三十話
「静森さん! 不躾なのは分かってる! でも、話だけでも聞いてほしい」
返答はないが、俺は話し始める。
「この前来た日、学校に帰った後、愛子に告白された」
カーテンの端が、わずかに揺れる。
「今日まで先延ばしにしてたけど、さっき断った」
この発言でカーテンが完全に開けられ、窓に手がかかる。
「静森さん! ……だよな?」
窓を開ける部屋着姿の静森さんを見て、俺は本当に愕然とした。
数日前から、格段に悪化していた。
真っ直ぐ艶やかだった黒髪は、首を絞めつけるように巻きつき、顔は血を全て抜かれたかのように蒼白。
頬もこけて陰影を作り、手首は枯れ木の枝のように細くなってしまっている。
こんな状態の彼女に、俺の身勝手で想いを伝えていいのか?
静森さんは、水から上がってすぐのような青白い唇を動かす。
「なんで、愛子ちゃんと、付き合わなかったんですか……?」
注意して耳を傾けなければ、聞き取れないくらいのか細い声。
喋ることすら大変そうに見える。空虚な瞳が俺を見据えている。
ダメだ。
とてもじゃないが、俺の想いを伝えられる状況じゃない。
今は時期じゃない。
静森さんを元気づける方が先決だ。
「詮索して悪いと思うけど、愛子から聞いたよ。だから、学校に来なくなったんだね」
今は体調を回復させて、将来的には登校まで漕ぎ着けられるよう誘導するべきだ。
俺はカウンセラーのような態度と口調で語りかける。
「何て言ったらいいか分からないけど、体調が戻って、時間が経って落ち着いたら、自分のペースで学校来なよ。俺たちは待ってるから」
「………………………………違います」
俺が「何が?」と尋ねる前に、
「それだけじゃないんです」
顔を伏せていた静森さんが、語調を強めた。
きつく握られた拳が震えたかと思うと、その振動は全身に伝播していく。
静森さんは両目を血走らせ、辛苦を顔に貼り付け声を張り上げた。
「私、見ちゃったんです! 愛子ちゃんの家で二人がキスしそうになっているところ!」
あのとき、起きてたのか?
静森さんは想いを吐き出すように、矢継ぎ早に言葉を発する。
「今までは告白なんてできなかったんです。その前に引かれちゃったり、初めから相手にされなかったり、避けられちゃったり。でも、愛子ちゃんは違った。デートも受けてくれて、お家にも呼んでくれて、名前で呼んでくれて、この人は特別だって思ったんです!」
顔をぐちゃぐちゃにして心中を吐露する彼女に、俺は圧倒される。
「本当は少しずつ仲良くなって、気持ちを通じ合わせて、理解し合えてから告白しようって思ってました。でも、左塔くんと愛子ちゃんがキスしそうになってるの見て、胸が痛くなって、張り裂けそうになって、言い表せない嫌な予感がしたんです……!」
溢れ出る涙を両手で拭いながら、それでも言葉を続ける。
「学校でも、あんまり二人に近づけなくなって、毎日毎日不安で仕方なかった。何かに迫られてるような、取り返しのつかないことになりそうな、妙な予感にずっととらわれて。それで、勇気を出して愛子ちゃんに告白したんです。そしたら、左塔くんが好きだって断られました。そのとき気づいたんです。ずっと胸の中にあった嫌な予感が何なのか。一番の仲良しだって思ってる、一番近くにいる、一番私を支えてくれてる男の子が、私の大好きな人を連れてどっかへ行っちゃうって! 私そう思ったんです!」
言い終えて、その場に泣き崩れた。
俺は大きな思い違いをしていた。
静森さんが学校に来なくなった理由は、俺の想像よりも切実だった。
好きな女の子には離れていかれ、父親のことで男はいつか自分の前からいなくなるんじゃないかと意識下で危惧するため、静森さんは男女とも深く付き合えないでいた。
そんな彼女が、俺と愛子が良い雰囲気でいるを見て連想したこと――それは、大好きな人と一番信頼している男の子を、同時に失う未来だった。
それを懸念して、俺たちから距離を置き、得体の知れない強迫観念から逃れるように愛子に告白した。
そして、そこで愛子から決定的な事実を知らされた。
静森さんの予感が現実化していく中で、彼女の精神はどんどん磨り減っていった。
体調を戻して学校に来て、なんて気休めにもならない。
じゃあ、俺がやるべきことは?
今、俺が静森さんにできることは?
「………………………………………………………………やめた」
俺の一言に、静森さんがしゃくり上げながら、こちらに視線を移す。
「今は体調を戻して、学校に来られるようになってもらうのが最善だと思った」
静森さんは落涙に顔を大きく歪めて、俺の声を聞いている。
俺はすっかり弱りきっている少女の顔を見据え、
「俺が今日ここに来たのは、そんなことを言うためじゃないんだ」
俺は静森さんと出会ってからの日々を思い返していた。
入学式の朝、静森さんと出会って、愛子との仲を取り持ってほしいと頼まれ。
静森さんのいろんな表情を思い巡らせ、そして、俺に向けられた眩しい笑顔で、俺はこの子の一目惚れの応援をしようと決意した。
一緒に過ごしていくうちに、一目惚れから始まった俺の静森さんへの想いはどんどん磨かれて、あるとき本物の恋へと昇華していった。
その想いは身を焦がすほどの熱をもって、いよいよ奔流のように胸の奥底から喉へと流れ出し、口から言葉として溢れ出た。
「静森百合花さん。俺は、あなたのことが好きです」
静森さんの疲弊しきった双眸が、驚きに見開かれた。
こんなタイミングで告白しても、余計混乱させるだけかも知れない。
「俺が静森さんの協力をしたのは、静森さんのことが好きだから」
俺はすごく自分勝手な告白をしてる。
「女の子を好きでも良いと言ったのは、君の笑顔があんまり眩しくて、いつでも輝いていてほしかったから」
でもこのままじゃ――。
「最初は一目惚れだった。入学式の朝、本当に女神が降臨したんじゃないかって勘違いしそうになったくらいなんだよ。その後、静森さんの笑顔や、一生懸命な表情や、たまに見せる寂しそうな顔を見る度、俺はすごく胸が苦しくなって。静森さんが笑顔なら、幸せならそれでいいって思ったりもした。応援しよう、味方でいようって。でも、やっぱり静森さんの隣にいたい、静森さんに隣にいてほしいって、そう思っちゃったんだ」
――静森さんは、誰も信じられなくなってしまう。
だからさ、俺は、
「静森さん! 俺、頑張るから! 男を、じゃない。性別関係なく、俺という人間を信じてもらえるよう、好きになってもらえるよう頑張るから!」
男とか女とかじゃなく、俺という人間を見ていってほしい。
「俺という人間が信用に足るって、ずっと静森さんの傍にいて、君だけを一途に想い続けられるって、静森さんが安心して思えるまで、どれだけかかるか分からない! それでも俺は実証し続けるよ! 例え、一生かかっても!」
いつまでも変わらない想いはきっとある。
それを証明し続けてる男がいる。
俺がここまで来られたのは、白姫先生が車を飛ばしてくれて、唯夜が肩を貸してくれて、そして、愛子が「頑張りなさい」と背中を押してくれたから。
不安とか迷いとか恐怖とかに、一切の邪魔をされなかった。
俺は最後の言葉を紡いでいく。
「俺と、付き合ってください」
俺はあのとき、舞い落ちる女神の羽を見たんだ。
面白いように目を丸くしていた静森さんは、ようやく言葉の意味を理解すると、立ち上がって机の引き出しを漁りだした。
そして、何かを取り出し、俺の前まで戻ってくると、それを差し出してきた。
「あの、これ、今まで応援してくれて、味方でいてくれて、ありがとうございました。こんなのじゃ全然足りないんだけど、お礼です」
それは、天使のデザインのハンカチだった。
とりあえずお礼を言おうと、静森さんの顔を見やると、彼女はおもむろに俯いた。
俺はとにかく「ありがとう」と言ったが、表情が読みとれず、いよいよ当惑した。
幾時間の後、もう全てを委ねて濡れねずみになった俺に、静森さんは一言だけ、
「ごめんなさい」
「不法侵入して、あんだけ恥ずかしい告白して、あれはいい近所迷惑だったな!」
白姫先生は揶揄した笑いを隠すこともなく、口元をいやらしく歪めた。
俺は鬱屈とした気持ちを少しでも体外へ吐き出すように、大きく嘆息してから、
「あんまりからかわないで下さいよ……。これでも俺、結構ショックだったんすよ?」
半眼で睨みつける俺に、先生は「すまんすまん」と白々しく顔の前で両手を合わせた。
それから、俺の肩に腕を回し、なおも、
「いやしかし、あれはとんだバカロミオだったな!」
今度はお腹を抱えて大笑いを始めた。
俺は静森さんにフられた。
あの日、静森さんの口から零れた「ごめんなさい」は、俺の告白への真摯な返答だった。
俺はその後何も言えず、間もなくその場を去った。
次の日、愛子に会ってすぐに結果を報告した。
愛子は「そっか」と言ってから、「じゃあ、私にもまだチャンスがあるってコトね」と、仄かに頬を赤らめて微笑んだ。
女の子は本当に強かだ。
結果的に、三人とも想いは報われなかった。
恋愛は難しいとつくづく思う。
青春らしい感傷に浸っていると、眼鏡がよく似合う親友が起伏のない声で、
「どうした、夏人。やはり立ち直れていないのか?」
もはや体の一部と言わんばかりに眼鏡を正しながら、涼しげな瞳で問いかけてきた。
俺は少し穏やかな気持ちで、胸中を発露する。
「いや、完全に吹っ切れたって言ったら嘘になるけど、もう気持ちの方向は決まってる」
俺たち三人がいる展望台では、心地よい初夏の風が、程良い涼をもたらしている。
空を仰ぐと、梅雨明けを満を持して待っていた太陽が燦然と輝き、その陽光がこの街に惜しげもなく降り注いでいる。
季節は夏に向かっている。
「ここから俺たちの関係が、また始まると思うんだよ」
階段の方に視線を移すと、ちょうど二つの影が姿を現した。
清純という言葉が似合う容姿端麗の少女が、微風に緑髪をたなびかせている。
その隣には小動物を連想させる少女が、片側で束ねられた髪の毛を踊らせている。
静森さんは梅雨が明ける少し前、制服の衣替えの移行期間に、登校ようになった。
体調も見かける度に良くなっているように見える。
愛子への失恋から立ち直ったからなのか、それ以外の理由があるのかは分からない。
俺の告白に感化されたから、とはおこがましくて結論付けられなかった。
でも、こうして静森さんの元気な姿が見られるなら、それでいい。
今日まで話せないでいたが、愛子と相談して、思い切って静森さんを誘った。
入学式の朝、俺はただ意気揚々と彼女が欲しいと意気込んでいた。
今は少しだけだけど、違うように思う。
俺は大きく深呼吸して、こちらに向かってくる二人の少女へと一歩を踏み出す。
俺たちは、展望台の真ん中あたりで向かい合った。
三者がそれぞれ、自分以外の顔を一瞥する。
日差しを浴びる二人の顔は、とても輝いて見えた。
多分日差しのせいだけじゃないのだろう。
俺たちはここから新しい関係を築いていくんだ。
静森さんが俺に視線を向け、形の良い淡い桃色の唇を控えめに動かす。
「あの、聞きたいことがあるんです」
まさか、この前の告白が俺の本心だったのか確認する気なんじゃ?
状況が状況だったし、あり得なくはない。
大丈夫だよ、静森さん! あの日、俺が君に言ったことは全部本心だ!
静森さんはおっとりとした攻撃性のない瞳を期待に光らせて、
「この間、女装したって本当なんですか! 二郷くんから聞きました! ……良かったら、今度私にも見せてもらえませんか? 夏人くん」
男の俺には興味なしってかッ?
唯夜も余計なこと言ってんじゃねぇよ!
あれは俺の隠蔽すべき黒歴史なんだ!
相変わらずの静森さんに困惑したような安心したような――って、今、何て?
静森さんは小首を傾げ、大きな二重の瞳をパチパチさせ、俺の顔を覗き込む。
「どうしました? 夏人くん」
少しずつ、一歩ずつでいい。
「いや、何でもないよ」
ちょっとだけ、遠回りになるかも知れない。
「いつまで二人で見つめ合ってるのよ! 百合花がお弁当作ってきてくれたんだって! こんなとこで突っ立ってないで、早く皆で食べよ?」
将来、俺の隣にいるのが誰なのかなんて、やっぱり今は分からないことなのだろう。
「夏人くん、私たちも行きましょう。その、……甘い卵焼きも作ってあるから。リクエストがあれば、他にも作りますよ?」
ただ、一つだけ確かなことがある。
「夏人! 早くしないと蹴り倒すよ!」
「夏人くん。ご飯を食べながら、夏人くんのことも聞かせてください」
差し出される二本の手の先には、直視できないほど魅力的な笑顔をたたえる二人の少女がいる。
俺は二人の手を取り、強く感じる。
この胸の高鳴りが、かけがえのない宝物になっていくのだろうという、確信めいた予感。