、いつの間にか先輩に対するドキドキにすり替わっていったのですよ。そして初めてのドキドキを感じる異性に盲目的な恋愛感情が芽生えて――『どうしよう、あたしたち兄妹だけど……あたし、お兄ちゃんが好きっ!』――なーんちゃって!! やーん! もうたまんないですうぅぅッ☆」
「やかましいわボケっ!」
ついに我慢が限界を超えて手が出てしまった。
「ぁいたーーーッ!! ぶ、ぶちましたね!? お兄ちゃんにもぶたれたことないのに!」
「おまえ一人っ子だろ!!」
「心の中にいるんです! ちなみにお兄ちゃんの名前はマイケルです」
「欧米かっ!?」
もう一発頭を殴ってやった。これで少しはまともになってくれればいいのだが。
「……つーか、おまえの説明ってけっこうイイ線いってるところもあるって思ったんだが、本当にそうなのか? 特に最後の方、恋愛感情にまで発展ってのはちょっと……」
「今さら何言ってるですか。相手のこと意識して目が合うだけで赤くなったりとか、初めてのデートに気合い入りまくって周りが見えなくなるなんて、恋以外の何物でもないと思いますけど? 逆に他の何だったら納得出来るのか教えて欲しいくらいです」
末原の話は破綻しているようには思えないし、それ以外の可能性があることも思いつかない。やっぱりそういうことなのだろうか……?
「わかった。仮にその通りだとして……俺はどうしたらいいんだ?」
「それは先輩が自分で決めることですよ。んー……でも特別に、しちゃいけないことだけは教えてあげます。あたしって先輩にだけは激甘スイーツ仕様ですから」
それは正直ものすごく助かる。俺一人で考えてたら平気なつもりで地雷原を駆け抜けかねないもんな。やっちゃいけないことだけでもわかっていれば、それ以外の方法で対応すればいい。
「とりあえず変に意識して七奈ちゃんに素っ気なくするのは一番ダメです。先輩ってまっさきにそれやりそうだから要注意ですよ?」
……反論できない。きっと言われなきゃやってただろうな、それ。
「そんなことしたら思春期に特有のガラスのハートが傷ついて間違いなくバスタブで手首を切りますよ。それから七奈ちゃんのきもちを裏切らないことが大切です。恋愛なんて一種の流行病ですからいつかは自然に冷めるものですけど、むりやり冷ませようとかしちゃダメダメなのです。やけになってすべてに嫌気がさして確実に睡眠薬をがぶ飲みしまちゃいますから。あとは他に好きな人がいるような素振りやだらしないところを見せるのもNGですね。世を儚んで断崖から身を投げるに決まってます。それからもしも七奈ちゃんが早まって告白してきても拒絶なんてしたらダメですよ? 好きな人と家族を両方失ったと思いこんで豆腐の角に頭をぶつけてしまうのは確定的に明らかですから」
「最後のは死なないと思うが……なんでどれも自殺エンドで確定なんだよ?」
「疑うことなかれ! 全部経験談ですから信憑性は確かです!」
「おまえは何回転生したら成仏するんだ?」
末原はいつもの如く俺の言葉を聞こえなかったことにして、強引に話のまとめに入った。
「とにかく今言ったことに注意しつつ、先輩は先輩にできることを妹さんにしてあげるのがいいと思うのです。七奈ちゃんは普通に女の子してるだけですから、先輩もいいお兄ちゃんでいてあげてくださいね」
「……わかった。ありがとな、末原」
俺はひとまず礼を言って、それからさっき殴った頭の辺りにぽんと手を置いて軽く撫でてやった。痛かったかもしれないし、一応な。
「わっ……。せ、先輩にナデナデされちゃったです。エヘへ」
そういやこいつと初めて逢ってからもう一年以上経つのか。思わず時の流れの早さを感じてしまう俺だった。
学食を出て教室へ移動しながらも末原は上機嫌に益体もないことを一人でべらべら喋っていた。本当によく話す奴だ。俺は適当に相づちやツッコミを挟みつつ隣を歩いた。
「そういえば、今朝ニュースで見たんですけど、最近変な病気が流行ってるらしいですよ?」
コロコロ変わる話題がまた変わった。俺はテレビも新聞もほとんど見ないので当然そんなニュースがあったことなど知らない。
「その病気に感染すると発狂したように凶暴になっちゃうんですって。原因とか感染経路は特定できてないって言ってましたし、なんか怖いですよね」
「なんだそれ、どこで流行ってんだよ? 中国とか?」
「ううん、国内です。わりと全国各地で発生してるらしいのですよ。普通はそんな変な病気にならないと思いますけど、流行らしいので一応、注意ってことです」
その話はそれっきりで、末原は三限の授業を受けに教室へ向かい、俺は四限まで空いていたので図書館で昼寝することにした。
「……と、その前に掲示板チェックしとくか」
学生掲示板は学内行事や各種伝達事項、休講情報や課題、テスト情報などを生徒に周知するためのもので本学生徒はこまめに確認することを義務づけられている。内容が多岐に渡るため紙を貼るアナログ式の巨大なボードがいまだに健在であり、夏休み前ということで多くの学生たちが内容をメモったり写メを撮ったりしていた。
ざっと自分に関係しそうなものがないかをチェックしていると、それを見つけた。
鷺乃宮ゼミ生の夏期休暇中のレポート課題について。各自何かしらの民俗学的テーマを見つけてレポートにまとめること。形式、枚数は問わない。評価は内容のインパクトを重視する。提出期限は夏休み明けの九月某日――それらに加えて赤字で以下のように追記があった。
『締め切り厳守。未提出者およびいいかげんなものを書いた者はゼミ追放するで? ※うち夏休み中はバリ島に行ってるから、あとヨロシク☆』
「…………」
考えたらゼミは通年の必修科目なわけで、単位の取得は先生のさじ加減一つで決まってしまう。前期さぼりまくったから後期は頑張りますって言えるのもゼミに残れたらの話で、追放されちゃおしまいだ。今日たまたま学校に来てこれを見つけて本当によかったと思った。
バイト以外空白だった夏休みの予定が埋まった瞬間だった。




