6話 消えてしまった泡沫をもう一度 前編
磯は匂うが、海風は爽やかで旅情に華を添えてくれる。今、僕と紗良さんと多山さんの三人は、慰安旅行に来ている。事務所は半年に一回こうして旅行するらしい。
今回の行き先はエジプトらしい。もちろん僕は行ったことがないのでとても楽しみにしている。ピラミッドやスフィンクスとかは、ありきたりではあるけれども教科書くらいでしか見たことがないので、生で見ることができるのは嬉しい限りだ。
そして今、僕たちはエジプトへ向かうクルーズにいるのだ。旅行と聞いて僕は飛行機でちゃちゃっと行って、そこらへんのホテルに泊まって、多少観光する程度のものだと予想していた。それだからこんな豪華客船に乗っていくとは夢にも思わなかった。
もちろん嬉しいんだけど、戸惑っているのも事実だ。船の中のどこにいても、見渡す限りセレブがいるのだ。最初のうちは日本人ばかりでまだよかったが、途中で寄港するたびに海外セレブまで大量に乗り込んでくるのだ。彼らのオーラに押し潰されてしまいそうである。
それにしてもこんな金持ちばかりが乗るクルーズに乗って行くとは、うちの事務所はどれだけ金を持っているのか? そこらへんの管理は全て多山さんがやっているから全くの未知数なのだが。
船の中はそういう感じでいたたまれないので、こうして甲板に出て風にあたっているのだ。さすがにここは人が少ない。というか、僕を除くと、あと一人男の人がいるだけだった。
彼は甲板に用意されている白いチェアに腰掛けていた。何をするわけでもなく、ただただ海のずっと彼方をぼんやりと眺めているのである。僕はなんとなく彼のことが気になってしまい、遠目に彼のことをずっと見ていた。
男性の顔はよく見えなかった。意図的に思えるほどハットを目深に被っているからである。上品な口髭がくっついた高い鼻がチラチラとのぞくだけだ。
ずっとみていたが、やはり彼は一人だった。連れは誰もいないようで、ただぼんやりと遥か海の景色を眺め続けていた。僕が言うのもなんだが、この船は楽しむために乗るものだ。なにをするわけでもなくただ乗っているなんて、一体どういうわけなのだろうか。
それがずっと気になっていた。彼に直接聞いてみようかなとも思ったが、とても話しかけられる雰囲気ではなかったし、第一僕にはそんな度胸がなかった。だからただ遠目に彼の様子をずっと見守っていた。
そうしてしばらくするうちに、多山さんと紗良さんが甲板に上がってきた。
「ここにいたのかい、晃介くん。」
多山さんは片手にウイスキーを持っていた。しかもロックで。昼間から随分と楽しんでいるらしく、かなり上機嫌だった。
「もう……どこ行ってもいないんだから心配したんらよー。」
嘘だ。紗良さんもグラスを持っているし、しかもこっちはストレートでいってる。なんならもうすでに顔がほんのりと赤い。
僕も少し酒を入れると楽しめたのかな。しかし二人とも上機嫌だった。
「こんなところれ何してるの? 」
紗良さんは呂律が回らなくなってきてるし、もう休んだ方がいいんじゃないかと思う。けどどうせ言っても聞かないだろうな。
「あそこにいる男の人が気になって。」
「ヤダァ。晃介くんってそっちなのぉ? 」
酔ってるとこ初めて見るけど、本当めんどくさいなこの人。
「違いますよ。あの人、ずっと甲板で一人きりのまま何もしないんですよ。」
「へえ、もったいないわね。お酒飲めばいいのにねー。」
あなたはもうやめた方がいいですけどねと口走ってしまいそうになったが、確かにその通りだ。この二人みたいにクルーズは乗りながらも楽しむのが普通だろう。
男性は後から来た多山さんと紗良さんのせいでうるさくなったのを気にも留めずに相変わらず遠くをぼうっと見つめていた。
「ずっとあんなふうだから気にもなるでしょ。」
「確かにそうねー。具合でも悪いのかしら。」
紗良さんは男性の方へとちょっとよろめきながら歩いていった。
紗良さんはそのまま男性ににじり寄った。
「あ、ちょっと! 何しようとしてるんですか! 」
僕がそう言って止めようとしたのも聞かずに彼女は男性に絡んだ。
「おじさん、甲板で一人だなんて、何かあったの?具合悪いの?」
紗良さんはハットの中を下から覗き込むようにしながら男性に絡んだ。
多山さんは一部始終をずっと見ていたが、無言でにこにこしていた。この人も大分酔いが回っているな。彼も今は役に立たないので、僕が紗良さんを止めにはいった。
「紗良さん! ダメですよ迷惑かけちゃ。」
振り返った紗良さんは妙に切ない顔をしていた。
「すいません、うちのが。」
と、男性に謝罪すると彼はこちらを向いた。男性の顔が初めて見えた。丸い目の上を眉が少し垂れて、優しい顔立ちをしていた。しかし、目が碧かったので、純粋な日本人ではないようだった。ハーフだろうか。
男性は優しく笑みを浮かべた。
「いえいえ、お気になさらず。」
優しい人でよかった。だけど、彼の表情は曇っていて、一層彼の事情が気になってしまった。
紗良さんが彼に絡んだのもいいきっかけだから、ついでに僕も男性に聞いてみた。
「僕が聞くのも不躾ですけど、どうしてずっとここにいるんですか? 」
男性はどうしてそんなこと気になるのかとでも言いたそうな顔をしていたが、答えてくれた。
「……人を待っています。」
小さい声だったが、はっきりとそう言った。
聞くべきではなかったかもしれないが、聞いてしまった。
「誰を……待っているんです?」
「女の人だよ。名前は知らない。」
「名前を知らない? おかしな話ですね。」
男性はまた遠くを見つめた。
彼は上着の内ポケットからタバコの箱を取り出すと一本口で取り出して、そのまま火をつけた。煙は海風に揺られて流れていった。
男性は煙を一吐きすると話し始めた。
「申し遅れましたが私、名前を片岡真也といいます。ちょっとした会社を経営してる者です。自分で言うのもなんですが、金がなまじあるのでこういうふうに旅をするのがずっと趣味なのですが、この間のことでした。」
そこまで言うとまた片岡さんはタバコを口にした。
片岡さんのタバコは見たことない銘柄だったが、不思議とそんなに嫌な匂いはしなかった。さっきまでか細かった声にも、しだいに力が入ってきた。
「こんなこと初対面の人に言うのもおかしなことですが……いや、赤の他人だからこそ話せるというものでしょうな。あれはちょうど一年前のこと。これと同じクルーズの同じツアーに、僕は参加していました。そのときも私は一人でした。友人がいないわけではないのですが、旅はやっぱり一人が好きなのです。」
紗良さんはとりあえずは脇で座って大人しく聞いていた。海風に当たってちょっと落ち着いてきたようだ。片岡さんは続けた。
「おかしいな。あなたたちにだと、色々と話してしまう。でもまあそんな感じで一人旅をしていたら、ある一人の女性に会った。彼女は甲板で一人ブランデーを飲んでいたんだ。それもティーカップを使って飲んでいたからすぐに目についた。私は普段他人に話しかけるような男じゃないが、そのときばかりは気になってしまい彼女に話しかけてみたんだ。それこそ今の君みたいにね。」
僕は少し気恥ずかしくなってしまった。
「女性は優しく応えてくれたよ。どぎまぎしていた私に微笑みかけてくれた。その笑顔を見てだよ。言うのも恥ずかしいんだけどね、私は彼女に一目惚れしてしまったよ。」
片岡さんは照れ隠しにまたタバコを咥えた。




