3話 神より我が子 後編
時計を見れば七時半を指していた。窓の外は明るかったので朝である。それなのに家に旦那さんがいる気配は無かった。
「お父さん、約束があるって言って早めに出てったよ。昨日も言ってたじゃん。」
と鏡花ちゃん。仕事前に人と会うというのはかなり不自然である。一体どうしたというのか。三島は嫌な予感がしたらしく顔をしかめて考え込んでいたが、鏡花ちゃんに「どうしたの?」と聞かれて服を引っ張られると表情を綻ばせた。
日中は穏やかに過ぎていった。鏡花ちゃんが支度を済ませて小学校へ行ってしまうといよいよ家には三島一人となり静かになった。何のためにこの場面を見せられているのかがまるで分からないほどの日常。僕ら二人はただただそれを観察していた。
昼過ぎに鏡花ちゃんは帰ってきた。彼女はランドセルを下ろすと中から数冊、本を取り出した。
「それ、借りてきたの?」
と三島が聞くと彼女は黙って頷きながらページをめくった。本はおよそ児童が好んで読むとは思えない、実用書に近いようなものばかりだった。
「それ、おもしろい?もっと楽しいやつがあったんじゃない?」
三島が聞いてみると、鏡花ちゃんは不満げであった。
「だって、昨日お父さんがそういうのはダメだって。」
旦那さんが?はて、いくら神経質な親でも、娘が読む、それも普通の本を規制したりするだろうか。
「面倒くさいことになりそうね。」
紗良さんが渋い顔でこぼした。
夕飯時になると旦那さんは帰ってきた。三島はちゃんと三人分の食事を用意していた。旦那さんはバッグを置いてネクタイを解くとダイニングにやってきた。そのまま先に着くのかと思いきやテーブルの上を見て顔をしかめた。
「おい、これは何?」
彼が指さしていたのはキノコのクリームシチュー。
「ただのシチューだけど?」
と三島が不思議そうに返すと、
「ただの?キノコが入ってるだろう!」
と声を荒げ始めた。
「あなたキノコ嫌いだったっけ?」
「嫌いに決まってるだろう!キノコは悪魔の落し種なんだ。食っちゃならん。下げろ。」
旦那さんは自分の部屋にもどってしまった。
嫌な予感はよくよく的中してしまうものだ。何の因果か分からないが、三島が宗教と決別したことで、今度は旦那さんが宗教に入れ込んでしまったらしい。三島も心当たりがあったようで
「朝の約束って修道会の朝礼拝じゃないかしら。」
と独り言をもらした。三島が知らないうちに、旦那さんはその弱った心を宗教の神につけ込まれてしまったのだろう。
「けれども、どうしよう。」
夜中、三島は鏡花ちゃんの穏やかな寝顔を眺めながらそう呟いた。ドアが少しだけ開いた隙間から光が差し込み、鏡花ちゃんの左頬を橙色に照らすので僕と紗良さんからもその様子がはっきり見えた。結局この日、旦那さんが自室から出てくることはなかった。三島は仕方なく一皿だけ残ったシチューからキノコだけを取り除いてラップをし、冷蔵庫に入れておいた。
何が正解なのだろうか?僕ら二人も三島も考えているはずのことだが、どうしたらいいのか分からない。もうとっくに正解なんて残されていないのかもしれない。宗教の根深さというのは三島が最もよく知るところである。一度取り憑かれれば容易には抜け出せない。三島本人だって何もかも失うまで囚われ続けたのだ。旦那さんをまともに戻すのだって困難だろう。旦那さんは自分が正しいと盲信しているような状態なのだから。
三島は頭を抱えて鏡花ちゃんのベッドに突っ伏した。「これ以上、私はどうしたらいいの。」と言わんばかりだ。まさに八方塞がり。三島はもはや旦那さんのことというよりも、この幻を続けるか止めるかで悩んでいるように見える。僕だってそうだ。あんな旦那さんをどうしたらいいのか分からない。
紗良さんが着ていたパーカーのポケットに手を入れると、中から紙切れを取り出した。
「それ何すか。」
と聞くと、紙切れを手渡された。新幹線のチケットである。
「この前、私が使ったやつ。」
「そんな使えないチケットなんて取り出してきて、どうするんすか?」
新幹線のチケットが宗教と何の関係があるのかが僕には到底分からなかった。
「決まってるじゃない、仕事よ。依頼人が行き詰まってるのに何もしないわけにはいかないじゃない。」
そう言うと紗良さんはチケットをパッと手放した。チケットは翻りながらゆっくりとベッドの上に落ちた。紗良さんの手元を離れたチケットは三島にも見えるようになったらしく、容易にその存在に気づいた。
「あれ、何かしらこれ。私、最近大阪になんて行ったかしら。ああ、きっとあの人が出張したときのやつね。」
と勝手に納得した。だが、そのままそれを捨てると思いきや三島はチケットを見て何か考えていた。しばらく逡巡していたようだったが、結論が出たのか、いや、それよりむしろ決心がついたのか、三島は表情を明るくすると、紙切れ同然のチケットをゴミ箱に放り込んで鏡花ちゃんの部屋から出て行ってしまった。
僕だけが未だに何が何やら分かっていない。紗良さんと三島だけで状況をどんどん進めていって僕だけを仲間外れにしているようで結構不愉快である。
「教えて下さいよ、どういうことなんすか、これ。」
しかし紗良さんは「まあ明日になってのお楽しみよ」とだけしか言ってくれなかった。
翌朝、やはり旦那さんは居なかった。おそらく今日も朝礼拝とやらに行っているのだろう。三島は昨日よりも早くに起きており、なぜかすでに服を着替えていた。鏡花ちゃんが起きてくるや否や三島は挨拶もなしに話し始めた。
「鏡花、今日は学校行かなくていいわ。それより、お母さんとお出かけしましょう。」
鏡花ちゃんは「学校を休んでいい」という部分にだけ心を惹かれているようで他は大した疑問を持たなかった。
鏡花ちゃんが支度を済ますと、朝食もなしに二人は家を出た。去り際三島は自分の印だけを押した離婚届をテーブルの上に置いた。
三島は鏡花ちゃんの手を引いて迷いなく歩き始めた。気が急いているのか、やや早足だ。
「どこに行くの?」
と鏡花ちゃんが聞いても三島は「行ってからのお楽しみよ」とだけしか返さない。まるで今の僕と紗良さんのようである。
辿り着いたのは、鉄道の駅だった。鈍い僕はようやくそこで合点がいった。旦那さんから逃げるのだ。現実で旦那さんが三島にそうしたように。幻とはいえ、運命とは数奇だ。全く立場が逆転してしまうのだから。紗良さんが新幹線のチケットを見せたのも、それを仄めかして誘導するためだろう。ただ、突然高飛びするわけにもいかず新幹線でなく、普通の鉄道を選んだわけなのだが。
三島は行き先に悩んでいた。余り近いと旦那さんに遭遇しかねない。余り遠いと鏡花ちゃんが学校に通えなくなってしまう。大人の事情に子供を巻き込むのは避けたかったのだろう。
結局三島が選んだのは隣の市だった。彼女は大人一人、小人一人の片道切符を買うと、鏡花ちゃんに小人の方を持たせて改札を抜けた。僕らは勿論切符なんて買えないので、人が抜けたあとを狙って改札機をすり抜けた。
ホームは通学の学生や通勤のサラリーマンでごった返していた。三島たちは一番端の列に並んだ。電車が来るまであと五分弱。
僕と紗良さんはもちろん見えていないので三島親子が見えやすい位置に割り込んでいた。
「これでよかったんすかね?」
と思わず口にしてしまった。旦那さんをほったらかしにして、それで解決なのかと疑問に思ってしまっていた。
「いいも悪いも三島さんが決めることよ。私たちはただの補助。ハッピーエンドもバッドエンドも、期待しちゃいけないのよ。」
紗良さんはいつになく真面目に答えてくれた。
電車がやってきた。風が起こり、自分のまつ毛が揺れるのを感じる。プシューという音を立ててドアが開いたので僕らと三島親子は電車の最前の同じ車両に乗り込んだ。端ということもあり、この車両だけは人がまばらで、僕ら四人はみんな座ることができた。鏡花ちゃんは電車に興奮しているようで、
「ねえお母さん、お願いだからどこに行くのか教えてよ!」
ともう一度三島に聞いた。
「とても楽しいところ、自由なところよ。」
と答えると三島は窓の外の遠くを眺めた。
三島は夫と別れたというのに、安心した表情だった。きっと道徳的にも宗教的にも正しい選択じゃなかっただろう。それでも彼女は満足げだった。彼女の中では一番正しかったのだろう。
電車が走り出した。窓の向こうが移動しだすとガタンゴトンと車体が揺れだす。膝の上を来ては過ぎる朝日の光と影が柔らかかった。朝早くの電車は眠気をまとい、向かいのシートは七人がけの中で五人が目を瞑っている。僕も眠くなってきた。他人の家で、しかもリビングを間借りして夜を明かすなんて、眠れるわけがない。まどろむたびに紗良さんから肩を揺り動かされた。
目が冴えたのは車内アナウンスがあってからだった。
「ご乗車ありがとうございます。次は現実、次は現実。終点です。」
アナウンスが終わり切る前に窓の外から強烈な光が差し込んだ。日の光とは異質の光だ。それはたちまち車内まで埋め尽くし、視界全体が覆われてしまった。
再び目を開けたときにはすでに事務所の中だった。まだ少し視界が緑でおぼつかないが、紗良さんと一緒に大部屋に戻ると三島がいた。
「皆さん、ありがとうございました。なんだか、救われた気がします。現実は何も変わっていないけれど、不思議とやっていける気がしてきたんです。」
「それはよかった。」とだけ多山さんはニッコリと笑みを浮かべながら返した。
三島の見送りは僕が行った。と言っても事務所のドアの前までなのだが。三島の背中を見ていると、切なかった。この人はまた救われない現実に戻っていくんだ。そう考えるとやるせなくて僕は
「あの......頑張ってください。何をとか分からないけど、どうか頑張ってください。」
三島は振り向くと笑顔で応えてくれた。
「ええ頑張ります。神に誓って......」