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第八十四章

第八十四章


 怒った訳でも、いじけてすねたりした訳でもない。


 加夏子はただそっと、向かいの席に座った殉の頬に掌を触れただけだった。俯き続けていた顔がはっと上向く。

「何を悩んでるか知らない。聞かない。私にはジュンがいる。それで充分。でもワタシが話しかけたらこっちを向いて返事して。じゃないと寂しい…」

「カナちゃん…」

「いい加減、カナって呼び捨てにしてもいいんじゃない?そのへんのバカップルよりもウンと沢山!絆を持ってる筈でしょ、わたしたち」


 殉は言葉を返せなかった。

加夏子の言葉は、彼の心から暗雲を払うかのような光を…暖かな光を照らし続けていた。


 だらしないなぁ、僕は

 彼女を守るって決めたんだろ

 カッコ悪いや


 「…ごめん。色々、考え事してたんだ。もう大丈夫」

「かんがえごと?だいじょーぶ?ナァ〜ニそれ、ジュンっぽくないぞぉ」

加夏子が屈託無く笑う。

釣られて殉も笑った。

「そうだな、らしくないね、こんなの」

「そ〜だよ〜、長官がここに居たらブンセキされちゃうぞ〜!」


 包み込むように加夏子を抱きしめる。

言葉が止まった。


 「…今、好きだって言ったらカナはどうする」

「…こうする…」

身体を離した加夏子の唇だけが殉のそれに重なる。

柔らかな想いが、殉から最後の逡巡を拭い去っていった…


◇


 渋谷駅前。スクランブル交差点。


 慌ただしく道を渡る人、人、人…

その中に三人の人影があった。どの影も動かない。


 「久しぶりだな、鴉」

影の一つが口を開いた。

「お前か」

もう一つの影が答える。

「1年も何処をほっつき歩いていたんだ?タフな奴だ。ライオットガンは応えただろうに」

その影はくわえていた煙草を向かいの影に放る。

胸元にぶつかった煙草が火の粉を散らして路上に落ちた。

「あれ位でくたばるとは、お前も思っちゃいないだろう?」

その影は足下の煙草をにじり潰した。

「…決着をつけるか?ここで」

沈黙を守っていたもう一つの影が動く。

「止めておこう。他にやらなきゃならん事があるんでな」

「貴様に”殺し”以外の愉しみがあるのか?」

「ある。愉しみじゃないが、な」


 三つの影は、信号に促されるようにその場を去っていった。


(続く)

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