第九十章
第九十章
小さいが品良く纏められた庭園を抜けた所が目当ての旅館であった。玄関までの道には小砂利が敷いてあり、やっと坂道から解放されたばかりの殉はもうひと汗かかされる羽目となった。
「ねぇジュン、聞こえてる?あと少しよ」
「…ハァハァ…も…もうダメ…」
「頑張って、あとチョットだから」
青息吐息で何とか旅館の入口まで車椅子を運んだ殉は、精魂尽き果ててへたりこんでしまう。
「大丈夫? 顔、青いよ」
「な、なんとか」
殉をいたわる加夏子の脇へ老人がやってきて、ここがそうじゃよと声を掛けた。
「兄さん大丈夫かいのぅ」
「ワタシいってきます。おじいさん、ジュンのこと見ててくれませんか」
「引き受けた、いっといで」
ホイールを回して玄関の引き戸まで行くと、手を伸ばして開けた戸口の中へ向かって加夏子は勢いよく叫んだ。
すみませーん!
ごめんくださぁーい!!
途端に足音が響き、仲居風の中年女が顔を見せた。
「鈴木さまですね。ようこそいらっしゃいました…アラ御嬢様ですか、係の者が伺っている筈ですのにとんだ失礼を…今、人を呼びますので暫くお待ち下さい…チョット!誰かおらんね!」
「あ、アノ、ワタシ鈴木じゃあないんですけど…」
「えっ? 違うの? じゃあ富沢さんとこの…」
「それもチガイマス、ワタシひとを捜しにきたんです、ここが実家だと聞いたので…」
「お客じゃないのかい!?なら裏口から来てくれんと困るわ…」
「何ですか。騒がしいですよ」
奥から和服姿の女性がゆっくりと歩み出てきた。
白いかすりの着物。高く結い上げた髪と凛とした佇まいが、光の強い目と相まって彼女こそここの女将だと見る者に教えていた。
ママに似てるな…
加夏子は少しの間、ポカンと彼女を見つめていた。
「お嬢さん。人を捜しているとおっしゃってましたね。娘の…恵美子の事かしら」
「そうです。でもどうして…」
「貴方で二人目ですのよ。今日、あの子を訪ねてきたのは」
微笑んで女将は言った。
「お連れさんもいらっしゃるようですし、兎に角おあがりなさいな。さぁ」
女将は仲居に、車椅子を中へ挙げるように言うと、裾を返して奥へと歩き出した。
(続く)