第六十二章
第六十二章
心、とは何であるか。
古来より多くの賢者、覚者が呻吟し、今尚答えの出ない人類の永遠の命題である。
ある者はそれを神の祝福の証といい、ある者は人と獣を分かつ境界であると説く。心とは魂そのものであると誰かが言えば、そんなオカルティックなものではない、もっと普遍的な人間の徳性の表れだと異を唱える者が出る。
かくして百花繚乱の議論は、確たる結論のひとつも出せぬまま現在まで続けられてきた。
最新の大脳生理学は、心が莫大な量の神経細胞網、ニューラルネットワークにより構築された高度な情報処理系の、幾つかの領域に分かれて相互に監視・干渉・補助を行う過程で生じた脳内システムの錯覚…”我思う 故に我あり”という有名な言葉を借りるならば、”我を我と認識する我は 既に我とは別の我である”とでも言い表す事が出来る…である可能性を示唆している。
肉体と脳を切り離して考えられないように、脳もまた肉体の存在を前提としなければ、その能力について説明する事は出来ない。そういう意味では、例え霊魂というものが未知の形で死後、存在するものであったとしても、肉体という自在に動くセンサー群を喪っている時点で、それは既に人間とは違うものであると言えるであろう。
極めて乱暴かつ簡単に心というものを定義するなら、それは数多くの神経細胞の発する信号の無限に近い組み合わせと言う事が出来る。
人が決して他者そのものになれないのは、一つには肉体の性能に個体差があり過ぎるという点があげられるが、生物学的に互換性があり又、通信手段は必ずしもテレパシーなどという未知の能力を必要とせず、互いの感覚器に情報を与えあえば事足りるので大きな障害にはならない。
(顔をしかめ、それを見るといった行為は立派な通信の一形態である)
問題は、互いの持つ莫大な各種信号に同期する事が事実上不可能であるという点にある。
殉のサイコダイブという能力にしても、同期出来る相手の情報…信号量は全体のほんの僅かにしか過ぎず、ただそれが常人より多いというだけに過ぎないのだ。
今、彼は加夏子という情報の一端に自分のそれを重ね、別の情報群にアクセスしようとしていた。
だがそれは、彼を頑なに拒むものであったのだ。
(続く)