第八十五章
第八十五章
内海に沿って広がったそこは、潮風が路地の隅まで撫で抜けるような、そんな街であった。
尾道という名の駅に降り立ち、殉は車椅子を押しながら辺りを見回してみた。
すぐ側に港。寂れた駅前から視線を上げれば、反対側はなだらかな傾斜の山間に民家や寺の類が点在するのが見てとれる。
加夏子が視線を上げると、山の手は急に勾配を増してそびえ立ち、頂上には小さな城のような建物があった。
「尾道城。昔、瀬戸内を根城にしていた海賊があそこに城を建てて、自分達の縄張りに睨みをきかせていたんだって。海賊と言っても今と違って…領主が土地を束ねたように、海賊にとっては海が自分達の領土だったのよ」
首を左右に振る殉に、加夏子が下から解説してみせた。
「へぇ〜、物知りなんだね、カナは」
加夏子がクスリと小さく笑った。
「え?ぼく何か変なこと言った?」
「ウゥン、そうじゃないの。そうじゃないんだけど…」
少しずつ笑いが大きくなるのを抑えようとしながら、加夏子が殉の目を覗き込んだ。
「キスの効き目、あり過ぎかなぁ〜て…」
???
「だってジュンったら、”物知りなんだね、カナは”なんて言うんだもん。ナンカもうすっかり俺の女、みたいじゃない」
「だって君が言ったんじゃないか、”カナって呼べ”って!ボ、ぼくはだから…」
抑えきれなくなり、人目もはばからず笑いに笑った加夏子は、まだヒクヒクと引きつりながら優しく声を発した。
「いいの、とっても新鮮。ケンちゃんだってワタシを呼び捨てにした事なかったし」
「ケンちゃんって…病院に来てた大学生くらいの人?」
「そう、幼なじみなんだ。好きだった…昔」
虚を突かれ、殉が黙り込む。
「あこがれ、だったのかなぁ。何時も側に居てくれるカッコいい幼なじみ。恋してると思っちゃうよね普通…」
港からの潮風に髪をなびかせながら、加夏子は呆々と島影を眺めていた。
「違うの。人が人を好きになるって、当たり前みたいに居た人とくっつく事なんかじゃない。出会って、戦って、判り合って…それでやっとスタート地点。それをワタシに教えてくれたのは貴方よ、ジュン」
「カナ…」
見つめ合う二人に、漁師姿の男が近付いてきた。
(続く)