第八十九章
第八十九章
「どのくらい離れているんですか?衣笠さんちの旅館って」
「あと坂を3つほど越えて、地蔵さまの裏手を回り込んだ辺りだったかの。しんどいじゃろうが辛抱しちくれ」
「3つ…坂3つですか」
大汗をかきながら車椅子を押す殉は心底しんどそうであった。
「ゴメンね、ジュン」
「なぁに、これくらい…どうってこと…ないや」
「フォッホッホ、椅子を押すのは兄さんの役目らしいからのぅ。すまんが年寄りは道案内だけさせてもらうけ。もう昔みたいな力はないけん」
老人は口で言うより闊達な歩調でスタスタと先を歩いてゆく。
「あっ、ここ左ね…ねえジュン、衣笠さんはどうして碧ちゃんを連れていったりしたのかな?」
「ボクにも…わかんない…わかんないケド、碧ちゃんじゃなきゃいけない理由があるとしたら…」
「あるとしたら?」
「心の声。それしかない」
加夏子が一瞬、息を呑んだ。
殉の口調は断定であった。
「あのチビちゃんと会ったのも駅前だったか。酷く右膝が痛んだ日じゃった。ジッとこっちを見て、”おじいさん、足、痛いの?”といいおった。わしゃあビックリしたぞ、ビックリしたが嬉しかった。身寄を無くしてもう何年経つか忘れたが、見も知らぬ女の子に案じてもらえるなんぞ、この歳にゃあそうそうない事でなぁ」
背を向けて歩きながら、老人は誰に聞かせるでもなく話し続けた。
「その時、おじいさんは気が付いたんですね、あの娘の”力”に」
「そうじゃな」
つづれ折りの坂道を曲がろうとした時、上から男が一人、歩いてきた。
グレーの背広を肩にかけ、額に汗を浮かべたその男は不機嫌そうな顔で三人を一瞥すると、俯いたまますれ違い坂を下っていった。
「なんか感じわるいね、今の人」
「ダメだよカナ、聞こえちゃうじゃないか」
「大丈夫だって。それにあの人、なんかこの辺りの人じゃないみたい」
「まさか。想像力逞しすぎだよ」
「そうかなぁ…」
車椅子から身を乗り出し。加夏子は後ろを振り返ってみた。
角を抜けた男の姿はもう見えなくなっていた。
◇
ボーッと歩いていた北山が立ち止まる。
車椅子。盲目の少年。
まさか。
坂の途中でガバッと振り返る。
驚いた鳩が数匹、空に舞い上がった。
(続く)




