第三十五章
第三十五章
「…趣味、ですって?」
恵美子は耳を疑った。
「それじゃ先生は、彼女を趣味で治療してると言うのですか! 自分の利益だけ考えて主治医を引き受けたとおっしゃるのですかっ!?」
椅子を揺らすのを止め、九十九がユラリと立ち上がる。
ゆっくりと両手を白衣のポケットに入れた彼は、もう欠片も笑っていなかった。
「許されるんだよ、衣笠クン。それが患者の利害と一致する場合は、ね。長い長い医療の歴史がそれを証明している」
厳かに、だが少しの人間味も見せず九十九は恵美子に宣告した。
「今はまだその時期では無い。今日の有り様を見れば明白だ。衣笠クン、君には大事な役を演じてもらう。二人を監視し、来るべき日まで二人を引き離し、その時が来たら接触させる。二人きりでだ」
瞬きもせず恵美子の目を覗き込んで喋る九十九の前に、彼女は射すくめられた蛙のように身動きがとれなかった。
ヘビに睨まれた蛙…
いや、九十九はまるでメフィストフェレスのようだ
地獄の知恵を授ける悪魔の王…
「ど、どうしてワタシが?…」
唾を飲み込もうとしたが、口の中がカラカラに乾いていた。
「キミも知りたいんだろ? あの少年の『力の秘密』を。もしかすると君の恋人も回復する望みがあるかも知れないからねぇ〜」
九十九が唇の両端を引き上げてニィ〜と笑う。
V字を描く悪魔の笑みだった。
今度こそ恵美子は驚愕した。
どうして…?
「君の経歴はとっくに調査済みだ。君がどうして看護師を志したか、どうやって彼女の担当になったか。そして彼… 堀川殉の能力に尋常でない興味をしめすのか。助けたいんだろ? 若年性アルツハイマーの彼氏を」
全てを見抜かれていた恵美子には、九十九の申し出を受け入れるしか残された道は無かった。
ベンチに座ったまま、恵美子は空を仰いだ。
寒さの強い冬の空は、雲一つなく澄み渡っている。
「こんな所でたそがれてるなんて、らしくないぜ、エミちゃん」
聞き慣れた声がすぐ近くから響いた。
視線を下ろした恵美子の目に、見慣れた男の姿が映った。
「銀…さん…」
立ち上がった恵美子は、銀さんに抱きつくと人目もはばからず泣き始めた。
まるで幼ない子供のように。
(続く)